地下
雨牛の見舞いを終えた次の日。
栗鼠山は波布に連れられ、とある建物の中にいた。波布に腕を掴まれた栗鼠山は、引っ張られる様に建物の中を歩く。
「痛いよ、波布さん!離して!」
掴まれる腕が痛み、栗鼠山は叫ぶ。
「ああ、すみません」
波布は栗鼠山の腕から手を離すと、頭を下げた。栗鼠山は掴まれた腕をさする。
「もう、いいよ。ところで、まだ歩くの?」
「はい、もう少しだけ」
そう言うと、波布は再び歩き出した。栗鼠山はいぶかしげな目を波布に向けるが、黙って、後に続く。
やがて、二人の前に階段が現れた。波布はその階段を下に降り始める。
「えっ?降りるの?」
「はい」
今、栗鼠山と波布がいるのは建物の一階。下に降りるということは、地下へと降りるということだ。
「……」
「どうしました?」
「降りなきゃ、駄目なの?此処で話せない?」
「はい、下に降りなければ話せません」
波布は『雨牛のことで話がある。話はある場所でないと出来ない』と言って、栗鼠山をこの建物の中まで連れてきた。
しかし、何故、地下に降りる必要があるのか?栗鼠山には分からない。
「やめますか?」
躊躇する栗鼠山を波布は、じっと見る。波布の口調は淡々としたものだったが、その目は『拒否することは許さない』と言っている様に栗鼠山には見えた。
「……ううん、降りるよ」
「ありがとうございます」
礼を言うと、波布は階段を降り始めた。栗鼠山は覚悟を決め、地下へと降りていく波布の後を追った。
地下は、とても薄暗かった。
蛍光灯は点いているが、十分な明るさを確保しているとは言い難い。そんな地下を波布はスタスタと迷いなく歩いていく。
そして、波布はあるドアの前で止まった。
「此処です」
「此処?」
「はい」
波布は学生鞄の中から、鍵の束を取り出した。その内の一本をドアの鍵穴に差し込む。ガチャという音と共に鍵が開いた。波布はドアを開け、部屋の中に入る。
「さぁ、どうぞ中へ」
波布は部屋の中から、栗鼠山を招き入れる。栗鼠山はゆっくりと、部屋の中に入った。部屋の中は真っ暗で何も見えない。
「今、明かりを点けます」
そう言うと波布は、ドアの近くにあるスイッチを押した。電灯が一斉に点灯し、部屋の中に明かりが灯る。
「きゃあ!」
部屋が明るくなった瞬間、栗鼠山が悲鳴を上げた。
明るくなった部屋には栗鼠山と波布以外、誰もいない。
部屋は学校の教室と同じ位の広さがあるものの、机や椅子はなく、ただ何もない空間が広がっていた。
だが、それは普通の人間が部屋の中を見た場合だ。
波布の視点では違う。彼女には部屋の中にいる「それ」が見えていた。
「それ」の頭には牛の様な角があったが、顔は猫に近かった。
首から上は体毛で覆われているが、首から下には体毛はなく、固い鱗に覆われていた。足は昆虫の様に六本あり、尾は三本もある。体はとても大きく、部屋の面積の半分程もあった。
そして、「それ」はとても恐ろしい形相で、波布達を見ていた。
「シャー!」
いつの間にか、波布の体から『シロちゃん』が飛び出していた。『シロちゃん』は口を大きく開け、「それ」を威嚇している。
波布は悲鳴を上げた栗鼠山に話し掛ける。
「安心してください。『彼』は襲ってなど来ませんから」
波布がそう言うと、まるで彼女の言うことが正しいと言うかのように、「それ」の表情は急速に穏やかなものに変わっていった。
「フニャー」
まるで、猫の様な鳴き声を上げ、「それ」はゆっくりと立ち上がった。
天井ギリギリの高さまで立ち上がった「それ」は、ノソノソと部屋の出入口に歩いていく。
「シャー!」
波布の体から飛び出した『シロちゃん』は未だに「それ」を威嚇していた。
「それ」の大きさは部屋の出入口より大きかった。だが、「それ」はまるで本物の猫の様に体を細めて出入口を潜ると、部屋の外に出て、どこかに行ってしまった。
