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ハクチョウ

作者: 戸松秋茄子

 妻から罪を打ち明けられた翌日、男は彼女を伴って地下鉄有楽町線に乗り桜田門駅を目指した。電車の中で、二人は彼女の犯した罪について一言も触れなかった。近所の交番に出頭しない理由についても触れなかった。

 十一月にしては暖かい気候だった。桜田門駅で降り地上に出ると、日がすっかり高くなっており、男は冬物のセーターを着てきたことを後悔しながら内堀通りを歩き始めた。そのあとを、薄手のブラウスの上にカーディガンを羽織った妻がついて来る。家を出るとき、男が「寒くないかい」などと声をかけたものだから急遽引っ張り出してきた古いカーディガンだった。

 男は出頭までの時間を少しでも先延ばしにしたかった。妻にもその意思は伝わったようで、男が堀の向こうに渡り、皇居外苑を見てみようと言っても反対しなかった。

 二人は井伊直弼が襲撃されたあたりに位置する桜田門交差点を渡り、桜田門橋へと足を踏み入れた。堀沿いの植え込みの前には石造りのベンチが設えてあり、幾人かの老人たちが歓談している。男が右手の堀に眼をやると、深い緑の中に白いものがちらほらと見えた。

「ハクチョウ」女が指差して言った。「ここで飼育してるのよね。オオハクチョウだったかしら」

「コブハクチョウじゃなかったか?」

 男は言った後、すぐに後悔した。十年に及ぶ夫婦生活の中で、男はいつも妻に対する一番の批評家だった。家事の一つ一つにも、あれこれと口を出してきた。新聞は場所を取るから契約しないこと。卵の殻は水がたまらないように内側を下にして捨てること。そのほか布巾の畳み方、ごみの処理の仕方……妻は唯々諾々と従うばかりだった。内心、彼女がどう思っていたのかは分からない。自発的にものを言うことがほとんどなかったからだ。目立たない、物静かな女だった。男はそれを妻の「貞淑さ」と評価し快く思った。自分の小言のひとつひとつが妻を圧迫していようとは夢にも思わなかった。もしも妻があのような罪を犯さなかったら――と男は思う。自分はきっといまでも批評家のままだった。きっと妻を圧迫し続けた。

 それをいま、この期に及んで繰り返す愚を彼は恥じた。ハクチョウの種類なんて何だっていいじゃないか。そのくらい妻に譲ってやるべきだったのだ。男は真剣にそんなことを思った。

「あなたが言うならきっとそうなのね」

 妻はハクチョウから視線を外さず言った。ハクチョウは中年夫婦の口論の種になることを嫌ったかのように飛び去っていった。

「いや、あの羽の広げ方はオオハクチョウかもしれない。こういうのは君の方が詳しいからな。きっとオオハクチョウだ」

「東京暮らしはあなたの方が長いでしょ。それに目だってわたしよりいいわ」

「その僕がオオハクチョウって言ってるんだ。うん、きっとあれはオオハクチョウだよ」

「そう、だったらそうなのかもね」

 妻が妥協するように言うと、堀沿いのベンチに座った老人の一人が怪訝そうな顔をした。男には老人の言わんとすることが分かった――オオハクチョウだって? 馬鹿なことを言いなさんな。あれはどう見てもコブハクチョウだ。ほら、見ろ。くちばしの色が橙がかってるし、頭にこぶのようなふくらみがある。だからコブハクチョウって言うんだ。

 男は、老人に微笑みかけた。口を挟んでくれるなというメッセージが伝わったのか、老人はすぐに興味を失ったように老婦人との会話に戻った。男が住んでいる町で、幼い女の子が失踪した事件について語り始める。男は慌てて妻の腕をつかみ、足を速めた。内桜田門の荘厳な構えがその眼前に迫ってくる。二人は重い沈黙を引きずりながら門をくぐった。

 橋を渡る間、二人は一度も振り返らなかった。


 皇居外苑は都心とは思えぬほど開けた空間だった。玉砂利が敷き詰められた広場。無数の黒松が植わり、小島に見立てられた緑地帯。敷地の外に見えるビル郡がひどく非現実的に思えてくる。

