第23話 テスト
目を開けると、店長の顔がすぐそばでこちらを見下ろしていた。
この数日間でトラウマになった顔だ。
店長は、僕に銃を渡してきた。嫌な予感がする。
「じゃ〜、最終テストしてみよう〜!」
その言葉に血の気が引き、生きた心地がしなかった。店長は何かを言いながら森へと歩き出す。重い足取りで、僕も後を追った。
森はまだ冬の残像を引きずっていた。枯れ葉を踏むとパリッと鈍い音がして、雪解けの湿った匂いが鼻をくすぐる。
店長が立ち止まる。
「どうしたんですか?」
声を出した瞬間、空気が変わった。
風が止み、森全体が静まり返った。鳥の声も、枝の軋む音も、何も聞こえない。代わりに、低く湿った息づかいが耳に届く。
「それ」は立ち上がった。
前方の木立の奥、黒い影がゆっくりと動く。最初は岩かと思った。だが違う。毛。ぬるりとした毛並み。その巨体が揺れ、太陽の光を受けて鈍く光る。
熊だった。
呼吸が止まった。視界が狭まる。世界の輪郭が歪む。巨大な体躯。冬を越えた毛はまだ荒れていて、肩が盛り上がっている。首を動かすたびに筋肉がうねり、骨が鳴った。黒曜石のような目が、まっすぐこちらを射抜く。
全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
「て、てんちょ……」
声が掠れる。隣を振り向く。──いない。
店長の姿は、どこにもなかった。
熊との距離は、もう百メートルもない。
体が凍りつく。膝が笑い、足が地面に張り付いたように動かない。
熊が一歩、前へ出た。
全身の毛穴が開く。背中を汗が伝う。喉が焼けるように乾く。
──逃げられない。やるしかない。
震える手で銃を構える。冷たい鉄の感触が手に馴染まない。指が、引き金の上で滑る。
熊が、地を蹴った。
「グオォォォォォッ!!!」
咆哮。
地面が跳ねる。木々が震え、鳥が一斉に飛び立つ。熊が一直線に走ってくる。速い。ありえない速さだ。
──落ち着け、落ち着け。
斜めにステップを踏み、息を吸う。銃口を向ける。
バンッ! バンッ! バンッ!
発砲音が森を裂く。血飛沫が枯れ葉を染める。だが熊は止まらない。むしろ速度を上げて迫ってくる。
「クソがよッ!」
熊と僕の距離は、数メートル。ナイフは、懐にあるが熊相手に使えるとは、到底思わない。だから──
──目だ。
バンッ!
熊の右目が弾けた。血と黒い液体が霧のように飛ぶ。
「ガアァァァァッ!!!」
熊が絶叫し、巨体を起こす。その影が太陽を覆い隠した。僕は思わず後ずさり、転んだ。地面の冷たさが背中を刺す。
───ッ!
熊の胸元に、白い三日月のような模様が見えた。
バンッ! バンッ! バンッ!
銃声。血が噴き出す。熊の体が揺れる。膝をつき、そのまま前へ。
ドォンッ!!
地面が砕けるような音。間一髪で横に転がる。熊の巨体が、すぐそばに倒れた。
土埃と血と獣臭が混じって、息ができない。耳鳴りの中で、自分の心臓の音だけが響いていた。
ドクン、ドクン、ドクン。
体が勝手に震えている。寒くないのに、歯がガチガチ鳴る。こんなに大きな熊は、初めてみた。テレビとかでも見たことがないくらいだ。
何となくで分かった。昨日食べた肉は、熊の肉だ。
熊の死骸を見ていると、
「わ〜お。」
木の陰から声がした。
振り返ると、木の影から店長がのんきに顔を出していた。
「まさか、この熊を倒すとはねぇ〜!」
「て、店長! どこにいたんですかッ!」
怒鳴る声が裏返る。
「まさか、この熊を倒すとはねぇ~!」
───全然僕の話を聞いてくれないッ!。
「この熊は、人を何人も殺している熊なんだ。」
「え…。」
熊の死骸をもう一度見る。ただの死体だったはずなのに、さっきよりも怖く感じた。
「ま!これくらいできたら、ウチでしっかり働けるよ!」
と笑顔で言う店長。僕は乾いた笑いで返す。
「そ、そうですかね…。」
「ま!マタギの才能の方がありそうだけどね!」
「あはは…」
苦し紛れに笑う。
───イカれてんのか…。
森の奥で、まだ血の滴る熊の死体。その赤が、日没の光に照らされて、どす黒く光っていた。この光景が、脳裏から一生消えないだろうと、その瞬間に悟った。




