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インナーヒットマン  作者: 太田
第5章 真実と雛

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第87話 失ったもの

 動くたびに、手が悲鳴を上げた。


 指先から肩まで、じわじわと痛みが走る。


 それでも──やらなきゃいけない。


 身体を引きずるように、ゆらり、ゆらりと歩きながら、左手でネクタイを引き抜く。


 それを右腕に引っかけ、懐からナイフを取り出した。


 左手にナイフを握る。痙攣する腕が、思うように言うことをきかない。


 震える手に、ネクタイを巻きつける。滑らないように、逃げないように。


 背後から、息を切らしたノアちゃんの声がした。


「……ママを……楽にしてあげて」


 僕は、振り向かずに言う


「………うん」


 強く、ナイフを握った。そして、走り出す。


 炎が、視界を埋め尽くす。


 横へステップを踏みながら進むが、炎は執拗についてくる。


 僕は、覚悟を決め真っ直ぐにセラさんに突っ込む。


 肉と布が焼け焦げる匂いが、鼻を刺す。熱が、皮膚を剥ぎ取ろうとする。


 それでも、止まらなかった。


「うおおおおお!」


 その瞬間、炎が消えた。


 セラさんの姿が、はっきりと現れる。


 僕は、ナイフを──セラさんの心臓へ、突き立てた。


 無駄だと、分かっていても。それでも、突き刺した。


 力を込める。血が、溢れ出す。


 その傷は───治らなかった。


 セラさんは、その場に崩れ落ちる。


「セラさん!」


 なんとか身体を受け止める。


 彼女は、目を細めて、かすれた声で呟いた。


「は……じめ……さん?」


「セラさん!」


 その瞳には、もう狂気はなかった。元のセラさんに、戻っていた。


 ノアちゃんが、ゆっくりと近づいてくる。彼女は、僕のコートを脱ぎ、セラさんにそっとかけた。


「……能力が、オーバーフローしたのね……」


 震える声だった。


「……なに、それ」


「能力が……キャパシティを超えて……一時的に、治癒能力も含めて……使えなくなったの」


「……この傷は、治るの?」


「…………」


 ノアちゃんは、答えられず、顔を背けた。


 セラさんを見る。


 彼女は、微笑んでいた。


「い……いや〜……め……迷惑を……おかけ……しました……」


 言葉が、途切れ途切れになる。


「な……んか……変な……感じです……能力……使えない……の……」


 腕の中で、少しずつ体温が失われていくのが分かる。


「うれ……しい……です……普通……に……なった……みたいで……」


 涙で、視界が歪んだ。セラさんの輪郭が、滲む。


 彼女は、細めた目で、僕を見つめる。


「た……ゲーム……して……もらえますか……」


 僕は、何度も頷いた。


「……はい」


 セラさんは、ノアちゃんの方へ視線を向ける。


「ママ……」


 潰れそうな、小さな声。


 セラさんは、ゆっくりと手を伸ばし、ノアちゃんの頬に触れた。


「……ノアは……長生……き……して……ください……」


「嫌だ……ママ……」


 ノアちゃんは、声を上げて泣き出す。


 セラさんは、最後まで、笑顔だった。


「か……わいい……おか……あ……」


 その腕が、力なく落ちる。


「ママぁぁぁぁ!」


 小さな少女の叫びが、静まり返った部屋に、いつまでも響いていた。

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