第十三章 七禍の終焉
七禍館は、もう沈黙していなかった。
それは、不思議な感覚だった。これまで館は、黙っているように見えた。古い壁。湿った床。曇った鏡。風の抜ける回廊。水を抱えた床下。鳴るはずのない鐘。どれもが、ただそこにあるだけのものに見えていた。
だが違った。
館はずっと喋っていた。
人間が、その声を聞き間違えていただけだ。
真壁彰は玄関ホールの中央に立ち、床の上に広げられた図面を見下ろしていた。
七禍館の現行図面。
二十一年前の保存会資料に残っていた簡略図。
開発会社が作った観光用パンフレットの館内図。
そして鳳恭介が赤と青と黒の線を引いた、もうひとつの図面。
それらを重ねると、館はまったく違う顔を見せた。
「血禍の間は、最初から“部屋”じゃなかった」
鳳は静かに言った。声は掠れていたが、思考は澄んでいる。
十二灯館の事件で、真壁はこの男が建物の前で見せる顔を知っていた。穏やかで、丁寧で、他人を押しのけない。だが建物の嘘に触れた瞬間だけ、目の奥が鋭くなる。
今もそうだった。
「部屋ではなく、縦坑と通路の結節点です。もともとは祭具や修繕材を下ろすための搬入口だった可能性が高い。後年、観光用の血禍展示室として壁を張り、照明と木札を置いた。だから記録上は“血禍の間”になる。でも構造上は、そこに部屋は存在しない」
「存在しない場所に、死者の名前を置いた」
二階堂壮也が言った。
広報課の警部補らしく、彼は言葉の置かれ方を見る。事件そのものより、事件がどう語られるか。誰が先に言ったのか。どの名が誰の口に乗ったのか。その順番に敏感な男だった。
鳳は頷いた。
「はい。存在しない部屋に、存在しない遺体を置く。建物の上では、これ以上ないほど都合のいい嘘です」
九条雅紀は、壁際の机に置かれた骨片と古い布片を見ていた。
血禍の縦坑の奥から見つかったものだ。正式な鑑定はこれからだが、九条は無造作に断定しない。断定しない代わりに、断定できない範囲を正確に切り分ける。
「少なくとも、これだけでは鳳悠一さんの遺体とは言えない」
「別人か」
真壁が訊く。
「別人の可能性もある。動物骨が混じっている可能性もある。古い祭具に付着した人骨片の可能性もある。今ここで言えるのは、“血禍の死者”を証明する量でも状態でもないということ」
「つまり、二十一年前の資料は」
「死体を確認した資料じゃない」
九条は顔を上げた。
「死体があることにした資料」
ホールに沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、火野朱里が小さく息を呑んだ。
彼女は椅子に座らされている。手首に拘束はない。だが県警の若い刑事がすぐそばに立ち、真壁も二階堂も、彼女から目を離してはいなかった。
朱里は一連の事件の準備を認め始めていた。
七禍の再演。木札。放送。鐘。鏡廊下の細工。風洞回廊の罠。
だが、すべてを彼女一人の犯行として閉じるには、まだ早かった。
二階堂が言った通り、犯人は過去を暴くふりをして、自分に都合の悪い部分だけを隠している。七禍を壊すために七禍を作った時点で、彼女自身もまた、死者を編集した側に回っている。
榊悠斗は、ホールの隅に立っていた。
開発会社の代理人としては、あまりに頼りない姿だった。だが、黒羽宗一郎の部下としては、それが自然なのかもしれなかった。
上司は死んだ。
自分が整理していた資料は、二十一年前の死者を並べ替えるための道具だった。
そして黒羽は、おそらくそれを知った上で、利用しようとしていた。
榊はまだ、その事実を飲み込めていない。
真壁はそう見た。
「榊さん」
真壁が呼ぶと、榊は肩を揺らした。
「はい」
「黒羽さんが最後に会っていた相手について、話すと言いましたね」
榊は唇を舐めた。
「はい。正確には、最後に会う予定だった相手です」
「誰ですか」
榊は一度、鷺宮依子を見た。
鷺宮はホールの反対側で、静かに座っていた。館の管理人としての表情を崩していない。だが、榊に視線を向けられた瞬間だけ、目元がわずかに動いた。
「鷺宮さんです」
ホールの空気が変わった。
真壁は鷺宮を見た。
「鷺宮依子さん。黒羽さんと会う予定があった?」
「館の管理人として、開発会社の方と打ち合わせをするのは当然です」
