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紙面の姫君

作者: 柏倉 光
掲載日:2025/10/25




真っ白な原稿用紙のマス目が、蓮を嘲笑うかのように、ただ静まり返っていた。




秋山あきやま れんは、ペンを握りしめたまま、その空白を、もう何時間も見つめていた。

ミステリー、SF、時代小説。あらゆるジャンルを「そつなく」書きこなし、恋をしたことすらないくせに、人の心を揺さぶる言葉を器用に紡いできた。書くこと以外は、そこそこの人生。それなりに売れ、それなりに評価されてきた。


だが、その彼が、今。 一行も、書けなかった。


心が擦り切れてしまった、と蓮は思った。まるで、使い古した雑巾のように、絞っても、もう一滴の言葉も出てこない。


「……なんでもいい、何か」


誰に言うでもなく呟き、蓮はペンを置き、固く目を閉じた。 新しい題材を探そうと、彼は本棚の奥でホコリをかぶっていた古い段ボール箱を開ける。大学時代の資料でも、何かのきっかけになればと思った。


その底から出てきたのは、一冊の安っぽいノートだった。表紙には、彼らしからぬ、場違いな花の模様が描かれている。


「……なんだ、これ」


存在すら忘れていた。恐る恐るページをめくると、そこには、若く、拙い自分の文字が並んでいた。



『孤独な姫と銀の騎士』



それは、彼が昔、気恥ずかしさから断念した、ファンタジー恋愛小説のプロットだった。 「政略結婚」「孤独な姫」「他国の騎士」……あまりの陳腐さに、思わず顔をしかめる。


だが、彼が創り出した「ヒロイン」の人物設定を読んだ、その時だった。


―――名前、アリア。性格、明朗快活。主人公。俺とは正反対。


その文字を指でなぞった瞬間。




『――ちょっと、誰なの!?』


ノートから、不審がるような、しかし芯の通った少女の声が、はっきりと響いた。 蓮は、息を呑んだまま、硬直した。 沈黙したままのテレビでも、携帯電話からでもない。明らかに、すぐ側から聞こえた。


『さっきから、頭の中に直接…! 不敬よ! 名乗りなさい!』


ノートに書かれた古い文字が、踊りだしているような感覚を覚えた。


蓮は、自分の耳を疑った。疲労が見せた幻聴か。 彼はこわごわと、目の前の原稿用紙に、祈るような気持ちで触れてみた。


「……聞こえるのか?」


『聞こえるに決まってるでしょ! あなたこそ、一体何者なの!』


アリアの焦ったような声が、今度は蓮の頭の中に直接響き渡った。 どうやら本物らしい。蓮は、自分が創り出したキャラクターと、今、リアルタイムで会話している。そんな馬鹿なことが。 彼はゴクリと唾を飲み込み、説明を試みた。



「俺は秋山 蓮。君……アリアの世界とは、違う場所にいる」


『レン? 変な名前。それに、違う場所だなんて、そんな子供だましな嘘が私に通じると思って? どこかに隠れている魔術師かなにかでしょう!』


アリアは、蓮の言葉を全く信じていない。プロット通り、いや、それ以上に溌溂とした、疑り深い瞳が目に浮かぶようだ。 蓮は、どう説明したものか頭を抱えた。だが、彼は彼女の「創造主」だ。彼女が今、どんな状況に置かれているか、手に取るようにわかる。


「……嘘じゃないさ。例えば、今。君は堅苦しい刺繍の授業をサボって、自室のバルコニーから、騎士団の訓練をこっそり眺めている。違うか?」


『なっ……!?』


アリアが息を呑む音が聞こえた。



「本当は、あんな窮屈な城、飛び出してみたいんだろ。政略結婚なんて、まっぴらごめんだって」


『な、なぜ、それを……! まさか、本当にどこかから……!?』


「言っただろ。俺は、君を知ってる」

蓮は、まだ「俺が君を創った」とは言えなかった。


それから、二人の奇妙な「秘密の対話」が始まった。

アリアにとって蓮は、「自分のことを全てお見通しの、ちょっと変だけど物知りな謎の人物」。

蓮にとってアリアは、「自分が創ったはずなのに、自分の想像を遥かに超えて魅力的な、手の届かないヒロイン」。


性格は正反対なはずの二人だったが、互いに持っていないものを補い合うように、会話は弾んだ。それはいつしか、蓮にとってもアリアにとっても、一日で最も待ち遠しい、不思議な時間となっていた。





