蛇はどこまでも追いかけてくる
栗鼠山に告白して数日が経った。告白をしてから、僕は栗鼠山と一言も話していない。栗鼠山は明らかに僕を避けていた。
僕は何度か栗鼠山に声を掛けようとした。でも、結局何も言えなかった。
ある日栗鼠山は、僕の前から姿を消した。誰にも何も言わず、栗鼠山は突然、転校したのだ。
放課後、僕は急いで栗鼠山が住んでいた家に行ってみた。でも、既にその家は空き家となっていた。周辺に住んでいる人達が何か知っているかもしれないと思い、色々と聞いてみたけど、栗鼠山一家が何処に行ったのか知っている人はいなかった。
最初は、騒ぎとなった突然の栗鼠山の転校。でも時間が経つにつれ、話題にする人間はいなくなった。時間の経過と共に皆、栗鼠山がいない状況に慣れていった。
僕以外は。
何故、栗鼠山は突然いなくなったのか、僕には分からない。
仕事の都合?夜逃げ?それとも、まさか、僕の告白が原因?
栗鼠山がいなくなってから、僕はいつも彼女がいなくなった理由を考えている。
でも、納得できる答えを出すことは未だにできていない。
「生物部が廃部になるかもしれない」と生物部の顧問に告げられたのは、栗鼠山がいなくなって直ぐのことだった。顧問曰く「一人しかいない部活は部として認められない」と言われたのだそうだ。
生物部が近々、廃部されるかもしれないということは薄々気付いていた。生物部は廃部の危機に陥ったことが何度もある。その度に鰐淵先輩が尽力してくれたため、なんとか廃部の危機は免れていた。
でも、その先輩がいつ目覚めるかも分からない状態となってしまったため、今回、生物部廃部の動きに一気に傾いたのだ。
先輩がいなくなってからも、廃部だけはなんとか避けようと頑張って来た。だけど、何の実績もない僕一人では、明らかに力不足だった。そして、とうとうその時がきた。
顧問の言葉に僕は小さな声で「分かりました」とだけ返した。
それから、暫くして生物部の廃部が正式に決定した。
「今日で最後か……」
生物部最後の日、僕は独り言を漏らしながら、部室である理科室に向かう。
覚悟していたこととはいえ、いざその日を迎えると、色々な感情が湧き上がってきて、足がとても重くなる。
生物部で飼育していた生き物は、飼ってくれる人を見付つけたり、他の学校に引き取ってもらうことになっている。数日もしない内に理科室から生き物はいなくなるとのことだ。
「はぁ……」
僕は溜息を付きながら、理科室のドアを開けた。
「こんにちは、雨牛君」
ドアを開けると、そこに一人の女の子が立っていた。彼女は飼育しているメダカに餌をやっている。
「波布……さん?」
「はい、お久しぶりです」
告白を断ってから、僕は波布さんと話をしていない。こうやって面と向かって話すのも久しぶりだ。
「どうしたの?将棋部は?」
波布さんはニコリと微笑んで答えた。
「辞めました」
「えっ?」
「そして、先程生物部に入部しました」
波布さんは「よろしくお願いします」と言って一礼した。とても綺麗な動作だった。
「ええええええ!?」
気付けば、僕は叫んでいた。
「しょ、将棋部を辞めた?」
「はい」
「なんで!?」
波布さんはただの将棋部の部員ではない。将棋部のエースだ。彼女目当てで、将棋部に入部した人間はとても多い。その波布さんが将棋部を辞めるなんて、事件だ。
「この学校では部活を兼任することが出来ません。生物部に入るためには、将棋部を辞める必要があります。ですので、辞めてきました」
「な、なんで、将棋部を辞めてまで生物部に……」
「雨牛君の居場所を守るためです」
「え?」
「言いましたよね?“私がなんとかします”って」
僕は、はっとなる。あれは、僕と波布さんが嘘の交際をしていた時のことだ。僕は波布さんに『部活、なくなるかもしれない』と言った。それを聞いた波布さんは確かこう言った『分かりました。私が何とかします』と。
色々あって、すっかり忘れていた。
「ありがとう、波布さん」
思わず顔がほころぶ。僕が忘れていた約束を波布さんが覚えてくれていたこと、そして、その約束を守ろうとしてくれたことが、とても嬉しかった。
「でも、ごめん。実は……生物部は今日でなくなるんだ」
波布さんが心配しないように、僕は出来るだけ明るい声で話す。
あの時、僕は生物部が廃部になる理由を部員が僕一人しかいないためだと説明した。だから、波布さんは将棋部を辞めて、生物部に入ろうとしてくれたのだろう。
「波布さんの気持ちはとても嬉しい。でも、なくなる部活のために波布さんが将棋部を辞めることはない。もしも、もう退部届を出したのだとしても今なら、まだ大丈夫。僕のために部活を辞めたことを話せば、きっとまた……」
「なくなりませんよ」
「え?」
「生物部はなくなりません。安心てください」
波布さんは確信した口調で話す。「どういう意味?」と聞こうとした時、理科室のドアが開いた。
「おう、雨牛」
「先生」
生物部の顧問、蛞下先生だ。先生は頭をボリボリ掻きながら、理科室に入ってきた。