「上京したとき来たきりね」

 女は出し抜けにそう言った。 妻は静岡の生まれだった。地元の病院で看護婦をしていた。東京に住む男と数ヶ月の遠距離交際を経た後、結婚する段になって上京してきたのだ。

 男は記憶をたどった。暖かい日差しの下、若い二人は手をつないで歩き……

「途中で雨が降ったのよね」

 男の記憶は修正を迫られた。

「ああ、そうだ。そうだった」

「思い出すわ。折りたたみ傘に二人で入って」

「ああ」

 本当にそんなことがあったのだろうか。男は思った。その傘はいったいどちらが持ってきたものだったのだろう。だが、その疑問を口に出すことはできなかった。自分の記憶と妻の記憶。どちらが正しいのか判断がつかなかったし、自分の記憶のあやふやさが妻を傷つけるかもしれないと思ったからだ。

 二人は二重橋前交差点を渡った。そのまままっすぐ進めば日比谷通りに出るが、足は自然と楠木正成像の方に向いた。

 楠木正成像は平日でも観光客の姿が絶えない人気スポットだ。この日も、馬にまたがった南北朝時代の忠臣の勇猛な姿を写真に収めようと、観光客たちがカメラを向けている。二人は空いているベンチを見つけて腰を下ろした。

 妻はしばらくの間久しぶりに訪れた皇居外苑の感想や十年前の思い出をぽつぽつと語っていたが、男の心情を察してか徐々に口が重くなっていき、結局黙り込んでしまった。すでに今日幾度目かの沈黙だ。二人の間には、数え切れないほどの地雷が埋まっており、お互いに近づくことに臆病になっていた。

 妻は、わたしはいまこれを見るのに夢中なのだと言い訳するように、楠木正成像に目線をやっている。男もしばらくはそうしていたが、やがて沈黙が耐えがたくなってくると、妻の方に目を向けた。もう十年連れ添った妻だ。苦労をかけてきたという自覚はある。みずみずしかった肌はいまや潤いを失い、髪にはところどころに白いものが混じっている。それに何より心が疲弊してしまった。原因は分かっている。自分がちゃんと支えてやらなかったからだ。

 隣にいるべきときにいなかった。

 話を聞いてやるべきときに聞いてやらなかった。

 男は昨日から続く悔恨がまた頭をもたげてくるのを自覚した。妻は膝の上で両手を重ねていた。かつては看護婦として病に伏した患者を勇気づけるためその手を握った手。今は主婦として洗い物をする手。母親として子供の手を引いて幼稚園に連れて行く手。そして、あのおぞましい罪を犯した手だ。男は思った。その手に最後に触れたのはいつのことだろう。そして、この次にこの手に触れる機会があるのだろうか。

「すみません」

 沈黙を破ったのは男でも妻でもなく、若い男の声だった。顔を向けると、そこには若いカップルが立っていた。男はラガーマンのようながっしりした体形で、女の方はブルネットの髪を短めに切りそろえた白人だった。彼女の腹の膨らみが、二人が夫婦であることを示していた。

「写真、撮ってもらえますか」

 ラガーマンが使い捨てのカメラを掲げて言った。

「ええ」

 男は了承し、ラガーマンのごつごつとした手からカメラを受け取った。妻はベンチに座ったまま動こうともしない。男は夫婦に向かってカメラを構え、夫婦と楠木正成がフレームに収まるように角度を調整した。南北朝時代の忠臣の下に、欧米人と日本人のカップルが肩を並べている。像になった本人も、こんな時代が来るとは思いもしなかっただろう。ラガーマンが女の肩に手を回したとき、男は思った。そういえば、自分たちも十年前に同じ構図の写真を撮ってもらったはずだ。

「はい、チーズ」

 男は言ってからはっとした――これはたしか日本独自の合図ではなかったか。しかし女は男の予想以上に日本文化に精通していたらしい。彼女は笑んだままの顔をラガーマンの方に寄せ、ピースサインを作った。ラガーマンもまた満面の笑みで指を二本立てる。男は安堵し、シャッターボタンを押した。