───────────────





(蓮とアリアの奇妙な対話が始まって、ひと月が経った頃)


蓮は、相変わらず新しい小説は書けず、アリアとの対話だけが唯一の「外」との繋がりだった。彼は、自分が創り出した「設定通りの」溌溂とした姫との会話を、どこか冷めた頭で楽しんでいた。まだ、それは「現実逃避」の域を出なかった。



その日、アリアはいつになく静かな声で、蓮に話しかけた。


『ねえ、レン……』


「どうした、アリア。らしくないな」


『……さっき、侍女の子が、私のせいで叱られているのを見てしまったの』


蓮は、ペンを握る手を止めた。


「君のせい?」


『私がいつもお城を抜け出すから、監督不行き届きだって……。あの子、泣いてた。私、いつも自分のことばかりで、あの子が私のせいで苦しんでるなんて、考えもしなかった……』



アリアの声は、震えている。 蓮は、自分が書いたプロットのノートを慌ててめくった。 ―――性格、明朗快活。主人公。俺とは正反対。―――そこには、彼女の「弱さ」や「罪悪感」なんて、一文字も書かれていなかった。


『私って、最低な姫よね。ただ自由になりたいって我儘ばかり言って、誰かを傷つけてる…』


「……そんなことはない」


蓮は、思わず声に出していた。


「そんなことはない。君は、自分の間違いに気づいて、今、ちゃんと心を痛めてる。それは、本当に優しい人間じゃなきゃできないことだ」



『……レン』


『ありがとう。……あなたにそう言ってもらえると、少し、救われるわ』


アリアの、か細い、しかし安堵したような声が響く。


対話が途切れた後、蓮は一人、呆然としていた。 自分が創ったのは、ただ「元気で」「自分にないものを持った」都合のいいキャラクターのはずだった。 だが、今、原稿用紙の向こう側にいる彼女は、蓮の設定を超えて、間違い、悩み、そして傷ついている。


それは、紛れもなく、一人の「生身の人間」だった。


蓮の心が、カサカサに乾いた音を立てて震えた。 自分が創ったキャラクターに恋をしたんじゃない。 自分の設定を乗り越えて、不器用に悩み、それでも優しさを失わない「アリア」という一人の女性に、どうしようもなく惹かれている。



蓮は、擦り切れていたはずの心に温かいものが満ちるのを確かに感じた。だがそれは、幸福であると同時に、地獄の始まりでもあった。


愛してしまったからこそ、彼女の「幸せ」を真剣に願う。 しかし、彼がプロットに定めた彼女の「幸せ」とは―――「運命の相手である騎士と結ばれること」。


蓮は、机の上に広げたままだった古いノートに目を落とす。そこには、無慈悲な文字が並んでいた。



『第2章:舞踏会での出会い』



彼は、自分の手で、愛する女を別の男に引き合わせるシナリオを書かなければならないのだ。





───────────────




翌日、蓮が重い体を引きずるように机に向かうと、アリアは昨日とは打って変わって、ひどく不機嫌そうな声が響いた。


『もう、うんざり!』


蓮は、これから書かねばならない展開を知っているだけに、胸が痛んだ。彼はノートの余白に、返事を書き込む。


「……どうしたんだ、アリア。今日はやけにご機嫌斜めだな」


『決まってるでしょ! 明日は、私の誕生日を祝う、堅っ苦しい王宮の舞踏会なの!』



来たか、と蓮は奥歯を噛みしめた。 プロット通りなら、そこでアリアは隣国の騎士と出会う。蓮が設定した、彼女の「ヒーロー」と。


『どうせ、父様が紹介してくる、つまらない貴族の相手をさせられるだけだわ。……あぁ、あなたの世界に行ってみたい』


「俺の世界?」


『そうよ! あなたが前に話してくれた、「うみ」? 水が地平線の先まで続いてるんでしょ? この城の堀とは大違いだわ。………ねえ、レン。いつか、私をそこに連れてって』