「何の打ち合わせですか」
「展示内容です。観光用の導線と、危険箇所の封鎖について」
榊が首を振った。
「違います」
鷺宮の目が、榊に向いた。
榊は一瞬ひるんだ。
だが続けた。
「黒羽部長は、血禍の展示を作り直すと言っていました。鳳悠一の名前を残すかどうか、鷺宮さんと確認すると」
「榊さん」
鷺宮の声は静かだった。
「亡くなった上司の発言を、ご自身の都合で歪めるのはよくありません」
榊の顔が青ざめた。
二階堂が、低く言った。
「いいですね」
「何がですか」
鷺宮が見る。
「今の言い方です。証言の内容ではなく、証言者の心理を先に潰しにいった。慣れてますね」
鷺宮は答えなかった。
真壁は榊に言った。
「続けてください」
榊は頷いた。
「黒羽部長は、血禍はまだ金になる、と言いました。でも、そのあとで、こうも言っていました。血禍を鳳悠一のままにしておくと、いずれ問題になる。弟が来るなら、なおさらだと」
鳳の表情が動いた。
「僕のことを、知っていたんですか」
「はい。開発会社側の参加者リストに、鳳先生のお名前がありました。黒羽部長は、あなたが来ることをかなり気にしていた」
「なぜ」
「血禍の間が、部屋ではないと見抜かれるからだと思います」
榊は小さく息を吐いた。
「今なら、そう思います」
真壁は鷺宮を見た。
「鷺宮さん。黒羽さんは、血禍の展示を作り直そうとしていた」
「私は、そのような話は聞いていません」
「黒羽さんが死んだのは、その後です」
「偶然でしょう」
二階堂が口角だけを上げた。
「偶然って、便利な言葉ですよね。死者が増えるたびに使える」
鷺宮は二階堂を見なかった。
真壁は火野朱里へ向き直った。
「火野さん」
朱里は顔を上げた。目の下に濃い影がある。強い女に見える瞬間と、ただ疲れ果てた娘に見える瞬間が、絶えず入れ替わっていた。
「血禍の木札に、なぜ三つの名を書いた」
沙羅。
火野朱里。
鳳恭介。
朱里は答えなかった。
二階堂が続ける。
「自分を候補者に入れた理由は、二つ考えられる。自分も被害者だと見せるため。もしくは、自分が最後に死ぬつもりだったため」
朱里の指がわずかに動いた。
「どっち?」
「……どちらでもよかった」
朱里は言った。
「どちらでも、七禍は終わると思った」
「終わらない」
真壁は即座に言った。
朱里が彼を見る。
「人が死んでも終わらない。名前を置き換えても終わらない。お前が死んでも、鳳さんが死んでも、沙羅さんが死んでも、七禍は終わらない。新しい死者が増えるだけだ」
朱里の目が揺れた。
「じゃあ、どうすればよかったんですか」
それは怒鳴り声ではなかった。
むしろ、ひどく静かな声だった。
二十一年間、誰にも届かなかった問いが、ようやく喉の奥から剥がれ落ちたような声だった。
「母は死にました。火禍にされました。浦瀬さんは海禍にされた。古賀清澄さんは陣内拓馬にされた。真依さんは名前ごと消された。沙羅さんは死んだことにされた。鳳悠一さんは血禍にされた。誰も、本当の名前で呼ばれなかった。なのに、七禍祭だけが残った。観光資源になった。パンフレットになった。どうすればよかったんですか」
真壁は答えなかった。
簡単な慰めは、ここでは嘘になる。
代わりに二階堂が口を開いた。
「名前を間違えた人間を、殺すことでは直せない」
「綺麗事です」
「そうだよ」
二階堂は認めた。
「でも、綺麗事を通すために警察とか報道とか記録とかがある。少なくとも俺は、そういうものの側にいたい。言葉を汚した人間に、次の言葉まで渡したくない」
朱里は笑った。泣き笑いのような表情だった。
「あなたは、言葉で人が助かると思っているんですね」
「助からない人もいる」
二階堂の声は低かった。
「でも、殺された後にもう一度殺されるのを止めることはできる」
九条がそこで言った。
「死体も同じ」
全員の視線が九条に向いた。
「死んだ人間は生き返らない。でも死因を間違えないことはできる。損傷を見落とさないことはできる。誰の骨か、誰の血か、誰の持ち物か、できるだけ間違えないようにすることはできる」
九条は朱里を見た。
「名前を間違えないで、は死んだ後まで届く声」
朱里は口元を押さえた。
