第87話 失ったもの
動くたびに、手が悲鳴を上げた。
指先から肩まで、じわじわと痛みが走る。
それでも──やらなきゃいけない。
身体を引きずるように、ゆらり、ゆらりと歩きながら、左手でネクタイを引き抜く。
それを右腕に引っかけ、懐からナイフを取り出した。
左手にナイフを握る。痙攣する腕が、思うように言うことをきかない。
震える手に、ネクタイを巻きつける。滑らないように、逃げないように。
背後から、息を切らしたノアちゃんの声がした。
「……ママを……楽にしてあげて」
僕は、振り向かずに言う
「………うん」
強く、ナイフを握った。そして、走り出す。
炎が、視界を埋め尽くす。
横へステップを踏みながら進むが、炎は執拗についてくる。
僕は、覚悟を決め真っ直ぐにセラさんに突っ込む。
肉と布が焼け焦げる匂いが、鼻を刺す。熱が、皮膚を剥ぎ取ろうとする。
それでも、止まらなかった。
「うおおおおお!」
その瞬間、炎が消えた。
セラさんの姿が、はっきりと現れる。
僕は、ナイフを──セラさんの心臓へ、突き立てた。
無駄だと、分かっていても。それでも、突き刺した。
力を込める。血が、溢れ出す。
その傷は───治らなかった。
セラさんは、その場に崩れ落ちる。
「セラさん!」
なんとか身体を受け止める。
彼女は、目を細めて、かすれた声で呟いた。
「は……じめ……さん?」
「セラさん!」
その瞳には、もう狂気はなかった。元のセラさんに、戻っていた。
ノアちゃんが、ゆっくりと近づいてくる。彼女は、僕のコートを脱ぎ、セラさんにそっとかけた。
「……能力が、オーバーフローしたのね……」
震える声だった。
「……なに、それ」
「能力が……キャパシティを超えて……一時的に、治癒能力も含めて……使えなくなったの」
「……この傷は、治るの?」
「…………」
ノアちゃんは、答えられず、顔を背けた。
セラさんを見る。
彼女は、微笑んでいた。
「い……いや〜……め……迷惑を……おかけ……しました……」
言葉が、途切れ途切れになる。
「な……んか……変な……感じです……能力……使えない……の……」
腕の中で、少しずつ体温が失われていくのが分かる。
「うれ……しい……です……普通……に……なった……みたいで……」
涙で、視界が歪んだ。セラさんの輪郭が、滲む。
彼女は、細めた目で、僕を見つめる。
「た……ゲーム……して……もらえますか……」
僕は、何度も頷いた。
「……はい」
セラさんは、ノアちゃんの方へ視線を向ける。
「ママ……」
潰れそうな、小さな声。
セラさんは、ゆっくりと手を伸ばし、ノアちゃんの頬に触れた。
「……ノアは……長生……き……して……ください……」
「嫌だ……ママ……」
ノアちゃんは、声を上げて泣き出す。
セラさんは、最後まで、笑顔だった。
「か……わいい……おか……あ……」
その腕が、力なく落ちる。
「ママぁぁぁぁ!」
小さな少女の叫びが、静まり返った部屋に、いつまでも響いていた。




