まだ薄暗い朝焼けが、カーテンに染み付いて柔らぐ色を、ベッドの中から見つめていた。
まだ薄暗い朝焼けが、カーテンに染み付いて柔らぐ色を、ベッドの中から見つめていた。出社まで、あと5時間。起きるのには早く、眠るには脳が妙に冴えて、行き場の無い思考が未来に目を向けているのを感じる。
上司に相談できずに溜まった案件、まだやらなくて良いと放置していた連絡事項、顔の見えない相手への催促をしなければ、角が立たないように、なんのトラブルも無いように……何事もないように。
寝返りを打つ。頭の片方の重さが、ゆっくりと反対側に移動して、一瞬だけ息が楽になった。いつの間にか呼吸が浅くなっている、というより、息が止まっていた気がする。呼吸は無意識にも継続されるはずなのに、いつの間にか止まっていることが、私にはあった。苦しくはない。ただ、今止まってるかも、と自覚して、深呼吸をする。
壁と自分の間にある本の山が、鼻先に触れた。積読をするタイプでは無かったが、昔のように色々と読みたいと意欲を出して購入する度に、こうやって無用の飾りになる。今こそ読める時間じゃないかと自分に言い聞かせてみるが、さっと怯えが自分に差し込むのを感じた。5時間後、私はどうすれば良いのだろう……そして目が本から逸れる。もう一度反対に寝返りを打つと、マットレスが僅かに傾いた勢いが、背中とシーツの間に本が挟まった。背中に当たる本の角が、なかなかに痛い。上半身を捻って本を取り除こうとすると、体の下に変に巻き込まれたのか、ぐちゃりと本のページのひしゃげる音がした。
本を読むモチベーションにしようと、古本ではなく、わざわざ新品を買ったのに。
デコレーションケーキをひっくり返された気分だ。なんとか背中側に手を回し、本を掴んだ。また嫌な音がしたが、もういい、もういいから、これ以上はもうやめてくれ。
それを背中の下から引っ張り出して投げると、床に叩きつけられる。予想以上に大きな音がして、そこ後の静寂が耳に痛く響いた。
その本の表紙に、やけに明るい陽の光がプツンと刺さった。
カーテンの隙間から、朝が入り込んでくる。
もういいから、これ以上は。
逃げるように布団を被ると、閉鎖的な暗がりが意識を包む。あれだけ冴えていた思考が落ち窪み、その内側へ巻き込まれるように意識が落ちた。
けたたましいアラーム音。それももう、やめてくれ。掻きむしるようにシーツを引っ張り、探り当てたスマホの側面を指で滅茶苦茶に押した。突然音が大きくなって、心臓が捻りあげられた気がした。がむしゃらにスマホのボタンを押し続けると、ようやくアラームが切れた。本当は、画面に表示されたボタンをスライドするだけで切れるのだが、目を閉じたままでいないと、自分が壊れてしまいそうだった。
アラームが切れてから、何分経ったのだろう。今は何時?起き上がらなくてはいけない、でもあと1分だけでも、せめて。それか、もう手遅れ?時間を確認しなくてはいけない。でも、目を開けられない。まずい、不味い……。
また息が止まっていた。深呼吸をすると、思考がどろりと溶ける。頭が重い。一晩中求めていた、何もわからなくなるような眠気が体を包む。最近毎日こうだ。起きなくちゃいけない時間になって、意識が落ちる。
ダメだ、行かなくては、起きなくては。
片目だけをあけて、スマホの時計を読んだ。朝ご飯を抜けば、あと15分は大丈夫。化粧もしないなら、もう少し。お願い、今だけは、もう少し休ませて。
スマホの時計表示は、1秒ごとに「:」が点滅する。これが60回繰り返すと、数字が進む。片目でその回数を数えるとなしに見つめながら、微睡む。朝は嫌いだったが、朝にしか現れないこの現実と夢の境目が、1番何も考えられなくなるほど深いから、それだけが好きだった。
でも、行かないと。もう上司に、当欠の電話をしたくない。今月、もう3回も休んでしまった。いつも月曜日。そろそろ、変なことを疑われてしまう。
体が重い。昨夜に勢いよく食べたスナック菓子の油が、胃の底に溜まっている気持ち悪さ。眠気に引きずられながらも、目の端にスマホの時計表示の光がチラつく。もうダメだ、起きないと。
