アクアリウムの夢
「ねえ、まだできないの?」
おなかがぺこぺこのあたしは我慢できずに夕子をせかした。キッチンに立つ夕子の背中からは殺気のようなものがただよっている。
「集中してるんだから、話しかけないで」
とがった声が飛んでくる。
夕子はさっきからずっと、計量スプーンで塩だの砂糖だのをちまちまと量っている。その間中、フライパンは煙をあげ続けてて、中身が焦げないか心配になる。
「味付けなんてテキトーでいいのに。足らなきゃ後で入れればいいんだし。それより段取りのほうが大事だよ」
「横からごちゃごちゃ話しかけるのやめて。あたしはきっちりレシピ通りじゃなきゃ作れないんだから」
風子がいら立った声を出したので、あたしはそれ以上言わないことにした。
生真面目な夕子。几帳面な夕子。勉強ひとすじで、成績は学年トップの夕子。おしゃれなんて興味がなくていつも男の子みたいな格好の夕子。すらっとした細いからだ、小さい目、薄いくちびる。あたしとそっくり。あたしたちは、ふたご。一卵性双生児。何の因果か、お母さんのおなかの中でふたつに別れてしまったけど、もともとは同じ命だった。
「お? 今日のメシは……夕子がつくったのか? うまそうな野菜炒めだな」
会社から帰ってきたお父さんが、上機嫌でネクタイをゆるめる。テーブルには夕子のつくった八宝菜。お父さんは一口つまみ食いして、それきり口をつぐんだ。
あんなにきちんとつくったのに、味はいまいち。勉強も運動も夕子にかなわないけど、料理に関してはあたしのほうが上だ。
「波。最近、部活のほうは、どうだ? 今は何の曲練習してるんだ?」
三人で囲む食卓。お父さんがまずあたしに話をふってくる。べつに、いろいろ。そっけなく答えて会話が終わった。
「夕子は、塾のほうはどうだ? あんまり根つめないで、息抜きしながらやれよ」
今度は夕子に話しかける。夕子は、わかってるよとだけ答えて、またしてもあっけなく会話が終了。三人、無言であまり美味しくない八宝菜を食べる。
「ごちそうさま」
最初に席をたったのは夕子だ。部屋にもどって、また勉強するのだろう。
部活が忙しいあたしと、勉強が忙しい夕子。
お母さんは六年前に亡くなった。仕事で帰りが遅いお父さんに代わって、夕ご飯の支度は、あたしたちが交代で担当している。後片付けはお父さん。洗濯は、もちろんあたしたち姉妹。お父さんに下着を干させるわけにいかないし。大変だけど、どうせいつかは家を出てひとりで全部やらなくてはいけなくなるんだ。練習だと思えばいい。小学生の頃まではおばあちゃんが家事を手伝いにうちに来てくれてたけど、最近足腰が弱ってきたみたいだし、いつまでも頼ってられないから。夕子とふたり、頑張ろうって決めたんだ。
箸をおく。テレビを眺めているお父さんをちょっとだけ見てから、流しに食器を運んだ。
夕暮れの音楽室はオレンジ色に染まって、奏でるメロディすらも金色にかがやいているように感じる。あたしが一番好きな時間。
新学期を迎え、我が吹奏楽部は本格的に夏のコンクールに向けて練習をはじめた。入部希望の新一年生がきらきらした目で合奏の様子を見学している。
「その音だ。それを忘れないように。つぎからは一発で合わせろ」
先生のことばを受けて、はい、と一番後ろの列から返ってくるきりりとした声。工藤だ。つられて、他の金管楽器のみんなも恥ずかしげに返事をする。コンクール万年銅賞から脱却すべく、まずは部員の意識改革だ、とはりきっている工藤は、トランペットのパートリーダーと金管のセクションリーダーを兼任している。
明るくて、はなやかで、まっすぐによく伸びる音。工藤の音。ひまわりの花が咲いたような笑顔、大きな口からのぞく八重歯、楽器を構えるときの、すっと伸びた背すじ。
ぺちん、と指揮棒が譜面台に当たる音がする。あたしははっと顔をあげた。
