透明人間の恋
俺、伊納譲はいつもの様にパソコンに向かっていた。こうして仕事をしているだけなら普通の人間に過ぎない。ただいつの頃からか電子メールや電話そういった類の物以外を通して人と話せなくなった。
俺の精神に問題がある訳ではない。勿論、コミュ症でもない。数年前から俺を透明人間の如く全ての人間が居ない者として振舞っているのだ。
ただし、電子媒体であるメールや電話、インターネットを介してならみんな普通に反応してくれた。人の声も聞けたし、反応もしてくれる。だが面と向かって会おうとすると約束の時間に来ないなどと罵られた。
俺が目の前に要るにも関わらず。当然、透明人間になったようにイタズラしようとしたが何故か大抵は相手に触れられないで終わってしまう。例え触れられたとしても蝋人形を触ってるような感覚に陥った。それからはバカバカしくなって止めた。
だが今が現代社会で良かった。通販を使って注文し配達ボックスに届けてもらえば飢えずに済む。仕事は人と顔を突き合わせてしなくても済む在宅の仕事だった事が幸いした。この現代社会は他人と顔を突き合わせなくても生きていけるのだ。
そう思っても人恋しさに耐えかねて俺は街を歩いていた。人混みは極力避けつつ、安全を確保する。何故なら今の俺にとって信号無視やよそ見は厳禁だ。運転手は俺を認識できないで轢き殺しかねない。全く難儀な話である。
丁度、人気がない公園に入った時だった。
「貴方は気付いていないのぉ?」
女の美しい声が降ってきた。その声に俺は振り向く。その視線の先には奇妙な出で立ちの少女が佇んでいる。服は洋服のように思えるが今の日本では見た事のないまるでマジシャンのように奇妙なスーツ。髪は熱い炎を連想させる真紅で長い髪。漆黒の闇を塗り固めたような黒瞳。人間としては異形の存在に思えた。
「俺に言ってるのか?」
「そうぉよ。誰に言ってると思ってるのぉ?」
間延びした声が妙に人間離れした存在と認識させる。
「お前はなんだ?」
「ふむぅ。女子にお前とは無礼な男なのだなぁ」
周囲を歩く人間をすり抜けるように少女は俺に近付いてきた。いきなり鼻がくっつく距離なので近い。あまりに近すぎるので上半身を捻って距離を取る。
「うっちはネ。貴方の名は?」
「ネ? ネって名前なのか? 変わってるな」
「ウチハネと言う名前なのだぁ。再度問う。貴方の名は?」
俺はそこで鼻の頭を書いて笑って誤魔化す。久しぶりに直に人間と会話したのにも関わらずこの失態。情けなくなる。
「伊能譲だ。どうして俺が見えた?」
久しぶりの会話にも関わらずかなり不思議系の美少女に不躾な質問しかできない己が悲しい。
「ゆずるっち、これがわたしの仕事だからぁ言うのが一番近いかなぁ」
ウチハネは俺を一周しながらジロジロと見る。まるで3Dプリンターで俺の3Dモデルでも作っているかのように。
「仕事?」
その一言に残念に思う感情が湧き上がってきた。こんな変な不思議ちゃんでも美少女なら、いや、人間ならなんでも良いのか?
「仕事。だからこれを渡しておくねぇ」
ウチハネは服の袖からバンドの付いた鈴を取り出して俺に無理やり握らせる。
「なんだこれ?」
「また会おう。ゆずるっち」
言うや否やウチハネの姿は消えていた。俺は預かった鈴を鳴らしてみる。見たところ普通の鈴にしか見えない。持っておこう。俺は雑踏の中を注意して歩き出した。
========================================
あれからウチハネは俺の前に何度か唐突に姿を現して言いたい事だけ言って去って行った。焦らしプレイなのかとも思わなくもないが俺も彼女が来るのを楽しみにしている。年齢差はあるが俺は彼女と話すのが楽しくなってきていた。
とは言え、向こうが一方的に話しているのを聞いているだけだが──
今度は公園で俺が弁当を食ってる時にウチハネが現れた。
「ゆずるっちはそれを食べているのかぁ? ……ヨモツヘグイは知っているのかぁ?」
弁当箱の中のタコさんウインナーを眺めながらウチハネが隣りに座る。
「黄泉の国で飲み食いするなって話だろう」
「うむ。博学だなぁ。鈴は常に持ち歩いているか?」
俺は食べるのを中断して腕に括りつけた鈴を見せた。彼女はこっちを見据えているが表情は読めない。
「感心、感心。それはゆずるっちの生命線だから風呂だろうがどこだろうが決して外すなよぉ」