「デートですか」

 カメラを返すとき、ラガーマンに訊かれた。

「ええ、まあ」

 ラガーマンは饒舌だった。この国際カップルはボストンの大学で知り合ったらしい。ラガーマンが女の大学に留学していたのだ。ラガーマンが日本に帰ってからも、二人の関係は続いた。手紙をやり取りし、お互いに何度か行き来もあったという。ラガーマンは女の両親を説得し、日本に連れて行くことに成功した。

「お子さんはいらっしゃるんですか」

 ラガーマンが訊いた。

「ええ、男の子と女の子が一人ずつ」

「いいですね。うちも両方ほしいと思ってるんですよ。名前ももう考えてあるんです。カレンにジョウジ。漢字はまだ決めてないんですが」

 その名前に反応したかのように女が彼女の夫に対して何やら訴える。ラガーマンもそれに英語で返してから男に向かって言った。

「ああ、すみません。妻が、その名前はまだ決まったわけじゃないだろうって」

 女がまた早口にまくしたてる。ラガーマンはそれに答え、また女が答える。しばらくの間やり取りが続いた。男は英語を解せないが、女の手振りが徐々にオーバーになっていき、冷静だった男の語調が女に合わせるようにして早口になっていくのを見ると黙っていられなかった。

「お二人さん、喧嘩はいけない」

 男は仲介に入った。たとえ本気の喧嘩でなくとも、いまは男女間のどんないさかいも目にしたくなかった。

「あ、ごめんなさい」

 カップルがにこやかな笑みに戻ると、男は安堵した。女が自然な動作でラガーマンの腕を取る。

「写真、ありがとうございました」

「それより君、奥さんを不安にさせちゃダメだよ」

「分かってますって」ラガーマンは女に向かって微笑んだ。「ちゃんと支えていきます」

 その短い言葉が、男を揺さぶった。

「どうしたんですか」

 男の異変を察したように、ラガーマンが訊く。

「いえ」男は自分を襲った感覚に戸惑いながらも言った。「ちょっと思い出したことがあって」

「厭なことですか」

 男は首を振った。

「そうじゃありません。とてもいい思い出です」


 年若い夫婦が立ち去ると、再び中年夫婦の時間がやって来た。妻の視線は相変わらず銅像に釘付けだった。男は彼女の隣に座し、いったいどうやって妻を楠木正成から取り戻したものかと考えた。

「本当にいい日和だね」

 芸のない台詞であることは男にも分かっていた。しかし、他にどんな言葉があっただろう。男には、二人で共有できるものといったらいま並んで目にしている風景と、家のことくらいしか思い浮かばなかった。

「子供たちと一緒じゃないのが残念だ」

「そうね。でも子供たちがいたらきっとこんなのんびりとはできないわ。隆幸はあちこち走り回るだろうし、美也子は虫を口に入れるかもしれないし」

「そうだね。この前は隆幸のカブトムシも危ないところだった」

「カブトムシのゼリーをほしがって泣いたこともあったわ」

「ああ。あれには困らされたね」

「いまも何か変なものを口に入れてないといいけど」

「大丈夫だよ。父さんたちが見てる」

「いまさらだけど、なんだか悪い気がするわ。それに手を離れてるとかえって心配になる」

「また君は……」男は笑った。「いいんだよ。親だってたまには休息が必要なんだ」

「そうかもね。わたしももうちょっと早くこういう時間を作っていればよかったのかもしれない。子供ができてからはずっと……」

 男は唾を飲んだ。何か口を挟もうとしたところで、妻は続けた。

「きりきり舞いだったから」

「すまなかった」男は言った。「君には本当に苦労をかけたと思ってる。家のことも、子供たちのことも、受験や幼稚園のことも全部君に任せっぱなしだった。それどころか君の訴えを何一つ聞いてやれなかった。悩みのひとつも受け止めてやれなかった。これじゃ何のための夫か分からない。あのとき、ここで約束したのに。お互いに支え合おうって。とんだ空手形だ」

