夢の中
夢の中で、私は生まれて初めて人を好きになった。
一目惚れだった。
夢の中の私は体が弱く、何度も入退院を繰り返していた。
友達と遊んだことはほとんどなく、家族と旅行に行ったこともない。家にいるよりも、病院にいる時間の方がずっと長い。夢の中の私にとって病院はまるで、監獄だった。
彼と出会ったのは、監獄の様な病院の廊下だった。
彼とぶつかり、私はよろけた。転ぶ、と思い咄嗟に目を閉じる。でも、転ぶことはなかった。彼が私の肩を優しく受け止めてくれたからだ。
目を開けた私が見たものは、転びそうになった私を心配そうに見つめる彼の顔だった。
肩越しに彼の体温が伝わって来た。とても暖かい手だった。まるで、雪が降る冬の日に巻くマフラーの様な温かさだった。
彼が困惑した様子で「大丈夫ですか?」と私に声を掛ける。私は「大丈夫……です」と答えた。人と話すのは苦手だ。そんな私の声はとても小さく、たどたどしい。
でも、彼は怪訝な顔をすることもなく。「良かった」と言って、ホッと息を吐いた。私が無事だと分かり、本気で安堵している顔だった。
その顔を見た瞬間、私は恋に落ちた。
私は願った。
この人とずっと、一緒にいたいと。
私は確信した。
これからずっと、私はこの人と一緒にいることになると。
そして、確信した通り、私の願いは叶うことになる。
夢ではなく、現実で。
* * *
生物部では色々な生き物を飼っている。その中で一番大きな生き物。それは『アフリカツメガエル』だ。
カエルは完全に水の中で生活する水生、陸と水中で生活する半陸生、主に陸上で生活する陸生の三つに分けられるが、アフリカツメガエルは一生を水の中で生活する水生のカエルだ。
「ほとんどのカエルは餌を動かさないと、それを食べ物と認識できないけど、アフリカツメガエルは餌を動かさなくても食べ物と認識できるから、他のカエルに比べて餌やりが楽なんだ」
「なるほど」
水槽の中にいるアフリカツメガエルを指差しながら波布さんは尋ねる。
「この子はどこで?」
「う……うん、この子は裏山の池の中にいたんだ」
以前、学校の裏山の池にはアフリカツメガエルが大量にいた。
アフリカツメガエルは名前の通り、アフリカに生息しているカエルで日本のカエルじゃない。たぶん、飼っていた誰かが裏山の池に捨てたのだろう。
捨てられたアフリカツメガエルは池の中で爆発的に繁殖した。裏山の池の中はアフリカツメガエルだらけとなり、元々そこにいた小魚や水生昆虫はアフリカツメガエルに喰い尽くされてしまった。
「それで、裏山の池からアフリカツメガエルを駆除することになって、僕もそれに参加したんだ。ほとんどは駆除したけど、一部は大学の研究所に引き取られていった。絶対に外に逃がさないって条件でね。僕もこの子だけもらったんだ」
「なるほど、そうだったんですね」
「う、うん、まぁ」
波布さんは興味深そうに水槽を覗く。ところで、どうして僕の言葉が何処かたどたどしいのかというと……。
「あの……波布さん」
「なんですか?」
「少し離れてくれない?」
さっきから水槽を覗き込む、波布さんの胸が僕の肩に当たっているのだ。当たっているというか、乗っている。
「ですが、それだとよく見えません」
「じゃあ、僕が離れるから……」
「それだと、説明してくれる人がいなくなります。ですから雨牛君はこのままでお願いします」
その場から離れようとした僕の肩を波布さんが掴んで元の場所に戻す。柔らかなものが、また肩に当たる。というか乗った。
「……」
抵抗することを早々に諦めた僕は、出来るだけ肩に意識を向けないようにした。
その日の部活動は終わり、下校時間となる。
「では、行きましょうか」
「うん」
波布さんが入部してから、僕はいつも彼女と一緒に下校している。
嘘の交際は終わったので、一緒に帰る必要はもうないのだが、気付けば何故か一緒に帰ることが習慣になっていた。
僕はふと、波布さんの横顔を見る。暗くてよく見えないが僕と一緒にいるからなのか、波布さんの頬はほんの少し紅くなっているような気がした。
「どうかしましたか?」
僕の視線に気付いた波布さんが不意に聞いてくる。
「え、ええっと」
横顔を見ていたなんて、恥ずかしくて言えない。僕は咄嗟に誤魔化した。
「『奇妙な生物』って何なんだろうね!」
僕の言葉に、波布さんは首を少しだけ傾けた。