妙に嬉しそうな表情でウチハネは笑う。
「外したらどうなる?」
「戻れない。もう時間だ。また会おう」
言うや否や、立体映像を切るかの如くウチハネの姿が消えた。忙しい奴だ。
========================================
ウチハネとの逢瀬、いやただの会話だがそれだけを楽しみにしていた俺は体調を崩して寝込んでいる。自室の白い天井のシミなんぞ数えても仕方ないのだが他にする事がないのでただボーッと眺めている。
電子媒体を通じ、顔を見せずに生活するのは想像以上の負担だった事に気が付いた。この生活になってからのどのくらい経ったかすらも思い出せない。
「ゆずるっち、元気かぁ? 待たせたなぁ」
どこから現れたのか分からないが枕元にはウチハネが座っていた。いい匂いでもしそうな筈だが鼻が利かない。
「お前はどこから現れたんだ? ここは人の部屋だぞ。……前から聞こうと思ったんだが他人に感知できない俺は死んでるのか?」
いつもの忙しない感じと違い落ち着き払ったウチハネが居たので聞いてみた。
「ゆずるっちは二重の意味で気付いてなかったんだな。ここは普通の世界じゃないぞ。ヨモツヘグイの話はしただろうに」
「ここは黄泉の国なのか? 現代っぽいのに。信じられない」
質問には答えつつ、ウチハネが枕と布団の間に手を突っ込んで俺の首を腕で支えて上半身を抱え起こす。
「見方なんて人それぞれだよ。貴方の世界は精巧にできてたから介入に時間が掛かったけど……とにかく出ましょう。ここは危険だから。それに今まで何も食べてなかった貴方の体力もそろそろ限界だと思うし。取り敢えず、これを口に含んで」
ウチハネが水筒のようなものを無理やり俺の口に突っ込んできた。液体が喉を通る。コールタールでも流し込まれているかのように味がおかしい。
「不味い」
「不味いなんて感じない筈ですよ。それよりとにかくこの世界を出ましょう。追っ手が来る前に……」
ウチハネは落ち着きなく前後、左右を、上と下と全ての方向を気にしている。
「追手? イザナミでも追ってくるのか?」
「……呼称を言い当てるなんて凄いね。そのまんまとも言うけど」
俺を抱え起こして肩を貸しながら立たせる。部屋の中に居るにも関わらず、外から妙な圧迫感を感じる。
「逃げた方がいいのか? なら俺は置いていけ」
「貴方を助けに来たのに置いて行ったら本末転倒でしょう」
ウチハネの反論と同時に窓が吹っ飛んで何かが入ってきた。白い布の塊のように見えたがその全身には獣の口が隙間なく生えていた。
「何だよアレ?」
俺の問いに応える前にウチハネが3つの盾と言うべき形状の物を出す。
「個体差はあるけどイザナミだよ。人の霊体や魂を喰って存在してると言われてる。この場は逃げるよ」
ウチハネは俺を支えながら走りだし反対側の窓から空中へと飛び出した。
待ち構えていたイザナミが上から襲ってくるが白い盾の1つがそれを防ぐ。俺が驚いたのはそんな事ではない。俺の部屋は3階にあるのだ。
「浮いてるんですが!」
「細かい事は気にしない。ゲートまで行ってこの世界から出るよ」
俺の叫びはウチハネには聞き入れられず、俺が現実世界だと思っていた世界から逃げ出す間、俺はずっと叫んでいた。
次に俺が気が付いた時には背の低い商業ビルの屋上に居た。空は血のように赤く染まり、奇妙な状態だった。
「なにここは?」
「ここが本当の現実世界だよ。赤い海で赤い空に覆われた地球」
ウチハネに言われて俺は上半身を起こして辺りを確かめる。屋上には魔法陣とウチハネとは違う白い衣を着た男たち、廃墟の並ぶ建物の向こうに赤く濁った海と海岸が見えた。
「話が見ないんだが……それにお前の口調が普通だぞ」
俺は体を起こす。
「ゆずるっち、元々の口調はこれだよ。最後まで声が届きにくいから変な語尾になってただけだよ。ようこそ現実世界へ」
「俺は透明人間じゃなくて幽霊でもないのか」
ウチハネが差し出した手を握り返しながら俺はため息を吐いた。バンドで左手に巻きつけていた鈴が風で揺れる。
「それはおいおい……よろしくね、ゆずるっち」
助かったのはいいが文明が崩壊した社会とか冗談でも笑えない。
「俺、一文なしだよ。暮らしていけないぜ」
「ふふふ。なら恋人兼紐でいいなら私が面倒見てあげるよ」
ウチハネは赤い空と赤い海をバックに俺の懸念を笑い飛ばしていた。