タイトル未定2024/12/15 20:20
満州在留日本人には、辛い冬をやり過ごさなければならなかった。満州の日本人の家屋はレンガ造りであり、窓は二重(窓を開けるには内側と外側の窓を開けなければならない)になっているので外からの寒気はかなり防ぐことができた。物売りの声がすると、二重の窓を開けて呼び止めて窓から食物を買うことができた。
日本人の住む家屋にはペチカが作りつけられていた。また、煙突をつけたストーブに石炭をくべて燃やして部屋を暖めることができた。しかし、石炭等の燃料の入手が困難であり十分には暖房を機能させることはできなかった。それでも時には石炭が手に入りストーブを炊くと、真っ赤に燃える石炭の匂いが家中に広がり、すぐに温まった。
手持ちのお金(満州銀行券)は減っていくばかりであり、定期的な収入のない生活では手持ちの金を節約し、何かで稼ぐ必要があった。そこで、慣れない手つきで巻きたばこを作り、それに加えて饅頭等を蒸かして朝鮮市場に行って売ることになった。
たばこや饅頭等の商品を乗せた画板くらいの板の両端に紐をつけて首から吊るして市場で売るのである。朝鮮市場は賑やかで活気のある場所であった。各お店は地面に敷物を敷いて商品を並べて、何やら叫んで売っていた。雨が降ると泥んこになり、買い物客も足元を汚しながら買い物をしていた。時には、ソ連兵が馬に乗って市場にやってきた。馬が泥を跳ねながら通ると商品にも泥の飛沫が付着した。
ソ連兵や中国人、朝鮮人も彼らは常にスイカやヒマワリの種を口に入れて器用に歯で皮を剥いて中身を食べ、皮はプッと吐き出していた。市場の泥んこには、それらの種の皮が溢れていた。現在の清潔なスーパーマーケットと比べると比較にならない不潔な市場であった。しかし、この不潔だが喧騒の朝鮮市場は、活気溢れる場所でもあり人々の生き抜く力、生命力の横溢を感じさせた。この活気が日本への帰国を待つ日本人をも元気づけていると泰明は感じていた。
そのような喧騒の中で、朝鮮人や中国人が突然、商品を売っている泰明の前に現れて商品を強奪することもあった。しかし、そんなことに悩んではいられない。生活のため懲りずに次の商品を準備して市場に売りに行った。
ソ連軍は、先に述べたようにだんだん撤退して行ったが、満州にある日本側が設置しためぼしい機械設備などを取り外して戦利品と称して貨車に乗せてソ連へ持ち帰ったと噂されていた。
ソ連の撤退がすすむにつれて発行していた軍票は減価していった。戦後の満州では満州中央銀行券が主として流通していた。敗戦前は、満州国は日本国とは異なる国であると日本政府は主張していた。満州中央銀行は敗戦とともに潰れたが、その発行した銀行券は使われ続け最も信用があった。その他にも銀行が潰れたにも関わらず朝鮮銀行券も流通しており、加えてソ連軍が発行する軍票も流通していた。
これら紙幣の相場は広い満州では地方により異なった。目ざとい中国人は、その差を利用して大儲けしたとされる。
満州の寒い冬をなんとか凌ぎながら敗戦の翌年、昭和二一年になった。在満日本人は、いつになったら日本へ帰ることができるのかということが最大の関心事であった。「来月には帰れるぞ」というような噂やデマが何回も出回り、それは希望的観測だったことが判ると、その反動でガッカリした。
満州の遅い春がやっと巡ってくると、少し肩の力が抜けたような気分になった。そんな時、突然、父が中国人に連行されてしまった。間島市から一〇〇キロくらい北方の農家だそうで、近隣に住む四〇歳以下の日本人男性が対象だったという。父は既に四一歳となっていたので対象外であったが、近隣の年配男性に加わらなければと思ったようで、ぽかぽかと温かい日に即日出発してしまった。
それまで度々、祖国への帰国情報に振り回されてきたが、八月になって、やっと具体的な帰国計画の情報がもたらされた。それと時を同じくして父が連行先の農家で病死したことを同じく連行された仲間が知らせにきてくれた。父とともに農家で働かされていた彼らは帰国の情報が伝わると解放され、間島市に戻ってきたのである。
父がお腹を壊して死んだと聞いても帰国の準備で慌ただしい中では悲しむこともままならなかった。父とともに農家で働かされていた仲間たちが父の髪の毛と手指の爪を遺品としてわざわざ持ってきてくれた。それが父の唯一の形見だった。しかし、帰国準備の忙しい中であり葬儀は帰国してから執り行うこととした。
在満残留日本人が敗戦後一年以上も日本への帰国が始まらなかったことは、ソ連が全く無関心であり、満州にあった日本の財産を自国に持ち帰り、日本人捕虜を連行して強制労働させることのみにしか関心を示さなかったからである。これは日露戦争に負けたことに起因するのか自国利益の獲得のみに奔走したからなのか、ソ連という国が国際的な感覚を持ち合わせていない国なのか様様に憶測される。しかし、それまでの日本の犯した侵略行為を思い返してみるとソ連を非難する資格は持ちえないということなのかも知れない。