「雨牛。生物部の廃部が撤廃された」
「え?」
「だから、生物部の廃部が撤廃されたんだよ」
目を大きく見開きながら、僕は視線を波布さんに向けた。波布さんはニコニコと微笑んでいる。
「撤廃?どうしてですか!?」
「さぁな、俺には分からん」
蛞下先生は、興味なさそうに大きく欠伸をする。
「と、言う訳だ。引き続き頼むな」
「ちょっ、先生!」
「あ、それと今日から波布が入部するから。仲良くしろよ」
自分の仕事はもう終わりといった態度で、蛞下先生はそのまま理科室を後にした。
「どういうこと?波布さん?」
混乱したまま、僕は波布さんに尋ねた。
「生物部の廃部を決めた方々を“説得”しました」
波布さんは、サラリと言う。
「“説得”って、一体どうやって?」
「それは、内緒です」
波布さんは人差し指を唇に当てる。
「内緒?」
「はい、相手方のプライバシーにも関わりますので」
普通の高校生が一度決まった廃部を撤回させるなんて、まず無理だ。
でも、波布さんは普通じゃない。彼女の頭脳、財力、そして行動力をもってすれば、一度決まった廃部を撤回させることも難しくないのかもしれない。
(それにしても、こんな短期間で……)
思わず身震いした。一体どう“説得”して、生物部の廃部を撤廃させたのだろう?とても気になる。でも、僕の疑問は波布さんの次の一言で霧散した。
「これからよろしくお願いします。『部長』」
「えっ?部長?僕が?」
「鰐淵先輩はまだ入院していて、私は入部したばかりです。となれば、雨牛君が部長をやるのは自然なことです」
「そうだけど……」
まぁ、二人だけしかいない部活の部長なんて名ばかりだ。それに、鰐淵先輩が戻って来れば、また先輩が『部長』となる。でも……。
「波布さん、本当に入部するつもりなの?」
「というより、もう入部しています」
「あっ、そうか」
僕は言葉を変える。
「波布さん、将棋部に戻るつもりはないの?」
「はい、ありません」
波布さんはきっぱりと答える。
「とりあえず“説得”には成功しましたが、部員が雨牛君一人だけのままでは、また別の誰かが、何かを言ってくるかもしれませんから」
「だけど」
「他に生物部に入部してくれそうな人がいるのですか?」
「うっ」
言葉に詰まる。帰宅部を中心に結構な人数を生物部に誘ってみたが、入部してくれる人は一人もいなかった。
「では、決まりですね!」
波布さん両手を合わせて、ニコリと微笑む。どんな反論も寄せ付けない迫力のある笑顔だった。そんな笑顔をされてしまっては、納得するしかない。
「分かった」
僕はニコリと微笑む。
「波布さん。ようこそ、生物部へ」
「はい」
波布さんはスッと右手を差し出してきた。
「では、改めてよろしくお願いします。『雨牛部長』」
『部長』という言葉に照れながら、僕は波布さんと握手をするために、差し出された右手を握った。
「よろしく。波布さ……ん!?」
波布さんは掴んだ僕の手を自分の方にグイッと引っ張った。体勢を崩した僕の唇に波布さんの唇が重なる。
「んっ」
「んんっ!?」
たっぷり一分以上キスをすると、波布さんはそっと僕の唇から自分の唇を離した。呆然とする僕に波布さんは、妖艶な表情を向ける。
「雨牛君、私は貴方を諦めません」
波布さんは僕の耳元に口を寄せると、ゾクゾクする声で囁いた。
「な、波布さん……」
何かを言わなければと思った。波布さんの肩を掴み、押し返さなければと思った。でも、まるで神話に出てくるメデューサの目を見てしまったかのように、僕は動けなくなってしまった。
「貴方は、今はまだ私のことを愛することはできないでしょう」
動けない僕の耳元で波布さんは囁き続ける。吐息が耳に掛かり、全身が震えた。
「ですが、いつか貴方は私のものになります。いつか……必ず」
そう言うと、波布さんは僕から一歩離れた。
「さぁ、では初めに何をしますか?雨牛部長?」
波布さんは先程とは打って変わり、天真爛漫な笑顔を僕に向けた。
波布光。『波布』という漢字は『なみふ』と読む。だけど、こう読むことも出来る。
『ハブ』
蛇には二種類いる。毒を持つ蛇と持たない蛇だ。
毒蛇は、まず相手に噛みつき毒を注入する。毒を打ちこまれた獲物は、一時的に毒蛇から逃げることができたとしても、やがて毒が体に回り、動けなくなる。毒蛇はその後を追いかけ、動けなくなった獲物をゆっくり喰らう。
そして『ハブ』は『毒』を持っている。
もしかしたら、僕はもう既に彼女に『毒』を打たれてしまったのかもしれない。
振られた今も、僕はまだ栗鼠山のことを忘れられないでいる。だから、波布さんの気持ちに応えることはできない。
でも、もし『毒』を打ちこまれてしまったのだとしたら、僕は彼女から逃げ続けることはできない。毒で動けなくなった僕はいずれ彼女に捕まってしまう。
そして、僕に『毒』が回りきるまで、彼女は僕をどこまでも追いかけてくるだろう。まるで『蛇』のようにどこまでも、どこまでも……。