体温を測ってみた。熱があったら、休みやすいのに。今のご時世、例の感染症の禍根で、発熱には強烈な免罪符が付与されているから。でも、体温計は36℃5分で、常識的に大したことが無い。自分の平熱は35℃台だから、いつもよりちゃんと高めだが、仕事を休む理由にはならない。
平熱が低いから、これでも高いんですと言えば良い。でも、なんか、できない。会社の規定は、37℃5分。それでしかない。理不尽だとは思わない。まあそうだろうな、という虚しい悟りがあるだけだ。そこにいちいち目くじら立てて、自分の体質には不当だとブツクサ言うほど血気盛んではない。常識って、こんなものだろう。
熱が出たと言うこともできるが、今月はもうその手を使ってしまった。それに、嘘をついてケロッとできるほど器用じゃない。逃げたな、という後ろめたい自分が1日中付き纏い、休みどころではなくなる。損な性格だと思う。いつだって、1番自分を追い詰めるのは自分だ。
実際、仕事を休んだって誰も気にしない。多分。だって、今の仕事は誰とも関わりが薄くて、会社としてもやらなくてはいけないことだが、正直形だけになっている……慈善事業のようなもので。それよりも会社としては低迷しつつある業績を回復させるのに必死だった。
慈善事業に対して、会社自体が後ろ向きなのではない。ただ、社員の個人的な感情としては、やはり面倒だし、もっと急を要する案件なんていくらでもある。だから、こちらから連絡をする度に、返事がないか、曖昧な回答を返すかばかりだ。でもこちらも仕事は仕事であって、明確な回答と対応を揃えなくてはいけない。
疎まれる一方だと思う。忙しい業務に差し入る、穏健な対応連絡……向こうだって仕事だと頭では分かっているだろうが、トラブルに擦り切れた神経には嫌に障るのだろう……相手の状況も当然想像できるから、こちらも苦しくなる。
もうちょっとやり方考えて? と指摘されたって、既に考えに考えていた。恐る恐る上司に相談すれば、考えすぎなんだよと一言。ピンポン玉になった私は、ただ凹んで席に戻るだけ。溜め込まずに吐き出そうと世間では言うが、残念ながら同じ業務に当たる人はおらず、愚痴を吐くにもその背景が分からない人相手には説明も怠い。良い迷惑だろうとも思う。愚痴の多い人間だと思われるのも、怠い。
仕事だと割り切れたら良いのに。でも、面倒そうな顔をされる度に、相手の感情が、仕事だという建前を貫通して精神に届いてしまう。繊細だとか感受性が豊かなんで口当たりのいい言葉で、単に自軸が無くて引きずられやすいだけだ。
周囲と比べたら、楽な仕事だと思う。急を要するトラブルには基本的に関わらない。夜中に電話がかかってくることも無いし、お偉いさんと膝を突き合わせて競争に勝ちにいかなくてはならないことも無い。そんな私が、職場で今、1番休んでいる。
誰かから、そのことをどうこう言われた訳ではない。人によって辛いことは違うから、なんて、優しい言葉をかけてくれるだろう人もいる。誰にも責められていない。でも、そうじゃない。直接言われなければいいなんて、そんな訳ない。給湯室で、あの人っていつも定時で帰るけど、どうして?と他人の噂話をしていた同じ部署の先輩の、真顔でそれとなく交わされていた言葉が忘れられない。話題の渦中の人は、特に違和感なく職場に馴染んでいるが、周囲からの評価が微妙に低い。職場に入ってきて比較的日の浅い私でも察していた。
業務の内容上、他人と関わらなくてはいけない。評判のいい人と悪い人で、仕事の進みはかなり変わる。仕事だからといって、相手取るのは人というナマモノで、余計な噂の尾ひれが付けばつくほど偏見を持たれる。発言が大きくて反発を買いやすい人が立ち去った後の、事務所の彼方此方に散らばる冷笑が、それを物語っている。正しけりゃいい訳じゃないんだよ。そう誰かが漏らした言葉に周囲が同調して、意見が退けられられる光景。後で別の人が軌道修正していくのを、嫌ほど見てきた。言葉を選べば、上手く立ち回れば、もう少しスムーズに行くのに。
うまくやらなくては。うまく、立ち回らなくては。特に私みたいな、軸のない、人の顔を見ながら仕事をするような人間は、尚更。
やらなくては、ダメになる。頑張れ……このまま、いつまで?
