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第5話:雨の路地裏と、泥を被った狂犬

 国家魔導師の仕事は、何も執務室に籠もっているだけじゃない。

 時には、現場でしか分からない不具合を調査するために、王都の治安が微妙な区画まで足を運ぶこともある。


 その日は、最悪のコンディションだった。

 予報外れの雨が、石畳を冷たく濡らしている。


(……あーあ、お気に入りのローブの裾が泥だらけ。クリーニング代、経費で落ちるかしら)


 私は、魔道具の不法投棄が疑われる路地裏の調査を終え、足早に大通りへ戻ろうとしていた。


 すると、曲がり角の先から、肉を叩くような鈍い音と、不自然に混濁した「魔力の匂い」が漂ってきた。

 前世の処世術なら「見て見ぬふりをして立ち去る」のが正解だ。

 けれど、その匂いは私の技術者としての感覚を不快に逆なでした。

 まるで、精密機械が油にまみれて焼け付いているような、最悪の「非効率」を感じたからだ。


「……毒、かしら。それも、かなり出力調整に失敗しているわね」


 角を曲がると、そこには数人のならず者たちが転がっていた。

 その中心に立っていたのは、返り血で汚れた黒い軽装鎧を纏った、一人の少年騎士だった。


 シオン。

 王宮騎士団の遊撃隊に所属する、若き天才。

 アルヴィス様が「氷の貴公子」なら、彼は「毒蛇の騎士」と呼ばれている。

 しなやかな肢体と、少し長めの癖のある黒髪。そして、見る者を小馬鹿にしたような、怜悧な金色の瞳。

 彼もまた、その「危うい美貌」で多くの女性を惹きつけてやまない一人だ。


 だが、今の彼の周囲には、どろりとした紫色の魔力が、制御を失って渦巻いていた。


「……消えろよ、平民。死にたいのか?」


 シオンは私を一瞥し、低く冷笑を浮かべた。

 彼の手にある短剣は、自身の漏れ出た毒の魔力に侵され、今にも腐食して砕け散りそうになっている。

 その毒は敵を殺すためのものだが、今の彼は、自分の武器にすら拒絶されているように見えた。


「死にたくはないけれど、魔力暴走を放っておくのも寝覚めが悪いのよね。……シオン、その短剣もう限界よ。これ以上魔力を流せば、あんたの右腕ごと弾け飛ぶわ」


「はっ……なら、飛べばいいさ。この程度の痛み、どうってことはない。それより、無能な魔導師が分かったような口を利くな。不愉快だ」


 彼は突き放すように鼻で笑い、震える手でさらに魔力を込めた。

 自傷行為に近いその戦い方。

 周囲の人間を寄せ付けず、自分すらも使い捨ての道具のように扱う。

 その冷笑の裏にあるのは、己の力に対する深い絶望と、歪な誇りだった。

 私は溜め息をつき、泥を避けるのも忘れて彼に歩み寄った。


「あんた……、何をしてる。近寄るなと言ったはずだ……!」


「いいから、黙って見なさい。『中和』と『排熱』、術式並列展開。あと、魔力伝導率の緊急バイパス接続」


 私は彼の手首を掴み、そのまま短剣の柄に指を滑らせた。

 瞬間、指先から伝わってきたのは、焼けるような熱と、粘りつくような不快感。

 普通の魔導師なら触れるだけで精神が汚染されるような「猛毒」だ。

 

 けれど、私にとっては――。

(……やっぱり。これ、出力のバランスが左右でコンマ数秒ずれてるだけじゃない。回路のノイズが多すぎるのよ)


「あんたの魔力、質は最高なのに、エンジンの設定がガバガバなのよ。これじゃあ、アクセルとブレーキを同時に踏んでるようなもの。……非効率すぎて、見ていてイライラするわ」


「……何、だと……?」


 シオンの金色の瞳が、驚愕に揺れる。

 私が指先から流し込んだ「最適化」の魔力が、彼の暴れる毒を強制的に整列させていく。

 

 腐食しかけていた短剣の刃が、嘘のように澄んだ紫色に輝き始め、彼を蝕んでいた苦痛が霧散していった。


「はい、応急処置完了!本当は、もっと根本から術式をデバッグしないとダメだけど」


 私は彼の泥だらけの手を離し、ハンカチで自分の指を拭いた。


「……あんた、何者だ。俺の『毒』に触れて、正気でいられるはずが」


「魔導院のレリア。毒だろうが氷だろうが、私にとってはただの『エネルギーの属性』に過ぎないわ。属性に貴賤はないけれど、効率の悪い使い方は罪よ」


 私は彼を一度も見ずに、立ち上がった。


「その短剣、三日以内に私の執務室に持ってきなさい……今のあんたの戦い方は、技術者に対する冒涜だわ。もっと『マシな兵器』に仕上げてあげる」


「……誰が、行くかよ。勝手なことを……」


 シオンは冷笑を崩さないまま、けれど、その視線は私の背中に強く突き刺さっていた。


「あ、仕事として受けるから、ちゃんとした依頼書を添えてね。じゃあ、定時だし帰るわね。お疲れ様」


 雨の中、私は足早に立ち去った。

 背後で、彼がどのような顔で自分の手を見つめていたのか。

 そして、これまで誰からも「怪物」として恐れられてきた自分の毒を、単なる「効率の悪いエネルギー」と切り捨てられた衝撃が、どれほどの執着に変わったのか。

 

 私はまだ、それを知らない。

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