 瞬間、女の肩がびくっと震えるのが分かった。伏せられていた視線がふっと男の方を伺い、またすぐに戻る。

「そんな約束、覚えていたのね」

「何もかも忘れるわけじゃないさ」

 男は女の手の上に、自分の手を重ねた。男は、自分の妻の手がこの十年余りの間にすっかり潤いを失ってしまったことを知った。男にはそれが無性に悲しく思えた。

「あなたの手、いつからそんなにかさかさになったの」

 そんな男の心情を知ってか知らずか女が言う。

「さあ、いつからだろう」男は微笑みながら言った。微笑みながら、胸にこみ上げてくるものを必死で抑えていた。「全然気がつかなかった」

 二人はしばらくそのままにしていた。手を重ね、楠木正成像を眺めるともなしに眺めていた。鳥の声、暖かい日差しが心地よく、銅像と彼らの周りだけが動いていた。男の胸にはほのかな希望が灯りつつあった。自分たちはまだやり直せるんじゃないか、と。

「もうそろそろ行きましょ」


 二人は来た道を戻り始めた。ベンチから立ち上がるときに一度離した手を、改めてつなぎなおす。暖かい日差し。黒松の影。鳥のさえずり。ときどきすれ違うカップル。男にはそのすべてが心地よかった。

「君と会えてよかった」

 そんな言葉が口をついて出る。

「これからは僕が君を支えるよ。あの約束をいまからでも本当にするんだ」

 妻は何も言わなかった。しかし、男にはそれで満足だった。握り締めた手を通して、お互いの気持が伝わるはずだと思った。

 砂利を踏んで歩きながら、男はさっき会ったばかりの夫婦の話などをした。

「奥さんは慣れない環境で苦労するだろうな。でも、あの旦那はきっと頼りがいがあるよ。これまでとは違う環境でもしっかり支えていける」

「そうね」

「カレンとジョウジか。きっと両方の国で通じる名前を選んだんだろうな。将来は国際的なビジネスマンになるかもしれない」

「そうね」

 妻は同じ返事を繰り返した。男はとたんに不安になった。自分はまた妻を置いてけぼりにしているのではないだろうか。妻はまた何か言いたいことがあるのに我慢しているのではないだろうか。

「どうしたんだい」

 そっと水を向ける。

「別に。遠距離恋愛って考えものだと思ってたの」

 男はぎょっとして妻の顔を見た。自分たちのことを言っているのか、という戸惑いが彼を襲った。

「どうしてそんなことを言うんだ?」

 妻は目を伏したまま押し黙った。

「なあ、言ってくれ。怒らないから」

 男は懇願するような口調で言った。妻はそんな男の様子に戸惑い、なおも躊躇うそぶりを見せながらも重い口を開いた。

「一緒に暮らし始めてから相手の思いもよらない一面を発見することになるから」

 そんなことを思っていたのか。男はうちのめされた。それは迂遠ながらも、自分たち夫婦に対する自虐、男への攻撃に違いなかった。

「そうだな、そういうこともあるかもしれない」男は努めて冷静に言った。「でも、いい意味での発見だってあるだろ。思ったよりフランクだとか、思ったより融通が利くとか」

「そうね。そういうこともあると思う。でも、どうかしら。あの男の人、言葉が軽いように思えたから」

「どういうこと」

「あの奥さん、『また』って言ってたのよ。『またあなたは勝手なことを言って』って」

「英語が聞き取れるのかい」

「洋画を字幕で見るのが趣味だった頃があるの」

「知らなかった」

 男は妻がそのような特技を隠し持っていたことに戸惑いを覚えた。

「そうね、言う機会がなかったから」

 何気ない言葉が男の胸をちくりと刺す。あなたはわたしに家政婦に示す程度の関心しか持ってなかったものね。そう言われているような気がした。

「あの男の人」妻が続ける。「きっとこれまでも奥さんに空手形を突きつけてきたんだわ。自分が言ったことに対して責任が取れない人なんじゃないかしら。おしゃべりな人だったでしょ。きっと何も考えてないから、ああやってぽんぽん言葉が出てくるのよ。言葉に実感が篭ってないというか……その場の調子でおべっかばっかり言って、けっきょく家庭を顧みない人になるんじゃないかしら」