彼女の無邪気な言葉が、蓮の心を容赦なくえぐる。 彼女の世界に「海」が存在しないのは、他でもない、彼がそれを「設定しなかった」からだ。 自分が創った「牢獄」の狭さを、愛する女性に嘆かれている。




「……アリア」


蓮は、指先に鉛が詰まったような感覚に耐えながら、ペンを走らせた。


「明日の舞踏会……きっと、悪いことばかりじゃないさ。もしかしたら、君の運命を変えるような、素敵な出会いがあるかもしれない」


『素敵な出会い?』


アリアは、心底不思議そうな声を出した。


『私、そんなのいらない。だって、私にはもう、レンがいるもの。あなたと話してる時が、一番……』


そこまで言って、アリアはハッとしたように言葉を止めた。

彼女は、自分が今、無意識に何を言おうとしたのかに気づき、狼狽しているのが手に取るようにわかった。


『……な、なんでもない! とにかく、私は期待してないんだから!』


一方的に、対話は途切れた。


蓮は、一人、書きかけの原稿用紙の前で頭を抱えた。


「……俺は、なんて馬鹿なんだ」


アリアは、もう気づき始めている。顔も知らない、声だけの自分に、恋をし始めている。 そして自分も、彼女を愛してしまっている。


それなのに、自分は明日、彼女の「運命の相手」である騎士を、この手で登場させなければならない。






蓮は、真っ白な原稿用紙に向き直った。 空白のマス目が、無情にも次の言葉を急かすように彼を睨んでいる。 彼は、震える手でペンを握りしめ、愛する人のために、別の男との出会いの場面を書き始めた。一文字、また一文字とインクを紙に染み込ませるたび、自らの恋心にナイフを突き立てているような、耐え難い苦痛が走った。


インクが乾く間ももどかしい。蓮は、自らが書いた文字が、向こうの世界で「現実」になっていくのを、ただ耐えるしかなかった。


―――王宮の大広間。きらびやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが集う。 アリアは、憂鬱ゆううつな表情で壁際に立っていた。―――


そこへ、凛々しい軍服に身を包んだ、長身の青年が現れる。彼こそが、隣国が誇る最強の騎士、アレクシス。プロットに定められた、アリアの「運命の相手」。


蓮は、ペンを握る手に力を込める。


『姫、今宵はお目にかかれて光栄です。私と一曲、踊っていただけませんか』


蓮がそう書き記した瞬間、アリアの焦ったような声が響いた。


『れ、レン! なんなの、アイツ! 急に来て、馴れ馴れしく……!』


「……落ち着け、アリア。彼は賓客だ。無礼は許されない」


蓮は、ノートの隅にそう書きながら、本心とは裏腹の言葉を紡ぐ自分に吐き気すら覚えた。


『だって! あいつ、私のこと、じっと見て……! なんだか、すごくイヤな感じ!』


「イヤな感じ、じゃないだろ」


蓮は、自分に言い聞かせるようにペンを走らせる。


「……プロットでは、君は彼に、一目惚れするはずなんだ」


『はあ!? ひとめぼれ!? 私が、あんなキザな男に!?』


アリアの叫びが聞こえる。 だが、蓮は筆を止めない。止められない。これは、彼女の「幸せ」のために、彼が設定した物語なのだから。



―――アリアは、戸惑いながらも、騎士アレクシスの差し出す手を取った。 二人がフロアの中央に進むと、音楽が変わり、スポットライトが二人を照らす。 ―――まるで、世界に二人きりしかいないかのように。