「つぎは、木管。聞こえたか? 吉川。木管。お前もだ」
「……すいません」
「集中しろ、集中」
「せんせー吉川さんは恋のなやみがあるみたいですー」
パーカッションの沢渡がぴりっと張った空気を壊した。右後方を振り返って睨みつけてやる。沢渡はささっとバスドラムの陰にかくれた。最悪。
「恋はするなとは言わん。音に色気が出るからな。まあ、でも皆に迷惑はかけるなよ」
沢渡みたいなバカの言うことを真に受けるなんて、先生も最悪。周りで、くすくすと小さな笑いが起こって、すぐに引いた。
練習が終わって、帰り支度をしていたら、工藤がこっちにやって来た。
「波。ちょっと、いい?」
「あたし、急いでるんだけどな。今日はごはん当番の日だから」
「ごめん。すぐ、すむから」
ふうと息を吐く。しょうがないな。
「今度の日曜日、誕生日だよね?」
「そうだよ。あたしたち姉妹の、十五回目の生誕記念日。で?」
「ほしいもの、何かな」
「は?」
「だから、ほしいもの。ふたごなんだからさ、そういう話、しないの?」
やっぱり夕子の話だ。あたしは二回目のため息をついた。
「知らないよ。自分で聞けばいいじゃん。彼氏なんだから」
冷たくつき放すと、工藤は黙ってしまった。じゃあね、と工藤の真横をすり抜けようとすると、あたしの腕をつかんで、今度はすがるように言ってきた。
「つきあってるって言ってもさ、情けないんだけど、ふたりきりだと何も話せなくなるっていうか……。夕子が何考えてるのかわかんないっていうか……。どうすればいいんだろ」
あたしだって夕子がなに考えてるかなんてわかんないよ、そう言い捨てる。ふたごだからって何もかも以心伝心だと思ってもらっては困る。あたしを頼りにされても、困る。
夕子のことになると、工藤はとたんに歯切れが悪くなる。音楽について語るときとは全然ちがう。いきなりあたしの耳にイヤホン挿して、「この曲超カッケーよ、いつか演りたくね?」って笑う工藤。あたしの音に容赦なくだめ出しして、ちょっとへこんだら、波だったらできるよって頭くしゃっと撫でて笑う工藤。それがあたしの知ってる工藤だ。
なのに今。工藤は子犬みたいに泣きそうな顔をしてあたしのことばを待ってる。はじめての恋にとまどう少年の図。ばっかみたい。
「とりあえず、デートにでも誘ってみれば? プレゼント云々より、ふたりの距離を縮めることのほうが大事でしょ」
捨て置くこともできなくて、結局助け舟を出してやった。これが最近のパターンだ。
夕子と工藤は、そもそもライバル同士だった。夕子はつねに学年トップの成績で、工藤はいつも二番手に甘んじていた。塾に通ってトップの夕子より、部活も手を抜かず、誰よりも練習しているのに二番手の成績を維持している工藤のほうがすごいと、あたしはひそかに思っていた。
「告白された、工藤亮二に」とあたしに告げた夕子の、途方にくれた瞳、だけどほんのりと桃色に染まったくちびる。好きなの? と聞いたあたしに、わかんないよと言った夕子。
あいつ、やなやつだと思ってたし。ぜんぜん勉強してるそぶりなんて見せないのに成績優秀とか、やな感じだと思ってたし。
思って「た」。夕子が工藤に惹かれているのがわかった。あたしはその夜、声を出さずに泣いた。二段ベッドの上段、あたしの真上で眠る彼女に、気づかれないように。
フライパンの油が熱されて、にんにくとしょうがの香ばしい香りがひろがる。今夜の夕食当番はわたし。麻婆豆腐、かきたま汁、きゅうりと茹でささみと春雨のサラダ。
エプロンのポケットに入れた携帯がみじかく鳴る。
「夕子って、遊園地と水族館と動物園と、どこに行きたいと思う?」
工藤からのメール。どうして本人に聞かないんだろう。
「夕子、遊園地は嫌いだよ。三半規管弱くて、コーヒーカップでさえ酔っちゃうから」
