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蛇はどこまでも追いかけてくる  作者: カエル
第一章
27/73

化物②

「がっ!」

 思わぬ衝撃を受けた栗鼠山はグラリとよろめく。

(一体、何が?)

 痛む鼻を押さえながら、栗鼠山は顔を起こす。すると、自分に向かって走ってくる波布の姿が目に映った。波布はあっという間に栗鼠山の目と鼻の先まで迫る。

「うわあ!」

 栗鼠山は慌てて、持っていた彫刻刀を波布に振るった。だが、波布は低く栗鼠山の懐に潜り込み、彫刻刀を躱す。

「がっ!」

 次の瞬間、栗鼠山は投げ飛ばされていた。床に激しく背中を叩きつけ、一瞬呼吸が止まる。

 波布は栗鼠山をうつ伏せにして、その上に乗ると栗鼠山の両手、両足を縄で素早く縛り上げると、栗鼠山の手から彫刻刀を取り上げた。

 栗鼠山は完全に拘束され、全く身動きが取れなくなる。

「は、離せ!」

 栗鼠山は波布の下で暴れるが、拘束は少しも緩まない。栗鼠山の視線の先に、開いた学生鞄がある。

 先程、栗鼠山の顔に当たったのは波布が投げた学生鞄だった。栗鼠山を拘束している縄はあらかじめ鞄に入れておいたもので、投げる直前に取り出しておいた。

(くそ、鞄も奪っておくべきだった!)

 栗鼠山は後悔するが、もう遅い。

(こうなったら、また幻覚を掛けるしかない!)

 波布には幻覚の弱点を見抜かれている。しかし、この拘束から抜け出すには、他に方法がない。

そう思った栗鼠山は自分の『化物』に目を向けた。

「なっ!?」

 目に飛び込んできた光景に、栗鼠山は思わず叫んだ。


 さっきまで優勢だったはずの栗鼠山の『化物』は波布の『シロちゃん』に巻き付かれていた。『シロちゃん』に絞めつけられている栗鼠山の『化物』は苦しそうに手足をばたつかせている。


「なんで!?」

「貴方が動けなくなったことで、貴方の『奇妙な生物』も動けなくなったのです」

 叫ぶ栗鼠山に波布が答える。

「“宿主を縛り上げれば、中にいる『化物』は動けなくなる”貴方が言ったことです」

 栗鼠山は、ハッとなる。

 宿主である栗鼠山が拘束され動けなくなったので、栗鼠山の『化物』も動けなくなってしまったのだ。波布が栗鼠山の幻覚で動けなくなると『シロちゃん』も動けなくなったように。

