第十六章 七禍島は、誰の名を返すのか
その夜、七禍館の七つの灯は点かなかった。
館には通常の照明だけが灯り、警察のライトが現場を照らし、人の声が廊下を行き来した。
鐘は鳴らず、鏡は封鎖され、風洞回廊には誰も入らず、血禍の間はただの後付け展示室として解体されるのを待っていた。
七禍は沈黙していた。
それは、呪いが終わったからではない。
ようやく、人間が伝承に喋らせるのをやめたからだった。
火野朱里は逮捕された。
佐伯警部補の死、複数の殺人未遂、監禁、証拠偽装、建造物侵入、そして七禍再演のための一連の工作について、供述を続けることになった。
鷺宮依子もまた逮捕された。
二十一年前の隠蔽に直接どこまで関わったかは、これから調べる必要がある。だが少なくとも、今夜の事件で朱里を誘導し、沙羅と鳳を血禍の候補へ置こうとしたこと、未沙の監禁と音声工作に関わったこと、黒羽宗一郎の死に関与した疑いは明らかだった。
灯村要は、二十一年前に沙羅を逃がした。
しかし、その後沈黙した。
彼の沈黙が誰かを守ったことも、誰かを見捨てたことも、同時に記録される。
榊悠斗は、開発会社側の証言者となった。
黒羽宗一郎が七禍を観光資源として利用しようとしていたこと。
血禍の名を曖昧に残そうとしていたこと。
鷺宮依子と密かに面会していたこと。
そして自分自身もまた、その資料を作る側にいたこと。
榊は、何度も言葉に詰まりながら、それでも話した。
沙羅は生きていた。
その一文を、二階堂は報告用メモの中で何度も書き直した。
生存確認。
保護。
事情聴取予定。
どれも正しい。
だが、二十一年間死者として扱われた人間に対して、正しい行政語だけでは足りない気がした。
「死んでいませんでした、じゃ足りないんだよな」
二階堂は呟いた。
真壁は隣で報告書を見ていた。
「何が」
「言葉」
「お前の領分だろ」
「だから困ってる」
二階堂は疲れた顔で笑った。
「沙羅さんは、生きていた。でもそれだけじゃない。死者にされていた。名前を奪われていた。生きている間も、島の外で自分が何者か言えなかった。どう書けばいい?」
「事実から書け」
「真壁はそれしか言わない」
「それしかない」
二階堂はしばらく黙り、それから頷いた。
「そうだね。事実から書く」
九条は仮設の検案室になった客室で、発見された骨片と遺留品のリストを作っていた。目の下に影ができている。だが手は止まらない。
「寝ろ」
真壁が言うと、九条は顔を上げずに答えた。
「あと少し」
「その“あと少し”は信用してない」
「真壁に言われると、説得力がない」
二階堂が横から言った。
「九条、それは本当にそう」
「お前も寝てないだろ」
「俺は言葉の後始末中」
「九条は死体の後始末中だ」
「二人とも、言い方」
鳳が部屋の入口で小さく笑った。
彼もまた眠っていない。
だが、昨夜までの張り詰めた顔とは少し違っていた。兄の名を追ってここまで来た男は、まだ答えを得ていない。
鳳悠一が死んだのか、生きているのか。
血禍の縦坑から見つかった骨片が誰のものなのか。
二十一年前、彼が最後に何を見たのか。
すべては未確定のままだ。
それでも鳳の顔には、わずかな変化があった。
兄の名前と、兄の名前を使ったものを、見分けられるようになってきた。
その変化だった。
「鳳さん」
真壁は呼んだ。
「はい」
「最後に、血禍の間を見るか」
鳳は少しだけ目を伏せた。
「見ます」
血禍の間は、もう血禍の間ではなかった。
壁の一部が外され、後付けの展示板は取り払われている。赤い照明も、木札を吊るしていた金具も、観光用の説明文も撤去された。
残ったのは、古い縦坑の口と、湿った石壁と、壁の奥へ続く狭い通路だけだった。
鳳はそこに立った。
何も言わない。
真壁も、二階堂も、九条も黙っていた。
やがて鳳は、証拠袋に入った小さな紙片を見た。
真依が残した図面の端。
そこには、拙い字でこう書かれている。
鳳くんは、ここは部屋じゃないと言った。
それだけだった。
名前でも、告発でも、遺言でもない。