 妻は自分の言葉が男の心に深く突き刺さるのを待つようにしてから言った。

「ごめんなさい。やっぱりこんなこと言うものじゃなかった」

「いや、いいんだ。今日は腹を割って話し合うって決めたんだから」

「でも、これじゃわたしが一方的に話してるだけみたい。あなたはそれに合わせてるだけ」

「これまでずっと逆だったんだ。今日一日くらい役割が逆転しても――」

「話し合うってそういうことじゃないんじゃないの?」

 男は女の指摘が的を射ていることを認めざるを得なかった。

「おかしいな」男はバツの悪さをごまかすように、冗談めかして言った。「また足並みが揃わなくなってきたみたいだ」

 妻は黙ったままだ。男は思った。どうしたんだ、冗談を言ったんだ、笑うなり何か言うなりしてくれ。

 二人はやがて、内桜田門へとまっすぐに伸びる道に入った。

「わたしも子供たちが大きくなるのを見守りたかった。隆幸は英語がダメだから国際人にはなれないだろうけど」

「いや、分からないぞ。ほら、ユニフォームのローマ字が読めるようになって喜んでたじゃないか。まだ六歳なんだ。将来的にはヨーロッパリーグで活躍するサッカー選手なんてことも――」

「そうね、その方がずっといいわね。子供たちはわたしからうんと離れたところで暮らす方が幸せなのかもしれない」

 その言葉に男ははっとして、

「いや、やっぱりあいつの英語はダメな気がしてきた。残念だけど、きっとこの国に骨を埋めることになるだろうな」

 それからまた沈黙が降りた。内堀通りを走る車のエンジン音、鳥のさえずりだけが聞こえた。日差しはいよいよ強く、男は脇と背中が湿ってくるのを感じた。

「隆幸と美也子をよろしくね。隆幸は肌が敏感だから服を選ぶときは素材に気をつけて。洗濯するときもちゃんと柔軟剤を使うようにね」

「ああ、分かった」

「美也子はどういうわけかホッチキスが大好きなの。この前もちょっと目を離した好きに自分の指をパッチンしかけて……危ないから使ったらすぐ棚のペン立てに戻してね」

「ああ、分かった」

「隆幸ね、最近サッカーの試合が見に行きたいってしきりに言うの。これからばたばたするだろうけど、いつか暇を見つけて連れてってあげて」

「ああ、でもそんなことまでいま言わなくていいよ。いまは僕らの話をしよう」

「でも」妻は躊躇いながら言った。「いまじゃなきゃ話せないと思うわ」

「どういうことだい。これからだって機会はあるだろ。手紙も書くし、それに毎日会いに行く」

「毎日は無理じゃないかしら。ああいうところってきっと面会できる回数が決まってるから」

「じゃあ毎週末に」

 妻は何も言わなかった。男はその沈黙の意味するところを察した。

「来てほしくないのか」

「そんなこと言ってないでしょ」

「じゃあ来てほしいって言ってくれ」

 男は自分の口から飛び出した言葉に驚いた。

「ダメよ、言えないわ」

「どうして」

 妻は押し黙った。自由な方の手で毛先をもてあそんでいる。

「教えてくれ。どうしてなんだ」

 髪をいじる手が止まって、また動き出した。妻はその動きに専念するようにしながら言った。

「もう嘘をつきたくないから」

「嘘? 嘘だって? 何が嘘だって言うんだ? 何でここで嘘が必要なんだ?」

 妻は男の問いには答えず、髪を指先にくるくると巻きつけ始めた。

「君は」男は恐る恐る言った。「本当に来てほしくないのか」

「来てほしいって言ったら来てくれるの?」

 その言葉に男は目の前がぱっと明るくなったように感じた。

「当たり前じゃないか。夫婦だろう」

「でも……無理よ。もう無理」

「何が」

「やっぱり離婚しましょ」

 脈絡を欠いた言葉に、男の眼前が再度暗転する。

「何で急にそんなことを言うんだ」

「急じゃないわ。昨日から言ってるじゃない」

「君は冷静さを失ってるんだ。これから先、たった一人で生きていくつもりか? 君はそんなに強くないよ。支えてくれる人が必要だ。言ったろ。これからは僕が君を支えるって。そのくらい信じて……」男はそこまで言ってからはっとした。「信じてないのか」