 動けなくなった栗鼠山の『化物』は『シロちゃん』の攻撃を躱すことが出来なかったのだ。

「此奴に幻覚を掛けろ!早く!」

 栗鼠山は叫ぶが、『化物』は拘束から逃れようと必死で、栗鼠山の声は届いていない。

『シロちゃん』の締め付けが強くなる。栗鼠山の『奇妙な生物』は最早動くことすらできなくなった。

 ガパァと『シロちゃん』は大きく口を開くと、栗鼠山の『化物』の頭に喰らい付いた。そのまま、栗鼠山の『化物』を飲み込み始める。

「や、やめろ!止めて、やめてえええええ!」

 栗鼠山は狂ったように叫ぶが『シロちゃん』は飲み込むのを止めない。ズブズブと栗鼠山の『化物』が『シロちゃん』に飲み込まれていく。

 やがて、『シロちゃん』は栗鼠山の『化物』を尻尾の先まで、飲み込んでしまった。

「あ、ああ!」

 腹を大きく膨らませた『シロちゃん』を見ながら、栗鼠山が絶望の声を漏らす。

「ご苦労様でした」

 波布が優しく『シロちゃん』に声を掛ける。『シロちゃん』は波布を一瞬見た後、大きく欠伸をすると、そのままスゥと消えた。


 後には、波布と栗鼠山。人間である二人だけが残された。


「さて」

 波布が栗鼠山に視線を落とす。栗鼠山は「ひっ!」と短い悲鳴を上げた。

「た、助けて!お願い!な、何でもします!」

 自分の『化物』がいなくなるや否や、栗鼠山は態度を一変させ、助命を懇願し始めた。

「そ、そう!私はあの『化物』に操られていたの!だ、だから……」

 波布は彫刻刀を栗鼠山の首に押し当てる。

「少し、静かにしてもらえますか?」

 波布は冷たく、静かな声でそう言った。栗鼠山はグッと口を紡ぐ。

「ありがとうございます」

 波布は栗鼠山の首から彫刻刀を離す。

「栗鼠山さん、私は最初から貴方の命を取るつもりはありません」

 波布の言葉に栗鼠山はバッと顔を上げた。

「警察に突き出すつもりもありませし、雨牛君にも貴方が奏人さんをはじめ、大勢の人間を殺していたことを言うつもりはありません」

 栗鼠山は媚びたような笑みを波布に向ける。

「あ、ありが……」

「貴方のためではありません、雨牛君のためです」

 栗鼠山の礼の言葉を遮った波布は強い口調で話す。

「雨牛君は今、深く傷ついています。鰐淵先輩は重傷で今も意識不明です。友人だった奏人さんは、お亡くなりになりました。もし、幼馴染である貴方がお二人の事に関わっていると雨牛君が知れば、更なるショックを受けます。しかも、貴方は鰐淵先輩や奏人さん以外にも大勢の人間を死に追いやっている。その理由は『雨牛君を手に入れるため』。そんなことまで知ってしまえば、雨牛君が受けるショックは計り知れないものになります」

「……」

「そんなことになれば、優しい雨牛君のことです。自殺してしまうかもしれません。それだけは……それだけは、あってはなりません」

「……」

「ですから、私は貴方がしたことを誰にも言いません。雨牛君のために」

「な、波布さん」

「ですが、このままで……という訳にもいきません。貴方には、今後、いくつかのことをやってもらいます」

「な、何?」

「まず『雨牛君の告白』を断ってもらいます」

「え?」

 栗鼠山は目を大きく見開く。

「私の勘ですが、おそらく、近い内に雨牛君は貴方に告白します」

「あ、雨牛君が、わ、私に?」

 栗鼠山の顔が幸せに満ちた笑顔になる。拘束されたことなど忘れ、人生の中で一番の幸福に満たされる。

 しかし、その幸福は直ぐに砕かれた。

「ですが、その告白に応えてはいけません」

「え?」

「雨牛君に告白されても断って下さい」

「え?あっ……あ」

「いいですね?」

 しばしの沈黙が下りる。だが、波布が「いいですね?」とさらに念押しすると、栗鼠山は静かに首を縦に振った。

「では、次に……」

 

 波布が全て言い終わると、栗鼠山は「はい」と小さく頷いた。

「それでは、今から貴方の拘束を解きます」

「あ、ありがとう」

 栗鼠山は波布に感謝の言葉を告げ、顔を伏せる。そして、心の中でこう思った。


(バーカ!)


 栗鼠山は波布に見えない位置で口を少し歪めた。

(雨牛君の告白を断れ?ほとぼりが冷めたら、両親を説得して転校しろ?そんなこと、守るわけないだろ!)

 栗鼠山は心の中で波布に唾を吐きかける。特に最初に言われたことはありえない。

(雨牛君のことを諦めるなんてありえない!ましてや、雨牛君の告白を断るなんて、絶対にありえない!)

 栗鼠山はガチリと歯を鳴らす。

(殺す!絶対殺す!波布光!この女だけは許さない!)

 もう、栗鼠山の中に『化物』はいない。今までの様に事故や自殺に見せかけて殺すことは出来ない。

(だけど、殺す!絶対殺す!殺す!)

 強い殺意が栗鼠山の中に溢れる。

(でも、今じゃない……)

 波布は恐らく何らかの格闘技を習っている。『化物』を失った今の栗鼠山が真正面から殺そうとしても無理だろう。

(癪だが、暫くはこの女の言うことを聞いた振りをする。そして、油断した所を……)

 栗鼠山が波布の殺害計画を心の中で計画していた時だ。栗鼠山の頭皮に強い痛みが走った。

「いっだっあ!」

 栗鼠山の首が大きく反らされる。波布が栗鼠山の髪を雑に掴み引っ張ったのだ。

「な、何を?」

「拘束を解く前にしておかなければならないことがあります」

「なっ、何……」

「上書きです」

「う、上書き?」

「はい、貴方は私の言うことを聞く気はないでしょう?この場では、とりあえず了承した振りをして、その後どう私を殺そうか考えている」

「!」

 自分の心の中を見透かされ、栗鼠山の心拍数がドクンと跳ね上がる。

「ち、ちが……そんなこと思って……」

「雨牛君に対する貴方の執着はとても強い。元々そうなのか、『奇妙な生物』によって歪められたのかは分かりませんが、どれだけ言葉を紡いでも貴方に雨牛君を諦めさせることは出来ないでしょう。ですから、雨牛君に対する貴方の執着を上書きします」