律儀に返信してしまう自分。工藤が夕子とつきあい出してから、工藤からのメールが増えた。人生って、皮肉だ。フライパンに豆板醤を入れる。思いっきり辛いのが食べたい。
ふたたび、メール着信。
「んじゃ、やっぱ水族館かな。沢渡もおすすめだって言ってたし」
工藤、沢渡にも相談してるんだ。満面の笑みをうかべてティンパニを猛打する沢渡のすがたが浮かぶ。よりにもよってあんな軽薄なやつに。
目を閉じればまぶたの裏に、トランペットの、まばゆい黄金色がひろがる。夕子の話なんてしないで。前みたいに、音楽の話をして。
ドアの開く音がする。夕子が塾から帰ってきたのだった。
四月の空は淡くかすんで、ふんわりと甘そうな雲がふかふか漂っている。暖かくてまったりと気だるい放課後、いつもの部活。
メトロノームを取りに音楽準備室に行くと、マリンバの影で沢渡が寝ていた。
「あんた練習は」
「おっといけない。教則本を取りにきただけだったのに。うっかり」
沢渡は我が吹奏楽部の問題児で、パーカッションパートのみんなはすでにさじを投げていた。練習嫌いでのらりくらりとさぼってばかりいるのに、なぜだか合奏は完璧に合わせてくる。悔しいけど、センスがあるんだろう。
「もうすぐ十五歳だね、吉川サン」
「なんであたしの誕生日知ってんの」
と言ったあとで、ああそうか、工藤に聞いたのか、と思い当たる。
「結局水族館に誘ったらしいよ、工藤くん」
「あっそ」
「あっそ、って、僕らも行くんだよ」
「僕らって」
「僕と吉川波サン」
はあ? と眉をしかめたところで、波ちゃん早く、と呼ばれた。
あたしと夕子の十五回目の誕生日。空はすっきりと晴れている。今日は部活も休みだ。
駅に待ち合わせて、電車で目的地へ向かう。
「波サンたち、お弁当つくってきてくれたんだよねー」
沢渡が目じりをさげてはしゃいだ。落ち着きなく、窓を開けたり閉めたりしている。夕子のとなりは工藤、あたしのとなりに沢渡。ボックス席に、向かい合わせに座ってる。
結局、沢渡と工藤に押し切られるようなかたちで、ダブルデートにつきあうことになってしまった。何が楽しくて、わざわざ、好きな人と自分の妹のデートについて行かなきゃならないんだろう。
「あたしはつくってない。ぜんぶ波がつくった」
窓の外を流れる風景を見ながら、夕子がそっけないことばを放つ。工藤はなにもしゃべらない。がちがちに緊張しているんだ。コンクールの、本番の舞台でさえ緊張しないって豪語してるのに、情けない。あたしと沢渡がいなかったら重い空気に耐えられないと思ってるんだろう。
顔もおんなじ。スタイルも似ている。だけどキャラはぜんぜん違うあたしたち姉妹。
目的の駅の名前を告げるアナウンス。ぞろぞろと連れ立って降りる。
なんであたしじゃなくて夕子なんだろう。
水族館は人でいっぱいだった。ほとんどが子連れか、カップルだ。
「おれ、ペンギン見たい、ペンギン!」
沢渡が騒いだ。工藤に水族館すすめたのって、じつは自分が行きたかっただけなのかも。
ペンギンは大きな水槽の中をすごいスピードで泳いでいる。陸上をぺたぺたと歩くさまはとても愛らしいのに、水の中では凛々しい。まさに、海中を飛ぶ鳥。
「すげーな、ふたごって。まじでそっくり」
工藤のつぶやきが聞こえて、は? と首をかしげてとなりを見やると、夕子がぽかんと口を開けてペンギンたちに見入っていた。あー、たぶんまた同じ顔してたって言われるんだろう。たんに見た目だけじゃなくって、ふとしたときの仕草とか表情とか、まるで同じなんだってよく言われる。寝相がシンクロしてることもあるってお父さんが言ってた。
あたしは意地悪くほほえんだ。
「ためしにさー、あたしと夕子、入れ替わってみる? あたしが夕子のクラスに行って、夕子があたしのクラスに行くの。みんなだまされるかなー?」
工藤も。だまされる?
