第四話/初動
深夜二時十六分。
科警研第二課オペレーションルームの照明は、必要最低限にまで落とされていた。
壁一面のモニター群が、淡い青白い光を放ち、室内に人工的な夜を作り出している。
秋山慎一郎は、卓上端末に表示された吉羽恵美からのリアルタイム報告を無言で読み込んでいた。
血液検査数値。
解剖所見の要点。
菌類学者・砂原宗一の見解。
それらは断片的でありながら、どれも“普通ではない”という一点で一致している。
秋山は椅子から立ち上がると、オペレーションルーム中央のマイクを手に取った。
「第二課、緊急招集をかける。」
その一言で、室内の空気が変わった。
眠気や疲労は、ここには存在しない。
あるのは“異常事案”に対応するための準備だけだ。
秋山は短く、しかし明確に指示を出す。
「片瀬、渡辺。至急出頭。
行き先は群馬大学医学部。
現場はすでに法医学教室に移っている。装備は生体汚染対応を前提に。」
数分後、応答ランプが二つ灯る。
『片瀬です。了解。十分以内に出ます。』
『渡辺、了解しました。車を回します。』
通信を切ると同時に、秋山は蛇の目の解析インターフェースを立ち上げた。
彼の視線の先で、無数のデータレイヤーが重なり合う。
――解析対象:群馬県内廃工場死体遺棄事件
――要素:菌類(ニオウシメジ亜種)/人体加工痕/異常栄養環境
――分類:既存事件該当なし
蛇の目は、感情を持たない。
だが、膨大な過去データとの照合を一瞬で終え、“該当例なし”という冷酷な結論を提示する。
秋山は低く息を吐いた。
「前例がない……か。」
だが、それは終わりではない。
蛇の目は続けて、類似要素の分解を始める。
――類似事象候補抽出
・意図的な人体加工(外科的処置を伴わない微細孔)
・生体環境の栄養操作(ビタミンB群・カリウム異常)
・死後変化と乖離する生育速度
画面の片隅で、恵美から新たなデータが送信される。
遺体表皮の拡大写真。
“植え付け口”と推定される穴の配置図。
秋山はそれを即座に蛇の目に読み込ませた。
「プロファイルを組み立てろ。
犯行は単独か、複数か。
医学・生物学的知識のレベルを推定。」
蛇の目は即座に応答する。
――犯行主体:高度な知識を有する可能性
――医療資格保持者:限定されない
――独学・実験的犯行の可能性:高
――動機:不明(快楽性・思想性・実験性のいずれも排除不可)
秋山の視線が鋭くなる。
「……実験か。」
人を殺すためではなく、
“育てるために殺した”可能性。
それは、秋山がこれまで扱ってきた事件群の中でも、明確に異質だった。
一方その頃、片瀬と渡辺はすでに車を走らせていた。
高速道路を北へ。
車内には短い報告音だけが響く。
「群馬大の法医学教室……
解剖中ってことは、相当急だな。」
渡辺がハンドルを握りながら呟く。
「恵美が直で呼ぶってことは、現場じゃ手に負えないレベルってことだろ。」
片瀬はタブレットに送られてきた資料をスクロールし、眉をひそめた。
「……人体に菌を植え付ける?
