【終幕:それでも、歩く者】
夜は明けた。
断罪劇も、祝勝会も、バルコニーでのやりとりも、全て夢のように消えていく。 舞踏会のあった大広間は、もう朝靄の中に沈み、誰の声もしない。
私は、人気のない庭園を歩いていた。 昨夜の狂騒が嘘のように、世界は静まり返っていた。 まるで、最初から誰もいなかったかのように。
花も、木も、まるで誰にも見られることを諦めたかのように静かに揺れていた。 パンジーだけが、誇らしげに朝日を受けて笑っているように見える。
「……昨日の舞台で、いちばんいい仕事してたの、あんたかもね」
私はパンジーに向かってそう囁いた。 誰に言ってるのか分からない台詞。けれど、それがいい。
──誰も、救われない。
それが、この物語の結末だった。 王子は失脚し、賢者は信を失い、騎士は己の正義に疑問を持った。 リリアンは“ヒロイン”であることをやめて、ただの少女として生きることを選んだ。
彼らはそれぞれ、“物語”から落ちた。
そして私は──最初から“そこ”に立っていた。
◆
あの夜、誰もセシリア・ド・ラファエリに花束を渡さなかった。 王子の謝罪も、群衆の称賛も、何もなかった。 誰も、私を祝福しなかった。
でも、その夜会の余韻の中、ひとつだけ印象に残ったことがある。
──隅っこで転んだまま立ち上がれなくなっていたギルベルトに、メイドのルネが「床とご結婚ですか?」と聞いた。 ──アーサーは泣きながらケーキを食べ続け、最後はスポンジで鼻をかんだ。 ──王子は椅子から立ち上がれず、助けを求める声が「ぼくは悪くないもん……」としか聞こえなかった。
地獄絵図である。 でもまあ、見慣れた地獄絵図だった。
「……この国、あと三日は持つかしら」
冗談のつもりで呟いた。 でも、それに答える者はいない。 静寂の庭に、ひとりぼっちのモノローグだけが染みていく。
◆
私は歩く。 何も求めず、何も期待せず、ただ地面を確かめるように一歩一歩。
祝福はなかった。 でも、それでいいと思っていた。
だって、私の“勝利”は誰かの拍手ではなく、 私自身の意思で勝ち取ったものだったから。
拍手も、喝采も、物語も、いらない。
必要なのは、私が“私として”ここにいること。
◆
途中、道端の猫に話しかけてみた。
「ねぇ、私、どうだったと思う?」
猫は尻尾をひとつ打って、無言で立ち去った。
「……あんたも無言派なのね」
私は肩を竦めて笑う。 涙も、もう出なかった。 最初から、誰も私の味方ではなかった。 最後まで、誰も私を祝福しなかった。
それでも、私は笑った。 自嘲でもなく、強がりでもない。 心から、清々しかった。
◆
それからしばらくして。
私は小さな村の外れで、静かに暮らすことにした。 名を変え、身分を捨てて、パン屋の手伝いをしている。
小麦粉は裏切らない。 こねれば膨らむ。 オーブンの前では、誰も貴族ではいられない。
村の子どもたちには「焼きたてセシリア」と呼ばれている。 たぶん悪意はない。たぶんね。
たまに城から使いが来るけれど、私は応じない。 戻る理由がないからだ。
私が舞踏会で得た“勝利”は、人生の褒賞ではなく、 自分を演じることをやめた“罰”のようなものだった。
◆
でも、私は生きている。
誰にも祝われない人生。 誰にも赦されない選択。 けれど、それは“私”の物語だった。
誰も救えなくてもいい。 私は、自分を生きる。
毎朝、パンを焼き、猫に無視され、 パンジーと会話して、焼きたてをつまみ食いして。
たまに空を見上げて思う。 ──あの日、私はあの舞台で何を得たのだろう。
……たぶん、何も得ていない。
でも、それが答えなのだ。
これは“何かを得る”物語ではなく、 “物語を降りる”決断を描いた話だった。
◆
ある日、村の少年が聞いてきた。
「セシリアお姉ちゃん、むかし何してたの?」
私は笑って言った。
「ちょっとね。舞台の上で、大暴れしてきたの」
少年はキョトンとした。 そしてこう言った。
「……それって、すっごくかっこわるいね」
私は、腹を抱えて笑った。 その通りだと思った。
かっこわるくて、うるさくて、誰にも祝福されない。
それでも、私は“私”として、今日を生きている。
──それが、脚本のない人生。
そして、ようやく始まった“本当の物語”だった。
◆
「……セシリア様、おかわり焼けましたよ」
声をかけたのは、店主のマルタだ。ぽってりした体型で、笑うと顔がまんまるになる。
「だから“様”はやめてって言ってるの」 「でもお嬢さん、どう見ても元貴族でしょ?」 「元、ね」
私は、麦わら帽子を深くかぶりなおしてパンを運ぶ。村の広場には、朝から焼き立ての香りが漂っていた。
パンは今日もふかふかだ。 裏切らないこの膨らみ。 人生もこうならいいのにと、少しだけ思う。
「ところでセシリア、また猫に振られたんだって?」 「違う。ちょっと尾を踏んだだけ。……たぶん」
マルタが笑い、私もつられて笑った。
ここでは、誰も“断罪劇の主役”など知らない。 “悪役令嬢”だった私を知る者も、いない。
でも、それでいい。
昨日の花壇には、小さなパンジーが咲いていた。 その下に、子どもが書いたような手紙が置いてある。
《パンやのねえちゃん いつもありがとう》
綴りは滅茶苦茶だ。 でも、これがきっと、人生で初めての“本当の祝福”。
私はふわりと、パンより軽く笑った。
いつかまた、誰かの人生に迷いが生まれたら。 そのときこそ。 私は、声をかけられる人でありたい。
──そんなことを思いながら。
今日も私は、猫とパンジーと焼きたての香りの中を生きている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
断罪イベントを“壊す”ことで、逆に見えてきた“物語の外”──
セシリアが選んだ「祝福されない勝利」は、
もしかすると“幸せ”とは少し違うのかもしれません。
でも、それでも彼女は歩くのです。
土下座の海原を超えて、パン屋の厨房へ。
この作品が、ざまぁの奥にある静かな希望を、少しでも感じていただける物語になっていたなら幸いです。
ご感想・評価などお待ちしています!
次回作もまたよろしくお願いいたします。
──月白ふゆ