「無理だよ」
夕子が、水槽にはりついたまま、ぽつりとつぶやいた。
「あたし波みたいに明るくないし、クラスのみんなともうまくしゃべれないもん。すぐに見破られるよ」
ペンギンのプールの、水の色がゆらゆらと反射して、夕子の表情のない顔を青く染める。
「そうそう。ムリムリー」
一瞬だけしんとした空気をやぶって、沢渡がかははと笑う。
「波サンの成績と授業態度じゃ、センセ―に速攻でバレるね。夕子さんがこんな問題もわからないなんてっ! みたいなー」
「何それむかつくっ」
あたしは沢渡の頭をはたいた。
「成績はともかく授業態度はまじめだもん。ってかさっきの誰センセ―のマネ?」
「浅井ちゃんー」
「まじ? さむっ! よくそんな似てないモノマネ堂々とできるよねー」
あたしと沢渡のやりとりを見ていた工藤が、ぷっとふき出した。今日はじめての笑顔に、一瞬、見とれた。ごめん夕子。ちょっとだけだから。ひっそりと見つめるくらいなら、いいよね……?
海の中に誰も知らない国があったなら。むかし夕子と一緒にそんな話をした。人間とは違う進化の過程を経て、水に棲むように適応してった人類の亜種がつくった国。南の海にあるという海底遺跡の映像をテレビで見ながら、あたしたちは架空の物語をつくって遊んでいた。あたしは陸に住んでいて、夕子は海に住んでる。ふたりはそっくりで、ある日波打ち際で偶然出会って驚く。そんな物語。
水族館の、まるい水槽のトンネルをくぐりながら、そんなことを思い出した。
頭上を無数の銀色の魚の群れが通り過ぎる。ゆらゆらと泳ぐカイトのようなエイの影。
青い水のひかりを受けながら、工藤のとなりで水槽の中の海を見つめる夕子。あなたはおぼえている?