『……いや。なに、これ。なんで、私……』


アリアの声が、震えている。 蓮の書いた「物語の強制力」が、彼女の「自由な感情」を上書きしようとしている。


「どうだ、アリア。……素敵な人だろ、アレクシスは」


蓮は、血の滲むような思いで、そう書き込んだ。


『……うん。……素敵、かも。……なんでだろ、胸が、ドキドキする……』


「…そうか。……よかったな」


蓮は、ペンを置いた。 原稿用紙には、彼が望んだ通りの展開――アリアが騎士に惹かれていく場面が、完璧に描写されていた。


うまくいった。 これで、アリアは「幸せ」になれる。




それなのに。


蓮の頬を、熱い何かが伝った。 擦り切れていたはずの心が、まるで万力で締め上げられるように痛む。 愛する女性が、別の男に恋をしていく様を、自らの手で書き上げた。 これ以上の地獄が、あるだろうか。あれほど書くことにこだわっていたのに今は書くことがこんなにもつらく、苦しい。


蓮は、書き上がった原稿用紙を、ただ、呆然と見つめていた。



───────────────



蓮が筆を走らせるにつれ、物語は順調に進んでいった。


騎士アレクシスは、蓮が設定した通りの完璧なヒーローだった。 乗馬、剣術、そしてアリアへの甘い言葉。 アリアは、蓮が描く通りの「恋する乙女」として、急速に騎士に惹かれていった。


皮肉なことに、蓮とアリアの「秘密の対話」の時間は、目に見えて減っていった。


『ごめん、レン! 今日はアレクシス様とピクニックに行くの!』


『レンは知ってる? 騎士様がね、子供の頃の話をしてくれて……』



かつて蓮だけに向けられていた溌溂とした声は、今や別の男の名前ばかりを呼んでいる。 蓮は、ノートの隅に「そうか、よかったな」とだけ書き込むのが精一杯だった。


蓮は、空っぽの部屋で一人、ペンを握る。 心が擦り切れていた頃とは違う種類の孤独が、胸を満たしていた。


(これでいいんだ)


自分に言い聞かせる。


(これが、アリアの幸せなんだから)


彼は、物語を「結末」へと進めるため、筆を早めた。 アレクシスが、アリアに正式に求婚するシーン。それさえ書き上げれば、この物語はハッピーエンドで完成する。

そうすれば、彼女の幸せは永遠のものとなり、自分との奇妙な繋がりも、きっと綺麗に消え失せるはずだ。




───────────────




その日の夜。 蓮が、いよいよクライマックスの求婚シーンを書こうと原稿用紙に向かった時、久しぶりにアリアの方から、切羽詰まったような声が響いた。


『レン……? いるの?』


「どうした、アリア。アレクシスと一緒じゃないのか」


『……さっきまで、一緒にいたわ。明日、大事な話があるから、城の見える丘に来てほしいって……』


それは、蓮が書こうとしていたプロポーズの場面そのものだ。 だが、アリアの声は、幸せを前にした乙女のものとは思えないほど、暗く、震えていた。


『ねえ、レン。私、おかしいの』


「……何がだ」


『アレクシス様は、本当に素敵な人よ。優しいし、強いし、私のことを一番に考えてくれる。……なのに』


アリアは、言葉を詰まらせた。


『なのに、あなたと話している時みたいに、心が躍らないの。胸がドキドキするのに、どこか冷めてるの。まるで、誰かに「そう思え」って、操られているみたいで……』



蓮のペンが、止まった。


『私、気づいたの。アレクシス様がくれる言葉も、私が行く場所も、全部、あなたが前に「そうなるかもな」って言ってた通りだって。……まるで、あなたが書いた筋書きみたいに』