 妻は何も言わなかった。

「僕の言葉が軽いって、実感が篭ってないと思ってるんだな」

「そんなこと言ってない」

「言ってないとも! 少なくとも直接的にはな! でもお互い分かってるはずだ。そんなおためごかしはもう通用しないって。君ははっきり言ったんだ。僕は自分の言葉に責任が取れないいい加減な奴だってな」

「あれはあなたのことを言ったんじゃ……」

「違うっていうのか? そうやってまた穴倉に引っ込むのか? 冗談じゃない。僕らは今日話し合いをするんだ。言いたいことは全部言ってもらわないと困る」

「でも、そんな大きな声で話し合いもないわ」

「誰のせいだと……」

 そこで二人の背後から、ランニングウェアの男が現れ二人を追い抜いていった。言葉がしばし宙ぶらりんのまま途絶する。図らずも生まれた間が男の頭を冷やした。

「すまない」

「いいのよ。誤解させるようなことを言ったわたしも悪いんだから」

 男の頭がまた沸騰した。彼はこの期に及んで逃げに徹する妻に苛立ちを覚えた。

「君はまだそういうスタンスを取り続けるのか」

 妻は何も言わない。

「いったい、本当の君はどこにいるんだ」

 妻は何も言わない。指で毛先をもてあそんでいる。

「やり直すことも、話し合うことさえも考えられないのか」

 妻は何も言わない。これ以上の会話を拒んでいるようだった。

「なんで、どうしてなんだ」

 男はほとんど泣きそうな口調で言った。自分をなじるような言葉でもいい。とにかく、妻の言葉が聞きたかった。しかし、彼女はまったくの無言だった。否定も肯定もなく、ただ無言。男の言葉に対して固く耳を閉ざしていた。

「君はとんだ頑固者だ」男の中で、妻への苛立ちが募っていく。「人がこんなに必死で訴えてるのに、どうして耳を貸そうとしない。話し合いのテーブルにつこうとしない。君は、君は……」

 そこで、ふと気づいた。

 ああ、これが自分が妻に対してしきたことなのだと。

 妻の訴えに耳を貸さず、真面目に取り合おうとしなかった。これはそんな自分への――

「だからなのか?」男は問う。「だからそうやって押し黙るのか? はぐらかそうとするのか? 自分の訴えがまともに取り合ってもらえなかったその報復にこうやって僕を無視するのか?」

 二人は桜田門をくぐった。もはや視界から警視庁のビルを遮るものは何もなくなっていた。桜田門橋を渡り始める。残り時間はもうわずかになっていた。男は妻の手を強く握った。二人の汗が混ざり合って少し気持悪い。だが、男は我慢した。この手を握っていられる時間はもうわずかしかないのだ。歩けば歩くほど、警視庁のビルが大きくなっていく。逃げ道を塞ぐように大きく大きくなっていく。

 逃げるなよ。

 そう威圧されているようだった。

 その間、男はずっと言葉を探していた。妻に届く言葉を。彼女の胸に長くとどまり、獄中での生活において支えになるような言葉を。しかし、男にはそんな言葉が思いつかなかった。思いつくとも思えなかった。心を閉ざしきったこの女にいかな言葉が届くというのだろう。いかな交渉人がこの頑固な篭城犯を日の光の下に引きずり出せるだろう。そもそも、この女と会話らしい会話を交わしたことが果たしてあっただろうか。批評家の夫と「貞淑」な妻。そんな間柄に本当の意味での会話が生まれえるだろうか。そんな間柄が本当に夫婦と言えるだろうか。そして、その歪さに気づかなかった自分はなんと愚かだろう。男の胸に後悔の念が渦巻く。

「すまない。本当にすまない」

 それが、男が搾り出した精一杯の言葉だった。男はその言葉が女の頑なな心を溶かすことを願った。願うしかなかった。

 ランニングウェアの男が二人を追い越していく。石造りのベンチでは老夫婦が歓談にふけっている。堀の水面には鳥たちの姿が見える。カモ、サギ、カモメ、ハクチョウ……妻は男の言葉には答えず、その一羽を一瞥して呟いた。

「子供たちをよろしくね」

 それからこう付け加える。

「それと、あれはやっぱりコブハクチョウよ」

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