我々が帰国できたのはアメリカの方針でありWikipediaには次のように述べられている。
「満州に取り残された日本人約一〇五万人の送還は、ソ連軍が一貫して無関心であったため、ソ連軍の撤退が本格化する一九四六年三月まで、何の動きも見られなかった。一方、米国は、中国大陸に兵士から民間人まで多くの日本人が残留していることが、国共対立が顕在化していた中国社会の不安定要素となることを懸念していた。ソ連軍が撤退し国府軍が東北に進駐を開始するや、米軍の輸送用船舶を貸与して日本人送還を実行に移していった。」
つまり、ソ連は日本から兵士・民間人を自国で強制労働させるため連行し、在満日本資産の多くを略奪したが、日本人居留民の帰国については、無視したことになる。また、アメリカも単なる親切や人道的見地だけではなく、支援していた蒋介石政権への配慮で邪魔者の日本人居留民を帰国させたことになるが、我々は、動機がどのようなものであったにせよ、帰国できたことを感謝しなければならない。
満州から日本への引揚げの記録については、その過酷な行程について、多くの体験者が手記に残し、本として出版されているものも多い。そしてその行程は体験者が敗戦時に居た場所や時期等によって実に様々である。泰明の場合については、帰国後、小学校で先生に言われて「一〇歳の記録」としてたどたどしい文字で綴ったものを参考に経緯をなぞり、それを「大陸の風」と題して一冊の冊子とした。
その要旨は次のようなものである。泰明一家は直前に病死した父の葬儀も叶わないまま、慌ただしく準備をして昭和二一年八月二八日に延吉駅から無蓋の貨車に乗って出発した。当日は詰められるだけの当座の荷物をリュックに詰めて担ぎ早朝に多くの家財道具を置いたまま無人となる家を出て、延吉駅に到着した。
すると朝鮮人の責任者らしき人が来て、荷物の中身を出して待機するよう命令した。彼らは我々日本人引揚者の荷物の中からめぼしいものを抜き取っていった。その作業は夕方までかかり、我々は悔しくても見守るしかなかった。
夕方頃になって、やっと列車は動き出した。無蓋者から転落しないよう荷台の中央に座ると、やがて夜の帳が降りてきて真っ暗な中を列車は走った。列車は駅には止まらず休みなく走ったり一週間もある駅で動かないこともあった。その間、我々は石炭カスのある敷地で毛布を敷いて寝て列車が動きだすのを待たねばならないこともあった。近くに仮設の便所があって臭くて寝付けないこともあった。
やがて松花江(アムール河の支流)の付近で列車から降りた。
松花江の鉄橋は、戦闘で壊されて河に落ちていた。引揚者は付近の中国人に金を払って頼みこんで向こう岸まで筏で運んでもらった。河を渡った先でも何日間も次の列車を待つことになった。
このように予定が判らない長旅が続いた。ある時は、唯一の全財産である荷物が沿線で待機している中国人に鎌を取り付けた棒切れで引っかけて強奪されることもあった。
ようやくコロ島という港に到着した。ここでアメリカ軍の準備してくれた上陸用舟艇のLSTに乗船し故国へ向かった。
引揚げ船の日本の受け入れ港は舞鶴、呉、下関、博多、佐世保等の一八港で、開始から四年で、約六二〇万人が帰国したとされている。GHQは伝染病の蔓延を防止するため港で厳しい検疫を行った。全員がお尻を丸出しにして並び、肛門からガラス棒で便を検体として採取された。感染者が発見された船では全員がしばらく上陸することができず、港内で待機させられた。泰明たちの乗った船も佐世保港で約一週間、上陸できず、港内から見渡せる日本の風景―松の木や民家等―を眺めていた。
一〇月一〇日になって、やっと上陸を許された。延吉を出発してから約一月半の行程だった。祖国日本の景色は美しかった。あまり樹木のない満州に比べると豊かな自然が貧しいながら心を豊かにしてくれた。
終戦時に日本国外にいた日本人は約六六〇万人、そのうち軍人が約三五〇万人、一般人が約三一〇万人であった。一般人は現金一〇〇〇円とわずかな荷物しか持ち帰ることが許されなかった。外地で築いた財産はそのまま置いて来ざるを得なかった。満州という広大な植民地で一旗揚げようと勇んで故国を後にした日本人は元の木阿弥より始末の悪い結果となっていた。
二
さて、幼時になぜ自分は満州にいたのだろうか。もちろん、父が満州の官吏をしており一家で満州に住み着いたことに起因していることに他ならない。満州に住みついたのは日本政府が朝鮮や満州を植民地にしたからである。植民地とした経緯については明治以来の日本の歴史を紐解いて見ることが必須となる。日本の近代史はどのように捉えているのだろうか。明治維新以来、日本が歩んできた歴史をなぞって見ることとしたい。