つめたい暗い海の底のベッドに、お母さんは眠っている。お母さんを目醒めさせる薬をもとめて、夕子は地上にあがる決意をする。そんな物語。あたしたちだけの、物語。
同じものを失って。同じ痛みを分け合って。夕子は、医者を目指すと言った。お母さんを奪った病気を打ち負かしたくて。同じ病気で苦しむひとを救いたくて。あたしはフルートを始めた。お母さんが若い頃演奏していた楽器。
工藤はもうだいぶ緊張がほぐれたみたいで、沢渡と一緒にはしゃぎ始めた。あたしはそっと、しゃがみこんで魚を見ている夕子のそばに寄りそう。
「羊水って」夕子が表情のない顔でつぶやく。「海水と似てるんだって。赤ちゃんはお母さんのおなかの中で、一個の細胞から分裂してって、進化の過程をなぞるように発達してくんだって」
夕子の手をとる。今日はあたしたちが生まれた日。
「地球にはいろんな生き物がいる。ひたすら分裂をくり返す単細胞生物から、どんどん枝分かれしてって、いろんな環境に適応して」小さいけれど芯のある、夕子の声。「遺伝子が混じり合ってさらに多様な個体が生まれていくんだ」
「あたしたちは正真正銘百パーセント一緒だよね、遺伝子」
「ん」と夕子は真面目な顔をしてうなずく。「なのに性格は全然違うんだもん。神秘だよ」
おーい、とトンネルの向こうで男子ふたりが手を振っている。あたしたちは手をつないだまま立ち上がった。
「おいおい今日はだれのデートだよ。姉妹で手なんかつないじゃってさあ」
沢渡がおにぎりをぱくつきながら言った。
「ずーっとじゃん。ずーっと。何なのそれ」
水族館そばの大きな公園の、芝生の上にレジャーシートを広げてのランチタイム。四人で円座になってお弁当をつついている。
「わかんない。誕生日だからかなあ」
首をかしげるあたし。
「意味わかんね」と、工藤が笑う。
「うまいな、この卵焼き。波、すげえな」
胸が鳴った。べつに、好きな男子にアピールするためにお弁当つくったわけじゃない。そういうのってあざとくて嫌いだし。あたしはただ、夕子に頼まれたからつくっただけ。なのにほめられればうれしい。胸は鳴ってしまうんだ。
それから、卵焼きは甘いのが好きか塩味が好きかで工藤と沢渡が議論をはじめた。四人全員で、せーの、でどっち派か宣言することになった。
「せーのっ」沢渡が叫ぶ。あたしと夕子と沢渡が「塩味」、工藤ひとりが「甘いの」って言った。
「あれ? 波サン塩派? なんで甘いのつくったの?」
邪気のない沢渡の問いに、顔が熱くなる。
「夕子に聞いたから。工藤が甘いの好きって。妹のカレシに合わせてあげたのっ」
ひといきに言い放つ。嘘だ。ほんとは知ってた。
「いいからみんな早く食べよっ。遊ぶ時間みじかくなっちゃう」
「そうだな。あっ、このから揚げもうめえ。箸とまんねー」
工藤がそう言って顔をほころばせる。
「あったり前じゃん。あたしを誰だと思ってんの。これからは天才シェフとお呼び」
どきどきをごまかしたくて、わざと冗談でまぜっかえすと、工藤はあきれ顔であたしの額をこぶしで軽くこづいた。
「ちょっとほめたらすぐに調子のるよなー、波は。演奏だってそう。ほめたらそこで満足して進化をやめる」
「うるっさいなあー。あんたこそ、何でもすぐに音楽の話につなげるクセ、どうにかしたほうがいいよ」
工藤と夕子がつき合いはじめる前は日常だった、なつかしいやりとりが戻ってきてくすぐったい。あたしの顔が火照ってることとか、とっさに嘘ついちゃったこととか、工藤は何にも気づいてないみたいでほっとする。ほっとするのに、ちくりと痛い。胸の奥の奥、みつばちの棘がささったみたいな小さな痛み。
夕子が、ペットボトルのお茶を飲みながら、そんなあたしをじっと見ている。気づかないふりをして、携帯を見て時間をチェックする。
あたしたちの町を通過する電車は、最寄駅から一時間に一本のペースで出ている。今ここを離れれば、一四時台のに間に合うはず。
