action6
にっこり笑って言った畑野浦さんの言葉に、部屋の中には沈黙が落ちる。
助けを求めて和音を見るが、彼女は麦茶ポットを見るともなしに見つめている。俺が見ていることに気がついたのか、ちらりと視線を向けてきたが、それきり喋らない。ならば、と鈴木氏に目を向けるが、彼の困惑した表情から見るに、事態を把握していない。彼に助けは期待できないだろう。
辺りを見回した俺は、自分が口を開くしかないと悟った。楽しげなおっさんの話に乗るのは面倒だが、仕方ない。
「木浦さんに助けてもらいたい、と言うと、つまり彼女は何をしたら良いんですか?」
俺が聞くと、畑野浦さんはそれはもう嬉しそうに笑って答えた。
「鈴木さんの伯母さんは姪御さんに会いたい。だけど、姪御さんは来られない。だから、和音ちゃんが姪御さんのふりをしたらいいのさ」
どう、名案でしょう、と言わんばかりに自信満々の彼には悪いが、普通に考えて無理だろう。
「いや、無理でしょう」
しまった。もう少し柔らかく否定するつもりが、たいへんストレートに否定してしまった。気を悪くしただろうか、と顔色を伺うと、意外なことに畑野浦さんはにこやかに笑ったままだ。
「そうでしょう、そう思うでしょう。普通は無理だよね」
それどころか、むしろ嬉しげにうんうんと頷いている。
「でもね、今回に限ってはうまくいく可能性が高いんだよ。まずひとつに、鈴木さんの伯母さんが最後に姪御さんと会ったのは、お正月。半年以上も顔を見ていないから、少しくらい見た目が変わっていても言いわけできる」
どうよ、とでもいう風に得意げに言う畑野浦さんに何となくいらっとするが、おとなしく続きを促す。
「まあ、それはお父さんから見て似てるかどうか判断してもらってから、大丈夫かどうか決めてもいいですもんね。それで、他の可能性は?」
聞けば、やはり嬉しげに答える畑野浦さん。ここで焦らされても腹立たしいだけなのだが、喜色に満ちたその顔も若干腹立たしい。
「もうひとつはね、わたしが彼女の主治医だってこと」
にこりと笑って、彼は自身を指差した。
「目に良くないからとか理由をつけて、彼女の部屋遮光して電気もつけられないようにしちゃえば、顔はほとんど見えないでしょう。何となくそれっぽい姿の子が、姪御さんみたいな言動をとってればきっとばれないよ。それから、鈴木さんと鈴木さんのご両親、つまり伯母さんにとっては妹夫婦。姪御さんのおじいちゃんおばあちゃんだよね。この三人で和音ちゃんが姪御さんであるかのように振る舞えば、きっと手術を受けてくれると思うんだ」
にこにこと話していた畑野浦さんは、そこで不意に真面目な顔をして居住まいを正した。真っ直ぐ和音を見て、それから俺の目を見て口を開く。
「無茶を言っていることはわかってる。だけど、わたしだって医者の端くれだから、助けられる人を前にして見ているだけなんて嫌なんだ」
真剣に訴えてくるその目に、気圧される。そこには確かに、医者としての彼の姿があった。
「もしもばれたら、そのときはわたしが責任を持って、鈴木さんの伯母さんに謝罪します。だから、どうか手術をする機会をわたしに作ってください。よろしくお願いします」
言って、畑野浦さんは頭を下げる。がばりと頭を下げたその姿は、威厳はなくとも格好よさがあった。
これほどの大きな病院の院長が、自分の子どもほどの年齢の者に頭を下げている。その光景に驚いてなにも言えず、なにもできないでいると、畑野浦さんは頭を下げたままで待っている。
ちらりと横目で和音を見れば、彼女もまた俺に視線を向けていた。相変わらず表情はないし凪いだ瞳に感情は見出せないが、俺を見る彼女には、なんとなく困惑のような雰囲気が感じられた。気のせいかもしれないが。
けれど、このまま黙っていても目の前の院長は頭をあげてはくれないだろう。ここは運転手兼社会復帰支援要員として、和音の代わりに答えねばならない。
俺は意を決して、静まり返った部屋の空気を打ちくだく。
「……ひとまず、マスターに相談させていただけますか」
意を決して、返答を保留にした。
ドラマなら「わかりました、やりましょう!」と格好良く返事をする場面かもしれない。困っている人を助けるために尽力するのは素晴らしいことだし、推奨されるべきだとも思う。
けれど、実際に動くのは和音だ。やるやらないは彼女が決めるべきだと思うし、もし本人が決められなくても数日前に知り合ったばかりの他人が決めるべきではない。彼女の身内が決めることだろう。
ひとりの人の人生に関わることである。成功するにしろ失敗するにしろ、和音の心境に何らかの影響を与えるのは間違いない。その影響を考えた上で和音へのリスクやリターンを考慮しなければならない。とても、すぐに返事をできる問題ではない。
畑野浦さんもそれはわかっていたようで、頭を上げてから深く頷いた。
「うん、もちろん、そうしてくれて構わない。マスターだけじゃなくて、和音ちゃんのご両親にも了解を得て、その上で和音ちゃんがやってくれるのであれば、お願いしたいんだ。無理なら、そう言ってほしい」
目を合わせない和音をじっと見つめながらそう言って、彼は申し訳なさそうな顔をする。