「ど、どういう……」

「奏人さんは、自分の行為が雨牛君を悲しませていた事に気付いたら、彼への執着が緩みました。ですが、貴方は例え、雨牛君が悲しむと知っても彼に対する執着を緩めることはないでしょう」

「……」

「ですから、ある『感情』で雨牛君に対する貴方の執着を上書きします。雨牛君のことを考えれば、執着よりもその感情が浮かぶ様に」

「ある……感情?」

「はい」

 波布は栗鼠山の耳に顔を寄せ、静かに囁いた。

「“恐怖”です」

「ひっ」

 栗鼠山の顔がグニャリと歪む。

「安心して下さい、もちろん殺しはしません。体にも傷一つ付けません。ただ……」

 波布は冷ややかな目で、栗鼠山を見た。

「生まれてきたことを後悔するような“恐怖”を受けてもらいます」

 波布の手がゆっくりと栗鼠山に伸びる。

「や、やめて!やめ、止めて。お願い、やめ……ぎゃあああああああああ!」


 圧倒的な“恐怖”を感じながら栗鼠山は思った。


 栗鼠山の虎と栗鼠を掛け合わせたような姿の生物、奏人のカナヘビの様な生物、そして波布の『白い大蛇』。

 栗鼠山と奏人はそれらの常人には見えない生物のことを『化物』と呼んでいた。対して、波布はそれらの生物を『奇妙な生物』と呼ぶ。

 栗鼠山も奏人も自分の『化物』に名前を付けていない。栗鼠山と奏人は自分の『化物』に愛着がないからだ。


 しかし、波布は自分の『化物』に名前を付けている。


 名前を付けるということは、少なくとも自分の『化物』に愛着があるということだ。

 何故、波布は自分の中にいる常人には見えない生物を『化物』と呼ばず『奇妙な生物』と呼ぶのか?そして、何故自分の『化物』に名前まで付けるほどに愛着を抱けるのか?栗鼠山には、分からなかった。


 でも、簡単なことだった。栗鼠山や奏人が『化物』と呼ぶ常人には見えない生物は、波布にとって『化物』でも何でもないのだ。


 何故なら、『化物』は波布自身だからだ。『波布光』、彼女自身が『化物』なのだ。


 だから、波布は常人には見えない生物のことを『化物』と呼ばず、『奇妙な生物』と呼び、自分の中にいる『白い大蛇』に名前まで付ける程、愛着を抱ける。


「お、お願い、もう、やめ……がああああああああああああああ!」

 白目を向きながら栗鼠山は波布の“恐怖”を受け続ける。波布の表情はひたすら冷たく、何の感情も浮かんでいない。『歓喜』も『怒り』も『哀しみ』も何もない。

 無表情で淡々と栗鼠山に“恐怖”を与え続ける。


 栗鼠山や奏人の中にいた『化物』とは比べ物にならない程の『化物』がそこにいた。


 栗鼠山が雨牛に抱いていた“歪んだ愛情”が“恐怖”に上書きされていく。

「やめてええええええ、助け……助けてえええええ!」

 栗鼠山は必死に叫ぶが頭の中では理解していた。どんな懇願しようと、波布は決して止めることはないと。そして、どんなに助けを求めても誰も助けに来ないことを。

 こんな地下で、地上に声が届くはずがない。当然、波布はそのことも計算して、栗鼠山を此処に連れてきたのだろう。


 栗鼠山は波布を見る。無表情な波布の顔は『蛇』そのものだった。


 この『蛇』はきっと約束を守るだろう。栗鼠山は死ぬことなく、解放される。体には傷一つ残らないだろう。しかし、もし栗鼠山が波布の言うことを聞かなかったら……またしても栗鼠山に“恐怖”を与えに来る。どこに逃げようとも、必ず。その確信がある。


 蛇はどこまでも追いかけてくる。


 蛇からは逃げられない。


「ああああああああああああああああああああああ!」


 誰にも声が届かない地下室で、栗鼠山の悲鳴はいつまでも響き渡った。








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