あたしはすっと立ち上がった。
「沢渡、帰るよ」
まだもごもごと口を動かしている沢渡の腕を引っ張ってむりやり立ち上がらせる。
「えーっ。まだ遊びたいよう」
「子供かあんたは。ていうかちゃんと飲みこんでからしゃべりな」
「ちょっと、波」
夕子があたしのジーンズの端っこを引っ張っている。
「置いてかないでよ」
「夕子」あたしは再びしゃがんで、夕子の目をじっと見た。「だいじょうぶ。いつもあたしとしゃべるみたいな感じで、工藤と話しな。だいじょうぶ、できる」
それから、工藤のほうに向きなおる。
「あんたも。ちゃんとしなよ。夕子の彼氏でしょ? 自信もって向き合ってよ。デートぐらい、他人に頼らないでやりなさいよ。あたしも沢渡も、こういうおせっかい、今後一切しないから。わかった?」
緊張したおももちで、工藤は、こくん、とうなずいた。わかったならいい。
「じゃあね。これからがふたりのデートの本番だよ。ゆっくり楽しんでね。夕子、お父さんにはうまいこと言っておくから、ちょっとくらい遅くなってもいいからね」
そう言って片目をつぶると、夕子はきょとんとして、工藤は真っ赤になってしまった。
あたしは沢渡の襟首をずるずる引っ張って、広場をあとにした。
帰りの電車の中、あたしは一言もしゃべらず、窓の外を流れる景色をじっと睨んでいる。
「泣きたいなら胸貸しますけどー。ちなみにAカップぐらいですけどー」
沢渡が携帯ゲームをいじりながらぼそっとつぶやいたから、脛を蹴ってやった。
「測ったんかい」
「あれー。波サンより巨乳なのが気にくわないですかねー」
「黙れ沢渡。セクハラで訴える」
もう一度蹴ってやったら「いやーんっ。もっと蹴ってーっ」と沢渡は嬉しそうに身をよじった。バーカ。脱力しちゃって泣く気も失せたよ。
それから。
陽も沈んで、夜空に走る電線の真横あたりに一番星が光った。夕ご飯の支度をしながらキッチンの窓を開けて見上げていたら、玄関のドアが開く音がした。夕子だった。
振り返って、「おかえり」って言おうとして、口をつぐんだ。
夕子、泣いてる。
目を真っ赤にして、ほっぺも首すじも耳たぶも真っ赤で、肩をふるわせて涙をこらえている。無言であたしの真横をすり抜けて部屋にこもる。
夕ご飯は、とノックしたら、いらない、とだけ返ってくる。胸がざわざわする。工藤と何かあったんだ。どうしていいかわからずにドアの前で立ちすくんでいたら、「おねがい、波。今日はひとりにして」と言う夕子のかぼそい声がした。
あたしはその夜リビングのソファで寝た。お父さんは何も言わなかった。いつもの喧嘩だろうって思ったのかもしれない。お父さんが想像してるみたいな、単純なこどもじみた喧嘩なら、どんなにいいだろう。
夜が明けても夕子は起きてこなかった。学校は休むと言った。
登校してすぐ、工藤のクラスをのぞいたら、彼は普通に来ていた。だけど何だか、元気がないように見える。一日中、工藤と夕子のことが気になって気になって仕方なくって。休み時間のたびに工藤のクラスに行ってちらちら彼を見て。耐えきれなくって、放課後、部活がはじまる前に工藤をつかまえた。
音楽室のある校舎別館の裏に呼び出す。萌え出たばかりの葉桜がレースの網目のようなやわらかな影を落とす。工藤は自分のつま先を見つめて口をつぐんだままだ。やがてみんなのロングトーンの音が響いてきて、あたしたちも早く練習に行かなきゃいけなくて、だけどなかなか本題を切り出せずに気ばかりが焦る。怖い。気になるけど、怖い。
「キスしたんだ」工藤が沈黙をやぶった。「夕子に、キスした」
頭に、ずんっと何か重いものがのしかかってきて、一瞬、まっしろになる。動悸がはげしくなって、ことばの意味が理解できずに、ううん、理解するのを拒否している、あたし。
「びっくりだよな。しゃべるのさえ緊張するくせに。俺、自分でも驚いた」