部屋には波布と栗鼠山の二人だけが残される。
波布の体から飛び出していた『シロちゃん』は「それ」の姿が見えなくなると、威嚇を止め、波布の体の中に戻った。
「『彼』は、いつもこの部屋にいるんですよ」
波布はこの部屋にいた生物を『彼』と呼んだ。
「部屋の明かりを点けると『彼』は、睨みつけてきますが、決して襲い掛かってくることはありません。睨みつけた後は、どこかに行ってしまいます。どうやら『彼』は明かりが苦手なようです。さて、栗鼠山さん……」
部屋の中にいた生物の説明を終えると、波布は栗鼠山に視線を向ける。
「貴方にも『彼』が見えていましたね?」
部屋中をシンとした空気が包んだ。波布の問いに、栗鼠山は一瞬、キョトンした表情を浮かべる。しかし、直ぐにクスリと笑った。
「ごめん、波布さん。さっきから貴方が何を言っているのか分からない。それって、もしかして、漫画か何かの設定?」
栗鼠山は、憐れむような目で波布を見る。
「明かりが点いた時、貴方は睨みつけてきた『彼』に驚いて悲鳴を上げた……違いますか?」
「だから、何のことか分からないって」
栗鼠山は、さらに笑みを深める。
「確かに、さっきは驚いたけど……それって、ただ単に見間違えただけだよ?」
「見間違え……ですか」
「そう」
栗鼠山は壁を指差す。そこには大きなシミがあった。
「明かりが点いた時、あのシミがまるで人影に見えたんだ。よく見るたら、違うって分かったけどね」
栗鼠山は、照れたように頬をポリポリと掻く。
「なるほど、そういうことでしたか」
「分かってくれた?」
「はい」
「良かった」
栗鼠山は、ニコリと微笑む。
「じゃあ、そろそろ雨牛君の話を……」
「その前に、あと一つだけ良いですか?」
「……何?」
「この建物に入る前のことですが、栗鼠山さん、建物の上の方を見ていましたよね?」
「え?あ、うん。見てたよ」
「何故、上を見ていたのですか?」
「何故って……」
栗鼠山は、この建物に入る直前のことを思い出して答える。
「建物の五階の窓から、鳥が何羽も出入りするのが見えたの。真っ黒だったから、多分、カラスだと思うけど……」
「鳥が、ですか」
波布は、硝子の様な目で栗鼠山を見る。
「間違いないですか?」
「……うん」
「見間違いなどでは?貴方はシミを人影と見間違えていましたし、その鳥も何かと見間違えたということも……」
波布の言葉を聞いた栗鼠山の表情に不快感が浮かぶ。
「違う!それは見間違えじゃない。確かに見た!」
「そうですか」
波布は納得した様に頷く。
「何!?何なの?」
栗鼠山は苛立ちが混じった声を上げる。
「私は『雨牛君のことで話がある』って波布さんが言うから、こんな所まで来たんだよ?関係ない話をするなら、もう帰……」
「開いてないんですよ」
栗鼠山の言葉を波布は遮る。
「この建物で開いている窓はありません。もちろん、五階の窓も全て閉まっていますし、割れている窓もありません」
「それが、何……」
苛立った声で叫んだ栗鼠山だったが、急に黙り込むと、手で口を覆い、波布から視線を逸らした。
「気付きましたか?そうです。貴方が見た鳥は『普通の鳥ではない』のですよ」
窓が開いてなければ当然、鳥が出入りすることなど出来ない。つまり、栗鼠山が見た鳥は実際の鳥ではないということになる。
「……」
「この建物には色々な『奇妙な生物』が住んでいます。地下には先程、貴方が見た『彼』以外にも三種ほどの『奇妙な生物』が住み着いていますし、二階のある部屋には『人の顔をした虫』が大量発生しています。そして、五階にいるのが……『犬の顔を持つ黒い鳥』です。黒いので、遠くから見るとまるでカラスの様に見えます」
「……!」