「だ、だからね。波布さんの『シロちゃん』もそうだけど、普通の人間には『奇妙な生物』は見ないでしょ。なのにどうして、僕達には見えるのかなって」
波布さんは、そっと自分の顎に手を添える。数秒程何かを考えた後、口を開いた。
「人間が観測できるものは実は、ひどく曖昧です。人間の目はある領域の波長の光しか認識することが出来ません。しかし、認識できないからと言って、存在していない訳ではありません。例えば“紫外線”や“赤外線”は人の目には認識できませんが、確かに存在しています」
「うん」
「一方で、昆虫は人間には認識できない“紫外線”を認識することが出来ます。それによって、昆虫は人間とは全く違った『色』を認識しています」
波布さんの話に僕は深く頷いた。
人間の目には一色にしか見えない花の色が、紫外線を認識できる昆虫には複数の色に見える。人の目には白色の花が、昆虫の目には色鮮やかな花に見えるのだ。
「『奇妙な生物』は最初からそこにいます。しかし、普通の人間には知覚できない領域に存在しているため、見えないのだと思います」
「でも、僕達には見える……」
「はい」
波布さんは真っ直ぐ僕を見る。
「私が『奇妙な生物』を見ることが出来るようになったのは、事故が原因である可能性が高いです」
「事故……」
波布さんは幼い頃、事故に遭ったのだそうだ。そして、目を覚ますと『奇妙な生物』が見える様になっていた。
「おそらく、事故の影響で私の体に何かが起きたのでしょう。そのせいで普通の人間には認識できない“領域”に足を踏み入れてしまった」
波布さんは淡々と語る。普通の人間なら、そんな“領域”に足を踏み入れてしまったら、おかしくなってしまうだろう。でも、波布さんはその“領域”に足を踏み入れても何も変わらない。
「本来は認識されない“領域”。紫外線や赤外線は機械を使えば観測できますが、『奇妙な生物達』は機械を使っても観測できません。そんなものは普通の人間にとっては存在しないものと同義です。ですが、私達見える人間にとっては『彼ら』は確実に存在している」
風が吹いた。波布さんの綺麗な黒髪がサラリと揺れる。
「妖怪、精霊、怪物、魔物……その殆どは、人の空想による産物でしょう。しかし、中には私達の様に『見える』人間が描いたものもあるのかもしれません」
波布さんはフッと微笑む。それは暗闇と同化してしまいそうな笑顔だった。
「でも、どうして僕にも見えるんだろう?」
「雨牛君は私の様にこれまで、大きな事故に遭ったことはありません。だとすると、事故が原因で『奇妙な生物』が見えるようになった訳ではないでしょう」
波布さんの言う通り、僕はこれまで大きな事故に遭ったことはない。
でも、それを波布さんに言った覚えはない。どうして僕が大きな事故に遭ったことがないと知っているのか、問い掛けたかったけど、その前に波布さんが口を開いた。
「可能性があるとすれば……私と一緒にいるからでしょうか」
「波布さんと?」
「はい」
波布さんはコクンと首を縦に振る。
「雨牛君、私と一緒にいる時以外で、『奇妙な生物』を見たことがありますか?」
「……ううん、ない」
僕が『奇妙な生物』を見るのは決まって、波布さんが近くにいる時だ。僕が一人でいる時に『奇妙な生物』を見たことはない。波布さんは納得したように頷く。
「私の存在が、雨牛君の体に何らかの影響を与えているのかもしれません」
「波布さんの存在が……僕に?」
「きっかけは、おそらくキスです」
「キ、キス?」
「私と雨牛君が初めてキスをした時、私の唾液が雨牛君の口の中に入ったのでしょう。雨牛君は私の唾液を飲み込んで体の中に取り込んだ」
「だ、だえ……」
一瞬で顔が熱くなる。たぶん、僕の顔は今、トマトの様に紅く染まっていることだろう。
そういえば、僕が初めて『奇妙な生物』(大きなカナヘビだった)を見る前、波布さんに(かなり激しい)キスをされたのだった。
「私の唾液を取り込んだせいで、雨牛君の体にも変化が起きた。ですが、雨牛君一人だけでは『奇妙な生物』が見えるようになるには至らなかった。しかし、私の近くにいる時のみ、雨牛君の体は私と共鳴して『奇妙な生物』が見えるようになるのだと思います」
「なるほど」と僕は頷く。とても納得できる説明だった。
「じゃあ、僕が『奇妙な生物』が見えるようになったのは波布さんのおかげって訳か……」