だが、鳳恭介にとっては十分だった。
「兄は、ここを見たんですね」
「ああ」
真壁は言った。
「見て、違うと言った」
「はい」
鳳は小さく息を吐いた。
「兄らしいです」
「どんな人だった」
「よく覚えていません。僕が子どもの頃にいなくなったので」
鳳は少し笑った。
「でも、図面の間違いを見つけると、放っておけない人でした」
二階堂が言った。
「鳳さんと同じですね」
「似ていると言われるのは、少し怖かったんです」
「今は?」
「少し、嬉しいです」
真壁は何も言わなかった。
この瞬間は、鳳のものだった。
昼過ぎ、調査班は血禍の間の解体確認に入った。
観光用に後付けされた壁の裏からは、いくつかの古い木札が見つかった。いずれも七禍の展示に使う予定だったと思われるものだ。
そこには、禍の名とともに、複数の候補名が書かれていた。
血禍――沙羅/鳳悠一/真依。
土禍――陣内拓馬/古賀清澄。
火禍――火野千景。
海禍――浦瀬清人/灯村要。
今夜の事件の準備段階で火野朱里が作ったものとは別に、二十一年前から残っていた木札も混じっていた。
二階堂はそれを見て、顔をしかめた。
「候補名って、最悪だな」
真壁も同じことを思った。
誰を死者にするか、候補として並べる。
その発想そのものが血禍だった。
九条が言った。
「人間をラベルにするからこうなる」
鳳は木札を見ていた。顔は青白かったが、崩れなかった。
「兄の名前があります」
真壁は頷いた。
「証拠として保全されます」
「はい」
「ただ、これはお兄さん自身の名前ではない。誰かが置いた名前です」
「わかっています」
鳳は静かに言った。
「見分けられるようになってきました」
「何を」
「兄の名前と、兄の名前を使ったものの違いです」
真壁は、その言葉を受け止めた。
夕方、島を出る船が港に着いた。
空は晴れていた。七禍島は、夜に見たときよりもずっと小さく見えた。断崖も、館も、港も、明るい光の下ではただの場所だった。
人が死んだ場所。
人が嘘をついた場所。
人が誰かを助け、誰かを見捨てた場所。
船に乗る前、榊悠斗が真壁のもとへ来た。
スーツは皺だらけで、目の下には濃い影がある。最初に食堂へ入ってきた時より、ずっと年を取ったように見えた。
「真壁さん」
「何ですか」
「黒羽部長のこと、私はまだよくわかりません」
「でしょうね」
「最低な人だったと思います。でも、殺されていい人ではなかった」
「そうです」
「会社のことも話します。私が知っている範囲だけですが」
「それでいい」
榊は頷いた。
「それと、七禍のパンフレットは、出させません」
二階堂が横から言った。
「それ、会社で言ったらかなり揉めますよ」
「揉めると思います」
「戻れなくなるかも」
「戻れないなら、それでもいいです」
二階堂は少しだけ笑った。
「今の言葉は、記録じゃなくて覚えておきます」
榊は頭を下げ、捜査員の方へ戻っていった。
船に乗る前、沙羅が鳳の前に立った。
彼女は長い時間、何も言わなかった。鳳も急かさなかった。
やがて沙羅は言った。
「鳳くんは、真依に優しかったと思います」
鳳の表情が変わった。
鳳くん。
それは、真依が壁に残した呼び名だ。
沙羅がその呼び名を口にすると、鳳悠一はまた少し現実に近づいた。
「ありがとうございます」
鳳は言った。
声が震えていた。
真壁は、少しだけ視線を外した。
この瞬間は、鳳と沙羅のものだった。
船が島を離れる。
海は昼の色を取り戻していた。青とも灰ともつかない春の海。波は低く、港の灯はもう見えない。七禍館も、少しずつ遠ざかる。
二階堂が手すりにもたれた。
「今回、最悪だったね」
「いつも言ってるな」
「毎回更新されるんだよ」
九条が船室の窓際で目を閉じている。眠っているのかと思ったが、真壁が近づくと目を開けた。
「寝てろ」
「寝てない」
「見ればわかる」
「真壁も寝てない」
「俺はいい」
「よくない」
二階堂が笑った。
「はいはい、幼なじみの健康管理は帰ってからやって」
真壁は無視した。
