第88話 願い
僕たちは、動けずにいた。
目の前には、死んだセラさん。涙が止まらなかった。
もうすぐ、この研究所が爆発する。
それは頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。
足が、動かない。心が、ここから離れることを拒んでいた。
──その時だった。
突然、身体がふわりと浮いた。
「……え?」
次の瞬間、誰かの腕に抱え上げられていた。
「て……店長……?」
顔を横に向けると、そこにいたのは店長だった。
店長は、僕を右腕一本で軽々と持ち上げ、そのまま肩に担ぐ。
そして左手だけで、ノアちゃんを抱え上げた。
まるで重さなど感じていないかのように。
「……早く帰るよ〜」
いつもと変わらない、気の抜けた声。
遠ざかっていくセラさんの姿。
「やだぁあ…ママ……」
ノアちゃんが暴れる。必死に腕をばたつかせるけれど、店長の腕はびくともしなかった。
星が使っていたエレベーターへ向かう。近づくと、扉は自動で静かに開いた。
「ママぁ……」
擦り切れそうな声で、ノアちゃんが呟く。
店長は僕を一度床に下ろし、操作パネルのボタンを押す。
扉が、ゆっくりと閉まっていく。
──さようなら、セラさん。
──さようなら、RAT。
その姿が完全に見えなくなるまで、僕は目を逸らせなかった。
エレベーターの中には、ノアちゃんの泣き声と、低く唸るモーター音だけが響いていた。
やがて、店長はまた僕を担ぎ上げる。
「担ぐよ〜」
「うぐ……」
痛みで、思わず声が漏れた。
「さ、行きますか〜」
ピンポーンッ。
ドアが開いた瞬間、店長は、僕たちを抱えたままとんでもない速度で走り出した。
ワンチャン車より速い。
「うわぁぁあ!」
思わず叫ぶ。
目の前には、開けっ放しのガラス戸。その向こうには、木々が生い茂る夜の外の景色。
ズガァァン!!
背後から爆発音が轟き、視界が大きく揺れた。
それでも店長は、体勢を一切崩さない。
出口を抜けた瞬間、爆風が背中を叩き、僕たちは少し宙に浮いた。
「あ~れ〜」
間の抜けた声。
店長が吹き飛ばされているのが視界に映った。
僕はとっさに身体を丸め、片手に持ったナイフがノアちゃんに当たらないよう、必死に庇う。
ズガァァン!!
爆発が、爆発を呼ぶ。
振り返ると、さっきまでいた研究所が、巨大な火柱を噴き上げていた。
「お〜い!」
声のする方を見る。
そこには、セッカさんとスズメさんが立っていた。
「いや〜、無事で良かったッス」
セッカさんは笑顔だったが、腕が明らかにおかしな方向を向いている。
よく見れば、スズメさんも、店長も、全身が傷だらけだった。
僕は、ノアちゃんの方を見る。
炎の光に照らされて、彼女の目から流れる涙が、きらきらと光って見えた。
「ノアちゃん……」
声をかける。
「…………」
ノアちゃんは、赤く揺らめく炎を、ただじっと見つめていた。
そして、ぽつりと呟く。
「ねぇ……わたし……これからどうすればいいの……?」
胸が、締めつけられる。
「……生きなきゃ……」
それしか、言えなかった。
「…………」
ノアちゃんは一度だけ、僕の方を見る。それから、また炎へと視線を戻した。
赤い炎が、夜の闇の中で、ゆらゆらと揺れていた。