聞いたこともない。」
「聞いたことがないから、俺たちが呼ばれたんだろ。」
二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
前方に延びる暗い道路が、これから向き合う“未知”を象徴しているかのようだった。
オペレーションルームでは、蛇の目がさらに分析を深めていく。
――犯行手順推定
被害者拘束
皮膚・臓器への微細孔加工
菌類植え付け
栄養環境調整
放置/経過観察
画面に浮かぶ工程は、あまりにも冷酷で、あまりにも“合理的”だった。
秋山はモニターを見つめながら、静かに告げる。
「……これは連続する。
一度で終わる犯行じゃない。」
蛇の目は、その言葉を否定も肯定もせず、ただ記録した。
――観測者の判断:高確率で再発あり
その頃、群馬大学の法医学教室では、
吉羽恵美が次の異常所見を待ちながら、解剖台を見つめていた。
それぞれの場所で、
それぞれの役割を担う者たちが、
同じ“理解不能な事件”に向かって、動き始めていた。
これは、単独の死ではない。
連鎖の、始まりである。
群馬大学医学部の構内に、深夜のタクシーが二台、ほぼ同時に滑り込んだ。
一台は吉羽恵美を乗せてすでに停車している。
もう一台から降りてきたのが、片瀬と渡辺だった。
白衣ではなく、科警研第二課の簡易防護装備。
二人の表情に疲労はあったが、眠気はない。
“異常事案”に呼び出された者特有の、研ぎ澄まされた緊張だけがあった。
「恵美。」
渡辺が短く声をかける。
吉羽は頷き、言葉を省いたまま二人を解剖棟へと導いた。
「状況は?」
歩きながら片瀬が尋ねる。
「五体の遺体が確認されている。
うち四体は廃工場内、残り一体は奥まった区画で発見。
菌類はすべてニオウシメジの亜種。ただし――」
吉羽はそこで一瞬言葉を切った。
「一体だけ、様相が違う。」
解剖室の扉が開き、消毒薬の匂いと低い機械音が二人を迎え入れる。
中ではすでに作業が進んでいた。
ステンレスの解剖台が五基。
うち四基では、担当法医が淡々と、しかし慎重にメスを進めている。
菌類学者の砂原が、その一つ一つを確認し、必要な箇所で指示を出していた。
片瀬と渡辺は、まず“通常に見える異常”の四体に目を向ける。
皮膚には例の微細な穴。
配置はほぼ均一で、無作為とは言い難い。
内部には菌糸の侵入が確認されるが、増殖の度合いは限定的だった。
「……増えてはいるが、爆発的じゃないな。」
渡辺が呟く。
砂原が頷く。
「ええ。侵入は確認できますが、生育段階としては“初期”。
条件が整っていなければ、ここまでです。」
法医が胸腔を開く。
臓器は損傷しているが、原形は保たれている。
菌糸は“入り込んでいる”に過ぎず、“支配している”とは言えない。
吉羽はその様子を見ながら言った。
「この四体は、途中で何らかの理由で“成長が止まった”。
発見されたタイミングか、あるいは環境の問題か……」
片瀬は視線を、部屋の奥にある一基の解剖台へと移した。
「……で、問題の一体が、あれか。」
そこだけ、空気が違っていた。
覆いを外された遺体は、明らかに他の四体と異なる。
皮膚は乾燥し、収縮し、筋肉は失われている。
脂肪も水分もほとんど残っていない。
「……ミイラ化してる。」
渡辺が低く言った。
砂原はゆっくりと、その遺体のそばへ歩み寄った。
「ええ。
死後変化としては不自然な速度です。
ですが……」
彼はライトを当て、皮膚の裂け目を示す。
「菌床化しています。
完全に。」
皮膚の下は、もはや人体ではなかった。
乾いた空洞を埋めるように、ニオウシメジの菌糸が網状に張り巡らされている。
臓器があったはずの空間は、白く変質した塊に置き換えられていた。
「……人間を“材料”として使っている。」
片瀬の声は、わずかに掠れていた。
砂原は否定しなかった。
「ミイラ化によって水分が抜け、腐敗菌が抑制されている。
その結果、特定の菌類だけが生き残り、増殖できる環境が形成された……
意図的でなければ、まず起きません。」
吉羽は腕を組み、静かに言う。
「この一体だけ、時間をかけて“完成”させている。
他の四体は、その過程にあるか、失敗作か……」
渡辺が息を詰めた。
「つまり、犯人は“成功例”を一つ作ったってことか。」
沈黙が落ちる。
その沈黙を破るように、解剖台の上で菌糸がわずかに揺れた。
――生きているわけではない。
だが、確実に“育った痕跡”だった。
吉羽は端末を取り出し、この所見を即座に秋山へ送信する。
同時に、蛇の目にもデータが流し込まれていく。
――例外個体:完全菌床化
――処理工程:長期管理の可能性
――犯行者の関与期間:長期
片瀬は深く息を吐いた。
「……連続だな。
しかも、試行錯誤している。」
渡辺が頷く。
「人を殺すためじゃない。
“育てる”ために殺してる。」
法医学教室の白い光が、五体の遺体を等しく照らしていた。
だが、その意味は決して等しくない。
四体は途中経過。
一体は完成形。
その事実が、科警研第二課の面々に、これから起きることを無言で告げていた。
この事件は、まだ終わっていない。
むしろ――ようやく“形”を現したのだ。




