第3話:絶対零度の視察、あるいは無自覚な餌付け
杖を納品してから一週間。
私の執務室には、なぜか「注文した覚えのない高級茶葉」や「隣国の希少な魔石」が、匿名(という名の見え見えの偽名)で届くようになっていた。
(……『通りすがりの慈善家』って誰よ。この魔導院、そんなに物好きな人が多いのかしら)
届いた物品を「福利厚生」としてありがたく計上しながら、私は新しい術式の構成に没頭していた。
そんな中、再びあの冷たい空気が廊下から流れてきた。
扉が開く。そこには、軍務用の漆黒のコートを羽織ったアルヴィス様が立っていた。
相変わらず、そこにいるだけで空間が凍りつくような威圧感。
だが、今日の彼は、手元に妙なものを持っていた。
「……レリア。仕事の手を止めろ。視察だ」
「視察、ですか? こんな地下の掃き溜めに?」
「そうだ。君の付加術式が、騎士団の演習で異常な数値を叩き出した。杖の負荷テストを兼ねて、僕がじきじきに君の作業工程を確認する」
アルヴィス様はそう言うと、私のデスクの端に、持っていた小さな籠を置いた。中からは、芳醇なバターと砂糖の香りが漂ってくる。
「……あ、あの、アルヴィス様。これ、視察に必要ですか?」
「…………僕の集中力を維持するための触媒だ。余ったら、君が処分しておけ」
彼は不自然に目を逸らし、部屋の隅にある堅牢な石の椅子に腰を下ろした。……どうやら、そこで私が作業するのをずっと見ているつもりらしい。
(……仕事、しづらっ。前世の『監視の厳しいパワハラ上司』を思い出すわね)
私は心の中で舌打ちしながらも、仕事(魔法)となれば話は別だ。
鉄筆を手に取り、依頼されていた騎士団用の汎用剣に「鋭利維持」と「軽量化」の術式を刻んでいく。
鉄筆が石をなぞるカリカリという音と、私の魔力の脈動だけが響く室内。
アルヴィス様は、驚くほど静かに私を見ていた。
彼のような天才魔導師からすれば、私の付加魔法はひどく地味で、機械的に見えるはず。
けれど、私が術式の難所に差し掛かり、無意識に唇を噛んで魔力の出力を微調整するたび、彼の周囲の気温が目に見えて下がっていく。
「……そこだ」
突然、彼が背後から声をかけた。
いつの間にか、彼は私のすぐ後ろに立っていた。
冷たい雪のような香りが鼻をくすぐる。
アルヴィス様の指先が、私の握る鉄筆の先に触れようとして、寸前で止まった。
「その回路の『結び目』……既存の教本では三層構造にするはずだが、君は一層に圧縮したな……なぜだ?」
「三層だと、魔力の衝突が起きて発熱するからです。一層で効率よく回せば、熱エネルギーをすべて攻撃力に転換できる。……アルヴィス様、邪魔です。影になって手元が見えません」
私が事務的に彼を押し退けようとすると、アルヴィス様は私の肩を掴み、そのまま強引に覗き込んできた。
「……驚嘆に値するな。誰も気づかなかった欠陥を、君はただ『効率が悪い』という理由だけで切り捨てていく……僕の力も、そうやって整理したのか」
「ええ。あなたの魔力は、不純物がないからこそ、少しの澱みで壊れやすい……硝子細工みたいに繊細なんです。だから、通り道を綺麗にしてあげただけですよ」
私は作業に集中したまま、適当に答えた。
だが、その瞬間。
肩を掴んでいた彼の手に、一気に力がこもった。
振り返ると、アルヴィス様は顔を真っ赤に――いや、やはり耳だけを真っ赤にして、絞り出すような声で呟いた。
「……硝子細工だと? ……僕を、そんな脆いもののように扱ったのは、君が初めてだ」
「あ!褒め言葉ですよ? 密度が高い証拠ですから……さあ、視察なら終わりましたよね? 籠の中の『触媒』も私が責任を持って処分しておきますので、お引き取りを」
私は、彼が持ってきた高級菓子――王都で三時間は並ばないと買えないと噂のタルト――を引き寄せ、早く帰るよう促した。
アルヴィス様は、何かを言いたげに口を動かしたが、結局は「……勝手にしろ」と吐き捨てるように言い残して、逃げるように立ち去っていった。
残されたのは、甘い香りと、やけにキンキンに冷えた部屋。
「……ふぅ。やっと静かになった。さて、このタルト、最高級のバターが使われてるわね。疲れた脳には糖分が一番」
私は幸せそうに頬張りながら、術式の美しさについて考えを巡らせていた。
一方、廊下を爆走していたアルヴィスは、すれ違う魔導師たちが凍りつくほどの冷気を撒き散らしながら、内心で絶叫していた。
(硝子細工……繊細……! 彼女は、僕という存在を、誰よりも深く、根源から理解している……!)
彼は、自分が単なる「魔法の素材」として分析されていることに気づかないまま、その執着という名の氷の檻を、自らの手でより強固に作り上げていた。
「次は、もう少し保存のきく触媒(菓子)を持っていくべきか……いや、次は僕の別の魔道具を見せよう。そうすれば、またあの瞳で僕を……僕の魔力を見てくれるはずだ」
「氷の貴公子」の威厳は、地下室の事務的な対応の前に、音もなく崩れ去ろうとしていた。




