閑話:氷の貴公子と日常(アルヴィス視点)
ちょっと寄り道
国家魔導院、最上階。
地下にあるレリアの執務室とは対照的な、光の溢れる豪華な会議室。
そこでは、国の国防を担う高位魔導師たちが、一人の青年に向かって恐縮しきった様子で頭を下げていた。
「アルヴィス様、今回の北方境界の結界維持計画ですが……こちらの予算案で、何卒……」
アルヴィスは、差し出された書類に視線すら落とさない。
彼はただ、窓の外に広がる王都の景色を、感情の抜け落ちた碧眼で見つめているだけだ。
その指先が机を軽く叩くたび、周囲の温度が物理的に下がり、魔導師たちは寒さで肩を震わせる。
「……やり直せ」
短く、氷の刃のような一言。
「魔力伝導率の計算が三パーセントずれている。その程度の誤差を『許容範囲』とする無能が、私の部下を名乗るな」
「も、申し訳ございません!」
アルヴィスは席を立ち、マントを翻して部屋を出る。
背後で魔導師たちが安堵の溜め息をつくのが聞こえたが、彼にとっては羽虫の羽音も同然だ。
廊下を歩けば、すれ違う女性魔導師や貴族の令嬢たちが、一斉に足を止め、頬を染めて彼を見送る。
「見て、アルヴィス様よ……。なんて気高くて、美しいのかしら」
「あの方に一度でも冷たく睨まれたら、一生の思い出になりますわ……」
熱っぽい視線。媚びを含んだ声。
だが、アルヴィスの耳にはそれらが一切届いていない。
かつての彼は、この「完璧な自分」を維持することに全ての神経を注いでいた。
誰にも隙を見せず、誰にも触れさせず、圧倒的な強者として君臨すること。それがカスティール家の宿命だと信じていたからだ。
(……くだらない)
執務室に戻ったアルヴィスは、一人になった瞬間に、デスクに置かれた「あるもの」に手を伸ばした。
それは、レリアが修復したあの杖だ。
他の誰かが作った、豪華絢爛なだけの魔導具とは違う。
レリアが整えた術式回路は、今も彼の荒ぶる魔力を優しく、そして完璧に受け止めている。
「……三パーセントの誤差、か」
先ほど部下を叱責した言葉が、自分に跳ね返ってくる。
レリアなら、その誤差を「論理的欠陥」として鼻で笑うだろう。
「アルヴィス様、計算もできないなら引退した方が効率的ですよ」……そんな不敬極まる言葉さえ、今の彼にはどんな賛辞よりも心地よく響く予感がした。
「アルヴィス様、失礼いたします。次回の夜会のエスコートについてですが……」
秘書の女性が、期待を込めた瞳で入ってくる。
彼女は王都でも指折りの美貌で知られ、アルヴィスの婚約者候補として名高い伯爵令嬢だ。
だが、アルヴィスは彼女を一度も見ることなく、冷たく言い放った。
「その件は、すでに断ったはずだ。私に無駄な時間を使わせるな」
「で、ですが……」
「下がれ。……私は今、非常に重要な『検証作業』がある」
彼が「検証作業」と称して始めたのは、レリアに渡すための「より難解な術式の問題集」の作成だった。
社交界の誘いも、美姫の微笑みも、彼にとってはただのノイズだ。
今のアルヴィスにとって唯一価値があるのは、地下室にいるあの無愛想な女が、自分の魔力を見て、驚き、そして「最高に気持ちいい」と笑う瞬間だけなのだ。
(……今日の昼は、何を持っていくべきか。昨日のタルトは食いつきが良かったな)
氷の貴公子としての冷徹な仕事振りの裏で、彼の頭脳は「レリア・ハント」という名の攻略難易度SS級のクエストに、全リソースを割き始めていた。