違う、と蓮は叫びたかった。 だが、アリアの次の言葉が、彼の声を封じた。


『ねえ、レン。私は、誰なの?』


『あなたが話してくれた「うみ」は、この世界にはない。あなたは私の考えてること、全部知ってる。……私、もしかして、あなたが創った物語の……登場人物、なの……?』


静寂が、部屋に落ちる。 アリアの問いは、もう疑いではなかった。確信だった。


蓮は、ペンを握りしめたまま、一文字も書くことができなかった。 その沈黙が、何より雄弁な答えだと、アリアは悟ってしまった。


『……そう。……そうだったのね』


アリアの声は、絶望とも諦めともつかない、か細い響きに変わっていた。 蓮が「違う」と否定する前に、彼女からの声は、ぷつりと途絶えた。



「アリア!」



蓮は、思わず叫び、ノートの余白に彼女の名前を何度も書き殴った。


「違うんだ、アリア! 頼む、返事をしてくれ!」


だが、インクが乾いていくだけで、あの溌溂とした声が響くことは二度となかった。


静寂が、蓮の世界を支配した。 心が擦り切れていた頃の静寂とは違う。愛する人を失った、耐え難いほどの重い沈黙だった。 蓮は、一晩中、ペンを握りしめたまま、夜が明けるのを見ていた。




───────────────





翌日も、蓮は机に向かった。 だが、原稿用紙のマス目を一つも埋めることができない。 アリアからの応答は、ない。


今日が、あの日だ。 プロットによれば、今日、騎士アレクシスが、城の見える丘でアリアに求婚する。 それを書けば、物語は完成し、彼女は「幸せ」になる。




……本当に、そうか?


真実を知ってしまった彼女を、無理やり筋書き通りに動かす? 心を失った人形のように、「はい」と答えさせるのか? それは、彼女の幸せじゃない。彼女の意志を殺すことだ。


だが、書かなければ? 物語は未完のまま止まる。アレクシスとの幸せも、何もかもが宙吊りになる。アリアの世界そのものが、消えてしまうかもしれない。


どちらを選んでも、地獄だった。


蓮は、どうすることもできず、ペンを握りしめたまま、自室の窓を勢いよく開けた。 冷たい夜風が、彼の頬を打つ。 アリアの世界にも、同じ月が浮かんでいるだろうか。


彼は、決して彼女には届かないとわかっていながら、心の底からの叫びを、空に飛ばした。


「……どうすれば」


ぽつりと、乾いた声が漏れた。


「……どうすれば、お前を本当の意味で、幸せにしてやれるんだ……!」


「俺が、お前を創りさえしなければ、こんな苦しい想いをさせることもなかったのにな……」


「アリア……聞こえてるなら、返事をしてくれ……。頼む……」


蓮は、夜空に向かって懇願した。 だが、空は何も答えない。 原稿用紙は、白いままだ。




その時だった。 彼が全てを諦めかけた、まさにその瞬間。


か細い、しかし、決意に満ちた声が、彼の頭に響いた。


『……レン』


蓮は、ハッと顔を上げた。


『……聞こえてるわよ、馬鹿』


それは、泣き腫らしたような、それでいて、凛としたアリアの声だった。


蓮は、ペンを握りしめたまま凍り付いた。 幻聴かと思った。だが、アリアの声は、今も確かに頭の中で響いている。


「アリア……!」


蓮は、わらにもすがる思いで、ノートの余白に震える文字を書き込んだ。


「アリア、本当にお前か!? 聞こえているのか!?」


『ええ。……ずっと、聞こえてた』


アリアの声は、不思議なほど穏やかだった。


『あなたが、空に向かって……馬鹿みたいに叫んでるのも、全部』


「俺は……俺は、すまない、アリア……!」


『謝らないで』


アリアの凛とした声が、蓮の謝罪を遮った。


『私、今、あの丘にいるわ』


蓮は、ハッとした。


『あなたが書いた通りの場所に。……今、アレクシスが、こっちに来るのが見える』


蓮の心臓が、氷水で掴まれたように冷たくなる。 彼が設定した、運命の求婚シーン。


「アリア、ダメだ! 俺はもう書かない! 君の意志を無理やり曲げるようなことは……!」


『ううん、違うの』


アリアは、静かに言った。


『聞いて、レン。私、一晩中考えた。私が誰で、ここがどこで……そして、私が本当に欲しいものが、何なのか』


『あなたは、私に「幸せ」になってほしんでしょ?』


蓮は、ただ「そうだ」と書き殴ることしかできない。


『だったら、見てて。……いいえ、"書かないで"』


「……え?」


『…あなたが”書いた"「幸せ」じゃない。私が、"今、ここで選ぶ"、「私の幸せ」を』


アリアの声が、力強さを取り戻していく。 それは、蓮が恋をした、あの溌溂とした彼女の声だった。


『だから、お願い。 ペンを、置いて』


蓮は、彼女の言葉の意味を測りかねたまま、ゴクリと唾を飲んだ。


『―――彼が、来たわ』


アリアの声と同時に、蓮の目の前の原稿用紙が、ひとりでに淡く光り始めた。 まるで舞台の幕が上がるように、蓮が書かなかったはずの「クライマックス」の光景が、彼の脳裏に直接、流れ込んでくる。