鳳は、壁際に立ったまま黙っていた。
彼の視線は血禍の木札に向いている。そこには、鳳悠一という名が何度も現れた。
同じ文字なのに、真依が残した“鳳くん”と、朱里が書いた“鳳悠一”と、鷺宮徹の手帳にあった“鳳の名を使う”は、まったく違うものだった。
「鳳さん」
真壁が呼ぶ。
「はい」
「今、聞きたい。血禍の縦坑の奥にある通路は、どこへ出る」
鳳は図面に視線を落とした。
「三つあります。ひとつは旧祭壇棟の床下。ひとつは海側の排水路。もうひとつは、現在は塞がれているはずの管理人棟地下です」
「塞がれているはず」
「はい。図面上は」
「実際は」
「塞がれていない可能性があります」
真壁は頷いた。
「そこに行く」
二階堂がすぐに言った。
「全員で?」
「いや。人数を絞る」
「罠がある」
「だから鳳さんが要る。九条も要る。二階堂、お前はホールに残れ」
二階堂の表情がわずかに動いた。
「俺だけ留守番?」
「全員の言葉を押さえられるのはお前だ。朱里さんが何かを言ったら記録しろ。沙羅さんが目を覚ましたら、最初に何を言うか聞いてくれ。榊さんの証言も続けて取れ。死体より先に名前を置かせるな」
二階堂は少しだけ笑った。
「そういう頼み方、ずるいんだよな」
「頼んでる」
「わかってる。行って」
榊が一歩前に出た。
「私も」
真壁は彼を見た。
「だめです」
「黒羽部長が会っていた相手が関係しているなら、私にも」
「あなたはホールに残ってください」
「なぜですか」
「あなたは今、証言者です。死なれると困る」
榊は言葉を失った。
二階堂が軽く手を上げた。
「榊さんは俺が預かります。安心して。少なくとも、勝手に血禍にはさせません」
「……わかりました」
榊は引き下がった。
真壁は鳳と九条を見た。
「行くぞ」
血禍の縦坑へ向かう廊下は、昼になっても暗かった。窓が少ないだけではない。壁の厚みが、外の光を拒んでいる。
十二灯館の湖上回廊で見た暗さとは違う。
あの館は反射で人を騙した。
ここは、奥行きで人を騙す。
鳳が懐中電灯を床に向けた。
「この床、二重です」
「またか」
真壁が言うと、鳳は薄く笑った。
「十二灯館でも見ましたね」
「だから言ってる。お前の安全判断は信用してない」
「建物の判断は?」
「それは信用してる」
鳳は一瞬だけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
その声は小さかった。
縦坑の奥から、冷たい空気が吹き上げていた。
真壁はロープを確認し、九条に合図した。九条は無言で頷く。赤い目が、闇の奥を見ている。
降りた先は、狭い通路だった。
湿った石壁。低い天井。足元には古い木片と錆びた金具が散らばっている。空気は悪いが、完全に淀んではいない。どこかへ抜けている。
鳳は壁に手をかざし、触れずに凹凸を追った。
「ここ、何度も使われています」
「二十一年前か」
「それ以前からです。ただ、最近も人が通った跡があります」
真壁は足元を照らした。泥の上に靴跡がある。複数。古いものと新しいものが重なっている。
その先で、九条が立ち止まった。
「匂いが違う」
「何の」
「血じゃない。薬品。古い消毒薬みたいな匂い」
通路の突き当たりに、低い扉があった。表面は石壁に似せて塗られているが、蝶番の部分だけが新しい。
鳳が言った。
「管理人棟地下です」
真壁は拳銃に手をかけ、扉を押した。
中は、小さな部屋だった。
棚。古い机。割れた鏡。カセットテープ。紙束。木札。古い祭具。そして壁一面に貼られた、二十一年前の新聞記事。
七人は禍に選ばれた。
その見出しだけが、何度も何度も切り抜かれていた。
机の上に、一冊の手帳があった。
表紙には、鷺宮徹の名。
真壁は息を止めた。
鳳が手帳を見つめる。
「この人が、最初に名前を置いた」
真壁は手袋をした指で、表紙を開いた。
そこにはこう書かれていた。
――七禍は、島を守るために必要な物語である。
その一文を見た瞬間、真壁は胸の奥が冷えるのを感じた。
事件は、復讐だけではなかった。
隠蔽だけでもなかった。
人間の死を、島の物語に変えた者がいた。
そしてその物語を、二十一年後にもう一度使った者がいた。
七禍は呪いではない。
編集だった。