「ただ、本当に申し訳ないのだけれど、時間がない。できれば、今日じゅう。遅くても明日の午前中には返事が欲しいんだ」
時間を置くほど症状は悪化すると言っていた。だから和音が断るならば、姪御さんに合宿を取り止めて来てもらうしかないのだろう。
「わかりました。それもマスターに伝えます」
頷いて、和音の肩を叩いて立ち上がるように促す。
俺の後ろに付いてきていることを確認しながら退室しようとすると、立ち上がった鈴木さんが迷うように俺と和音を見ている。
「あの、身内の問題に巻き込んでしまって申し訳ないけれど、よろしくお願いします……!」
体を折りまげるようにして頭を下げた彼に頷いてわかりました、と返す。和音に行こう、と声をかけるも鈴木さんの下げられたあたまを見つめて動かない。俺は仕方なく和音の手を引き、畑野浦さんと鈴木さんにあいさつをして、今度こそ退室した。
来た道を戻り病院から出て、駐車場に置いた俺の車を探す。来た時と同様に暑いのだが、なぜか暑さはどこかぼやけているような気がした。
車のそばまでのろのろと歩いて見つけた車に乗り込もうとしたところで、はっと気づいて慌てて手を離す。
院長室からずっと、和音の手を握ったままでいたらしい。何だか話についていけなくて、ぼんやりしてしまっていたようだ。手をつないだまま病院の中を歩き回ったかと思うと、恥ずかしくなってくる。
「ご、ごめん」
恥ずかしいのと申し訳ないのとで謝れば、和音は視線を合わせないままにゆらゆらと微かに首を横に振った。珍しく自主的な反応があったのは、和音にとっても衝撃的なことだったためだろうか。重ねて、申し訳なく思う。
しかし、ぼんやりしていた頭がこの微妙な空気のおかげで意識を切り替えられたようなので、怪我の功名と思っておこう。
車に乗り込み和音がシートベルトをつけるのを確認してから、エンジンをかける。途端に送風口から熱い風が吹き付けて、もっと早くエンジンをかけておけば良かった、と後悔する。
アクセルを踏んで走り出せば、行きには気にならなかった沈黙がなんとも気まずい。
「あー、さっきの話、びっくりしたね。なんか急に真面目な話するんだもんな、畑野浦さん」
「…………」
苦し紛れに話しかけてみるが、返事はない。もしかして頷くぐらいはしているかも、と運転に気をつけつつちらりと横目で見てみる。
目があった。
さらりと流れる黒髪の向こうから、和音がこちらを見ている。感情の読めない黒い瞳に吸い込まれそうで、つい目を奪われかけて慌てて前を向いて運転に集中した。
どきどきしながらもう一度ちらりと和音に目をやれば、もうこちらを見てはいない。けれど、せっかく彼女が動きを見せたのだから、ここで黙って店に帰るのは良くない気がした。
「木浦さんは、こんな役はやってて楽しいな、とかあるの? やってみたい役があったりする?」
聞いてから、自分を模索中の彼女にこの質問はどうなんだ、と冷たい汗が背中を流れる。冷や汗ではなく、今ごろ効いてきた冷房に冷やされた汗だと思いたい。
恐る恐る様子を伺えば、和音はわずかに首をかしげている。
「そうだよな、わからないよね」
無意味にはははと笑えば、後には微妙な静寂が残る。
車内に落ちた沈黙に何か他の話題を! と口を開きかけたとき、和音がぽつりと言葉を発した。
「…………でも、気になる」
彼女が自主的に喋ったことに驚いた。だが、今はのんびり驚いている場合ではない。せっかく、和音が会話をしてくれたのだ。これが社会復帰への糸口かも知れない。何としても会話を続けねば!
静かに意気込んだ俺は、しかし何と続けるべきかで頭を悩ます。
彼女は何と言った。でも気になる。何が? その前の俺の言葉はなんだっけ。駄目だ、無意味に笑ったことしか思い出せない! 君が何を気にしているのか、俺も気になるよ!
「何が気になるの?」
平静を装って頭をフル回転させた結果が、この言葉である。俺は自分の脳みその無能さにがっかりしたが、意外なことにこれは悪い返事ではなかったらしい。
「……病院の、話」
さっきよりも短い沈黙を挟んで和音が答える。
気になる、病院の話。
これはつまり、さっきの畑野浦さんからのお願いが、気にかかるということだろうか。
「病院で畑野浦さんが言ってた、姪御さんのふりをしてほしいって話? さっきは突然の話で驚いたけど、そうだね。自分が人の役に立つかもしれないとなると、やっぱり気になるよね」
できる限り、当たり障りのない返事ができただろうか。またもやどきどきしながら運転していると、マスターの待つ喫茶店が見えてきた。
和音が喋る様子を見せないことにこっそり安堵の息を吐いて、そう言えば現在の状況は可愛い女の子とドライブをしているのだと気がついた。
そう思うと途端に楽しくなってきた俺は、ほんのひとときの静かなドライブを楽しむことにした。
わき見運転は危険です。やめましょう。
それから、作者は病院なんて予防接種のときにしか縁のない人間です。ありがたいことに健康です。
そのため、病院内のルールやらはわからないまま書いております。おかしな点がありましたら、ご指摘いただければ頑張って修正したいと思います。