月の光が降り注ぐ丘の上。 完璧な騎士アレクシスが、アリアの前に片膝をつき、指輪の箱を差し出している。 蓮がプロットに書いた、完璧な、ハッピーエンドの構図だ。


『アリア姫。どうか、私の妻になってほしい』


アレクシスの声が響く。 蓮は、息を止めて見守る。 プロット通りなら、アリアはここで涙を浮かべて「はい」と答えるはずだった。




だが、アリアは、ゆっくりと首を横に振った。


『ごめんなさい、アレクシス様。 その手は、取れません』


蓮の脳裏に浮かぶ光景の中で、騎士アレクシスは、信じられないという顔でアリアを見つめていた。 彼もまた、アリアが「はい」と答える「筋書き」の中で生きてきた登場人物なのだ。


『アリア姫……? なぜ……? 私では、不満だと?』


アリアは、もう一度、はっきりと首を横に振った。


『あなたは完璧な騎士様よ。……あなたが、レンの書いた通りに、完璧であればあるほど、私は苦しかった』


『え……? レン……?』


アレクシスの戸惑う声が響く。


『もう、誰かの書いた筋書き通りに生きるのは嫌。誰かに「これがあなたの幸せだ」って決めつけられるのは、もうごめんなの』


アリアは、夜空を見上げた。 まるで、この光景を見守っている、たった一人の「誰か」に語りかけるように。



『私は、私が望む幸せを、私の言葉で掴みたい!』


『たとえそれが、誰にも祝福されない、物語にもならない選択だとしても!』



彼女がそう宣言した瞬間。


蓮の目の前で、原稿用紙の文字が激しく震えだした。 脳裏に浮かんでいた丘の光景が、まるで砂嵐のように乱れ始める。 世界が、彼女の「反逆」によって崩壊しようとしている。


『アリア!』


蓮は、思わずペンを握り直した。

まずい。このままでは、物語が崩壊し、アリアの世界そのものが消えてしまう! 今すぐ、強引にでも結末を書き足し、物語を「完成」させなければ――!