僕がそう言うと、波布さんは不思議そうな目で僕を見た。
「雨牛君は『奇妙な生物』が見える様になってしまったことに不満はないのですか?」
「まぁ、最初は怖かったけどね。でも、今は違うよ」
あの巨大なカナヘビや波布さんの『シロちゃん』を見た時は、とても怖かった。でも、何度か見ている内に次第に慣れていった。
そして、慣れる内に彼らのことをもっと知りたいと思った。
確かに彼らは、恐ろしい部分もある。人間を襲うものもいるし、奏人のように人を傷付ける道具として使う人間もいる。でも、ほとんどの『奇妙な生物』は人間に害をなすことはない。彼らは、彼らで現実の生き物と同じように精一杯生きているだけなのだ。
「そうですか」
波布さんは、安心したようにホッと息を吐いた。
「実は不安だったのです」
「不安?」
「はい、雨牛君は『奇妙な生物』が見えるようになって、嫌な思いをしているのではないのかと……」
波布さんは静かに僕を見つめる。その目はどこか不安に揺れていた。
「そんなことないよ。波布さんのおかげで『奇妙な生物』が見えるようになったのだとしたら、寧ろ感謝したいぐらいだよ」
僕は出来るだけ優しく微笑んだ。
「……雨牛君」
「何?」
「愛しています」
「えっ?」と聞き返した瞬間、頬に柔らかいものが触れた。
「では、また明日」
そう言うと、波布さんは自分の家に入って行った。いつの間にか彼女の家に着いていたらしい。
「……また、明日」
僕は頬を紅くしながら小声で呟いた。
* * *
日曜日、僕は鰐淵先輩を見舞うために、先輩が入院している病院に来ていた。
先輩の意識はまだ戻っていない。眠っている先輩の体には様々な機械が取り付けてある。その姿を見る度に胸が痛んだ。
僕は近くに置いてある花瓶に持って来た花を生けると、先輩に声を掛けてみた。でも、先輩は何の反応も見せない。
「また来ます」
そう言って、僕は先輩の病室を後にした。
病院に来るたびに、自分の無力を思い知る。先輩があんな目に遭っているのは元はと言えば僕に責任がある。僕が奏人のことをもっと見ていれば、先輩は事故に遭わずに済んだかもしれないのだ。
僕の脳裏に元気だった頃の先輩の笑顔が浮かんだ。一日でも早く、また先輩があの笑顔を……。
そんなことを考えていると胸にドンと何かがぶつかった。
「きゃっ」
僕の目の前には一人の少女がいた。少女はバランスを崩し、今にも倒れようとしている。
「危ない!」
僕はとっさに、少女の肩を抱いた。
「大丈夫ですか?」
少女は少し困惑した様子で僕を見る。
「大丈夫……です」
少女は小さな声で答えた。
「良かった」
僕はホッと息を吐いた。考え事をしていて、人に怪我を負わせるなんて、絶対にあってはいけない。少女に怪我がないことに心の底から安堵する。
少女は目を見開いて僕を見ている。とても驚いたのだろう。興奮のあまり頬が紅く染まっている。
「あっ、すみません」
少女の肩を触ったままだった。僕は少女を立たせ、肩から手をどける。
「いえ……」
少女は自分の肩にそっと手を置いた。
「では」
僕は少女の横を通り、病院の出口へと向かう。
「あの!」
突然、背後から廊下中に響く大きな声がした。驚いて振り返ると、先程の少女が小走りで近づいて来た。
「あ……あの」
「どうかしましたか?あっ、もしかしてどこか怪我でも?」
「い、いえ……違います!」
少女は両手を振り、否定する。それから顔を伏せ、沈黙してしまった。僕は彼女の次の言葉を待つ。
「……あ、あの!」
「はい」
「お、お……」
(“お”?なんだ?)
僕は『お』が付く言葉を考えてみる。でも、少女が何を言おうとしているのか分からなかった。考えている内に、少女がゆっくりと口を開く。
「お、お名前を教えてください!」
少女は真っ直ぐ僕を見る。とても綺麗な目をしていた。
「えっ……と」
いきなり名前を聞かれ、困惑する。一瞬、言おうかどうか迷った。
でも、あと少しで怪我をさせてしまう所だったという負い目もあり、僕は正直に自分の名前を答えることにした。
「“雨牛”といいます」
僕が名前を告げると、少女は小声で何度も「雨牛さん」と繰り返した。まるで、決して忘れないように心に刻みつけるように。
「あ、あの、わ、私の名前は……」
少女は、澄んだ目で自分の名前を僕に告げた。
とても綺麗な名前だと思った。