「『彼等』は五階に巣を作り、子育てをしています。『彼等』は窓をすり抜けられるようで、窓を割ることもなく、この建物に出入りしています。もちろん、普通の人間には見えていません。どうですか?良かったら、今から一緒に五階まで……」
「もう、いい!」
栗鼠山の叫びが部屋に反響する。
「もう、いいとは?」
「そうだよ!波布さんの言う通りだよ!」
栗鼠山は、鋭い目つきで波布を睨む。
「私には、見えてたよ!『黒い鳥』もさっきの『猫の顔した大きな怪物』もそして、波布さんの中から出てきた『白い蛇』も!」
栗鼠山は観念したかのように叫ぶ栗鼠山に、波布は「やはり、そうですか」と言った。
「どうして、隠そうとしたんですか?」
「だって……だって……怖かったんだもん!」
栗鼠山は両手で、顔の上半分を覆う。
「昔から、『怪物』が見えた。でも、そんなこと言ったら頭がおかしいって思われる。それが嫌だった。だから、ずっと隠してきたの。それに、それに……」
栗鼠山はゆっくり、顔から手を降ろす。
「波布さんが……信用できなかった」
栗鼠山はうなだれる様に下を向いた。
「鰐淵先輩が事故に遭う直前、波布さんから『白い蛇』が出てくるのが見えた。だから……もしかして、波布さんが先輩に何かしたんじゃないのかなって、ずっと思ってて……」
「……」
「此処に連れて来られた時もとても怖かった。不安だった。もし私も『化物』が見えるって知られたら、何されるんだろって……思って」
「なるほど」
「ごめんなさい!」
栗鼠山は腰を直角に折り、波布に謝罪する。
「確かに、私にも『化物』が見える。でも、それだけなの!見えるだけ。隠してたことは謝る!だから、お願い!私に何もしないで!」
栗鼠山は肩を震わせながら、波布に頭を下げ続ける。そんな栗鼠山を見て、波布は一言呟いた。
「本当ですか?」
「えっ?」
思わぬ波布の言葉に、栗鼠山は頭を上げる。
「本当に『奇妙な生物』が見えることを隠していた理由は今、言ったことですか?」
「そ、そうだよ!わ、私、嘘なんてついてない!」
「そうでしょうか?本当は『奇妙な生物』が見えることを隠していた理由は別にあるのではないですか?」
「……別な理由?」
「はい、例えば……」
波布は表情を変えずに淡々と言った。
「私や奏人さんのように、体の中に『奇妙な生物』がいるのを隠すため……とか」
栗鼠山が大きく目を開いた。
「私の中に……あんな『化物』がいるっていうの?」
「はい」
「い、いないよ!体の中に『化物』なんて!」
「そうですか……では」
波布は学生鞄の中に手を突っ込むと、美術の授業で使う彫刻刀を取り出した。波布はその彫刻刀を栗鼠山に向ける。
「な、何するの?」
「今から、この彫刻刀で貴方を刺します」
「えっ?う、嘘でしょ?」
突然の波布の行動に、栗鼠山は大きく動揺する。そんな栗鼠山に波布は背筋も凍るような冷たい目を向ける。
「や、やめて!お願い、やめて!」
「いいえ、やめません」
波布は彫刻刀を構え、栗鼠山に迫った。腕を大きく振り上げて、栗鼠山に彫刻刀を振り下ろそうとする。
「シャー」
どこからか蛇が鳴く声が聞こえた。その瞬間、波布の体がピタリと静止した。
「……」
波布は彫刻刀を振り上げたままの体勢で止まっている。波布の体には白く太いものが幾重にも巻き付いていた。波布は視線を上に向ける。
『白い大蛇』と目が合った。
「シャー」
『白い大蛇』が大きく口を開く。口の中には四本の長い牙が見えた。
「やはり、そうでしたか」
波布は『白い大蛇』から栗鼠山に視線を移す。
「鰐淵先輩を事故に遭わせ、そして、奏人さんを殺したのは……」
波布は学生鞄を床に落とすと、人差し指を栗鼠山に向けた。
「栗鼠山さん、貴方ですね?」
ニヤリ、と波布の問いに、栗鼠山は不気味に微笑んだ。