蓮がペン先を原稿用紙に突き立てようとした、その時。



『ダメよ、レン』



アリアの、静かだが、有無を言わせぬ強い声が響いた。


『信じて。私を。……そして、あなた自身を』


蓮の指が、止まった。


『私は、あなたの創った人形じゃない。 あなたに恋をした、ただの一人の女よ』


その言葉が、蓮の心を貫いた。


アリアは、崩壊しかけた世界の中で、ただ真っ直ぐに立っている。 彼女は、すべてを失うかもしれない恐怖よりも、自由意志を選んだのだ。


蓮は、自らの葛藤に、決着をつけた。 彼は、握りしめていたペンを――物語の結末を書くため、そしてアリアの運命を支配するためのペンを、ゆっくりと机に置いた。


「……ああ。信じるよ、アリア」


蓮がそう呟いた瞬間。 原稿用紙の激しい震えが、ピタリと止まった。



崩壊は、止まった。 脳裏の光景も、アレクシスが戸惑った顔で立ち尽くし、アリアが夜空を見上げている、まさにその瞬間のまま、静かに停止した。


物語は、「結末」を失った。 だが、世界は、消えなかった。 アリアが自らの意志を宣言した、その時間のまま、永遠に「保存」されたのだ。


蓮は、ペンを置いた机の向こう側、何も書かれていない真っ白な原稿用紙を見つめていた。 そこにはもう、何も書き足す必要はなかった。


『……レン』


アリアの、安堵したような、少し照れたような声が響く。


『……これで、私、あなたの物語の「ヒロイン」じゃなくて、ただの「アリア」になれたかな』


蓮は、頬を伝う熱い涙を拭うことも忘れ、ただ、深く頷いた。



「ああ。……おかえり、アリア」



それは、作家が「作品の完成」を諦めた瞬間であり、一人の男が、愛する女性の「自由」と「命」を選んだ瞬間だった。







蓮は、インクの乾いた原稿用紙を、ただ愛おしそうに見つめていた。 もう、苦痛は感じなかった。 そこにあるのは、愛する女性が、自らの意志で運命を掴み取った、輝かしい瞬間の記録だった。


蓮は、そっと原稿用紙に触れた。


『ねえ、レン。私たち、これからどうなるの? 物語は、もう動かない。アレクシスも、お城の人たちも、みんな止まったまま……』


彼女の声には、ほんの少しだけ、未来への不安が混じっていた。 蓮は、ふっと笑った。


「どうにもならないさ」


彼は、書きかけの原稿と、プロットの書かれた古いノートを、そっと重ねた。


「物語は、もう終わったんだ。いや……俺が終わらせなかった。お前が、自由を選んだから」


蓮は、その原稿の束を、机の一番奥の引き出しに、大切にしまい込んだ。 それは「お蔵入り」という名の、二人だけの「永遠」の始まりだった。


「これで、お前はもう『忘れられた王国の姫君』じゃない。ただのアリアだ。そして俺も、お前の創造主じゃない。ただの蓮だ」


『レン……』


「これから、俺の世界の話をたくさんしてやるよ。お前が見たがってた、『うみ』の話もな」


『! ……うんっ!!』






───────────────





翌朝。 蓮は、アラームが鳴るより早く目を覚ました。 世界が、昨日までとはまるで違って見えた。 窓から差し込む光には色彩があり、風の音には旋律があった。 心が擦り切れていた頃の、灰色の世界はもうどこにもない。


『おはよう、レン!』


頭の中に、愛する人の声が響く。


「ああ、おはよう、アリア。今日は、いい天気だ」


蓮は、机に向かった。 引き出しにしまったアリアの物語には、もう触れない。 彼は、真っさらな、新しい原稿用紙の束を取り出した。


真っ白なマス目が、彼を待っている。 かつてあれほど恐ろしかった空白が、今は、無限の可能性に満ちた地平線のように見えた。


『何するの?』


「決まってるだろ」


蓮は、ペンを握った。 もう、震えはない。


彼は、アリアとの秘密の対話を胸に、全く新しい物語の、その第一行目を書き始めた。 擦り切れていたはずの心は、愛する人の存在によって、とうに満たされていた。










最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございます。 『紙面の姫君』、いかがでしたでしょうか。


この物語は、「もしも、自分の創り出したキャラクターが、自分の意志を持ってしまったら?」という、作家なら誰もが一度は夢想するかもしれない着想から始まりました。


書き始めた当初は、ただ切ない恋物語になるかと思っていました。ですが、書いているうちに、蓮の想像を超えてアリアが動き出したように、私自身の想像をも超えて、彼女は「ただのヒロイン」であることを拒否しました。


決められた「幸せな結末」と、筋書きのない「不確かな自由」。 彼女たちにとって、そして私たちにとって、本当の幸福とは何なのか。 そんなことを考えながら、この「結末のない結末」へと辿り着きました。


すべてに疲れ切っていた蓮が、アリアという「彩り」を得て再生していく姿。 そして、「紙面」の存在だったアリアが、一人の女性として自分の意志を叫ぶ姿。

二人が選んだ、誰にも知られることのない「永遠」が、あなたの心のどこかに、ささやかな灯りとして残れば幸いです。



柏倉 光

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― 新着の感想 ―
粗筋を目にしまして作品を読みたいと思い、物語の世界に入らせて頂きました 原稿用紙と現実世界との対話から始まり、ヒロインに意志が宿るという奇跡の現象が凄くワクワクしていき、現実世界のヒーローが抱く感情…
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