「な、なに他人事みたいに言ってんの?」
わななきながら、つっかかっていくあたし。
「夕子、泣いてたんだよ。学校も行きたくないって言って。たぶん、今も泣いてるんだよ」
なんだか、自分が自分から離れて、勝手にしゃべってるみたい。冷静なほうのあたしが、何言ってるのあたし、って思ってる。だけどやめられない。
「工藤のばか。夕子のこと泣かせないでよ」
何言ってるの波、違うじゃん。夕子を泣かせたから怒ってるわけじゃないくせに。
ずるいよ。
「夕子に、別れようって言われたんだ」
苦しげにことばを絞り出す工藤の顔が、知らない大人の男の人みたいに見える。
「別れて、波とつき合えって言われた。波とのほうがお似合いだからって。ひどくね?」
それで、キスしたんだ。あたしは何も言えずに、そのままカバンを持って走り去った。泣いてしまいそうで、でも、工藤にだけは涙を見られちゃいけなかったから。
はじめて、あたしは部活をさぼった。入部して以来、ずっと真面目に練習してきたのに。
泣きながら走って、走って帰りついた家は、陽もまだ高いのに、妙に薄暗かった。リビングのカーテンは閉め切られ、テレビの液晶画面の放つひかりだけが青く浮かんでいる。
ソファの上に、夕子がひざをかかえて丸くなっていた。音声を切って、画だけが映し出されているテレビを、ぼうっと眺めている。その目は泣きはらしたせいか、むくんでいる。
「ひっどい顔」
開口一番、あたしはそう言った。
「そっちこそ」
夕子が言った。
それからしばらく無言で見つめ合ったあと、あたしは夕子のとなりに座った。ひざをかかえて、丸くなる。
テレビに映っているのは海だった。南国の、透明度の高い、珊瑚礁の海。
「水族館、楽しかった」
ぽつりと夕子がことばを放つ。
「考えてみれば、あたし、はじめてで。ああいう、仲間同士でわいわい騒いでって雰囲気。波にとっては日常茶飯事なんだろうけど」
鮮やかな色彩の熱帯魚たちが、たわむれ合いながら、珊瑚の森の中を泳いでいく。
「あたし、波に嫉妬した。波に合わせる顔がない」
あたしの視線はテレビの中の海に貼りついたままで、だけど、夕子が涙を流しているのがわかる。生まれたときから、ううん、生まれる前からずっと一緒にいるから、お互いの気配には敏感すぎるほど敏感で、ときどきそれが、うっとうしくなる。
「夕子は真面目すぎるんだよ」
冷静に。言い含めるように、告げる。
「嫉妬なんて。だれの中にでもある感情なんだし。姉妹で、しかもふたごなんだから、愛情が深いぶんだけ嫉妬も強いの」
先輩ぶって、まるで他人事みたいに一般論をぶってみる。
「ちがう。あたしはずるいんだ。工藤を試した。あたし、気づいていたのに」
夕子の声がわずかに昂っている。
「気づいていたから。波も、ほんとうは」
「言わないで」
あたしは強い口調で夕子をさえぎった。
「それ以上言ったら許さないから。たとえ妹でも」
夕子は口をつぐんだ。あたしはゆっくりと手をのばして、夕子の頭を撫でる。くせのある、やわらかい猫っ毛。誰かがあたしの髪に触れたらきっと同じ感触がするんだろう。涙に濡れた肌も、薄いくちびるも。まったく同じ遺伝子の命令で出来上がってる。
だけど。
「工藤が好きなのは夕子なの。あいつは夕子じゃなきゃだめなの。わかって」
お願い、わかって。あたしじゃだめなの。
ことん、と夕子があたしの肩に頭をもたげてくる。あたしも首を傾けて、夕子の頭にもたれかかる。あたたかい体温、ふたつの鼓動。同じひとつの命だったあたしたち。だけどこれからどんどん道は分かれていく。違う痛みを抱えて、違う秘密を抱きしめて、あたしたちは生きていく。自分だけの物語をえがいていく。
どれくらい、そうしていただろう。
カーテン越しに、オレンジ色の夕陽が射しこんで部屋を満たしていく。静けさの中で、薄っぺらい画面越しに、波の音が聞こえた気がした。