鳳は船尾側に立ち、島を見ていた。
十二灯館の事件の後、真壁はこの男ともう事件現場で会いたくないと思った。だが、また会った。
そして、おそらくこれからも、建物が嘘をつく場所で会うことがあるのだろう。
「鳳さん」
「はい」
「次は、事件じゃない場所で会いたいな」
鳳は真壁を見て、少しだけ笑った。
「そうですね」
二階堂が横から言った。
「でも鳳先生、事件じゃない建物でも絶対に隠し通路を探すでしょ」
「探しません」
「本当に?」
「少しだけしか」
「探すんじゃん」
九条が目を閉じたまま言った。
「鳳先生は、建物を見ると危ない」
「九条先生に言われたくないです」
「俺は死体を見るだけ」
「どっちも一般人から見たら怖いよ」
二階堂の言葉に、真壁は少しだけ笑った。
七禍島は遠ざかっていく。
だが、事件は終わらない。
再鑑定がある。
事情聴取がある。
報告書がある。
二十一年前の記録を修正しなければならない。
死者の名前を戻し、生者を死者から外し、禍という言葉の下に押し込められた人間を、ひとりずつ取り戻さなければならない。
それは派手な解決ではない。
探偵がすべてを語り終え、犯人が泣き崩れ、読者が本を閉じるような終わりではない。
だが真壁は、それでいいと思った。
名前を戻す仕事は、たいてい地味だ。
地味で、遅くて、面倒で、誰からも拍手されない。
それでも、死者にとってはそれがすべてになることがある。
真壁は報告書の一行目を思い出した。
いわゆる七禍島事件について、死亡者および行方不明者の身元、発見場所、死亡時期には重大な疑義がある。
その一文の先に、これから無数の名前が続く。
火野千景。
浦瀬清人。
古賀清澄。
真依。
沙羅。
鳳悠一。
黒羽宗一郎。
佐伯警部補。
そして、まだ正しく呼ばれていない誰か。
七禍は、七つでは終わらない。
だがそれは、呪いが続くという意味ではない。
七つに押し込められた名前を、七つの外へ返していくという意味だ。
船が波を越えた。
足元がわずかに浮き、次の瞬間には沈む。
真壁は手すりを握り、遠ざかる島を見た。
もう灯は見えなかった。
ただ、海だけがあった。
名前を失った夜の海ではない。
人間が勝手につけた禍の名を、少しずつ洗い流していく、朝の海だった。
了
読んでくださってありがとうございます。
【ランキング入り作品】
・『哭島列車と五骸童子』完結済
童歌になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条
https://ncode.syosetu.com/n3202mg/
・『十二灯館は、誰の罪を照らすのか』完結済
十二の灯とともに、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条、鳳
https://ncode.syosetu.com/n3124mg/
・『雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか』完結済
わらべ歌になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条、江口
https://ncode.syosetu.com/n3162mg/
・『七禍島、鳳恭介の帰還』完結済
過去の事件『七禍』になぞらえて、人が殺される。
登場:真壁、二階堂、九条、鳳
https://ncode.syosetu.com/n3112mg/
・『右にある心臓』完結済(社会ホラー)
九条の身体的特徴が、風評により怪異とされていく。
登場:真壁、二階堂、九条
https://ncode.syosetu.com/n3092mg/
・『青燐荘の十三人目』完結済
死者を悼う場所で、生者が順番に裁かれていく。
登場:真壁、二階堂、九条、鳳、江口
https://ncode.syosetu.com/n1162mg/
閉鎖空間、見立て殺人、法医学、建築ミステリが好きな方は、ぜひ他作品もどうぞ。