(だめだ)
体をベッドから引き摺り下ろす。
汚い顔だ。
職場の手洗い場で、汗で光った自分の顔に吐き捨てた。化粧はおろか、顔を洗う時間すら無かった。昨日、お風呂に入るのもやめてしまったから、体全体がどことなく油っぽくて気持ち悪い。
トイレットペーパーを肌に押し当てると、独特な芳香剤の臭いが鼻先にまとわりついた。硬い紙が小鼻を引っ掻く。
ふと、人の気配がして、咄嗟にトイレットペーパーを手のひらの内側に握りつぶした。同時に、隣の部署の社員が入ってくる。
「なに、どうしたの、なんか眠そうじゃん」
人当たりの良い、いつも明るい人。多少作業の粗い嫌いはあれど、仕事の風通しが良くて、意見がしっかりしている人。
刹那、この人に自分の状況を吐き出してみたらどうなるか、考えてみた。
仕事に行きたくなくって。……どうして?……上手く立ち回れなくて。……上司に相談してみた? ……考えすぎだって。……あー、ねぇ。よくあるよね、もうこればっかは経験するしかないよ。その内どんどん図太くなるから。前向いてこ。たまにはストレス発散とかしてさ。
(結局そう言われるの、分かってる)
手のひらにトイレットペーパーを握りつぶしたまま、蛇口のセンサーに手を近づける。生ぬるい水が流れてきて、手の内側へ入り込む。柔らかくふやけたそれを、さらに内側へ強く握り込む。
「ちょっと寝坊しちゃったんです。ほんと、ギリギリでしたよ」
口を横に引き伸ばす。笑えているだろうか。
「あらま、は結構しっかり者かと思ったら、お茶目なところもあんだね」
そのまま個室に入っていった背中を鏡越しに見送ってから、急いで手洗い場を出る。給湯室に人がいないのを確認してから、シンクの中で手を広げた。
水に濡れて固められたトイレットペーパーの塊を水に流す。あっという間に崩れて、指の隙間から落ちて消えていく。手のひらを擦り合わせて、こびりついた分を全て洗い落とす間、手洗い場と同じように正面に設置された鏡を見た。
なんだ、普通に笑えているじゃないか。
満面の笑みを浮かべた自分がいた。
人間は別に、お風呂に入らなくたって、顔を洗わなくたって、朝ギリギリまで寝ていたって、朝ごはんを食べなくたって、笑うことはできる。私はとりわけ、何かにテンションを合わせることが得意だ。お酒を飲んでいなくても、その場に合わせて盛り上がれるし、会話が弾めば、さらに弾むように大袈裟にはしゃぐことだって得意だし、落ち込むことがあったって、電話がかかってくれば明るい口調で出られる。何かがあっても、戻れる。そうやって今まで、正しいと思う方向を維持してきた。
物心ついた時から、何が正しいかを客観的に見てきた。ちゃんと人並みの失敗はしてきて、落ち込むことも病むこともあったけど、ちゃんと何が正しいのかは分かっていた。勉強して、大学に行って、就職して。自分ができることを、真面目にしっかりと。
世の中、自分の思い通りになる方が少ないのだ。だから、柔軟に対応する。自分の意見が通らなくたって、最終的に物事がうまく回るのなら、自分も得する。素晴らしい公益の精神。私は、自分のこのやり方に納得しているし、やはり正しいとも思う。
ふと、眩暈がした。シンクに両手を付く。どこかで横になりたい。熱は無いし、病気をしているわけでもないけど、調子が良くない。ここのところ、ずっとこうだ。
ストレスのせいじゃない? と言われるのは、聞き飽きた。世の中、何かにつけてストレスのせいにし過ぎる。ストレスはある程度仕方ないものだ。社会に出れば、誰だって晒される。いちいち気にしていたって仕方ない。
いや、自分はストレスが少ない方だろう。周りを見ていれば、もっと深刻そうな案件を抱えた人の方が多い。まだ歴の浅い私の責任は、比べれば小さい方だ。そんなちっぽけなレベルで感じるストレスなど、いちいち構っていても仕方ない。調子が悪いのは、ストレスというより昔からの体質で。
だから、別にこのくらい、私にとっては平気で、平常運転に近かった。朝の葛藤だって、誰だって抱えているレベルのものだ。皆んな、仕事は嫌だろう。朝起きたくないことなんて多いだろう。
こんなことでめげていたら、この先やっていけない。だから、大丈夫。うまくやれば良い。
大丈夫。
ほっと息をついた。朝の気分は最悪だったが、出社すれば気持ちはそれなりに持ち直す。やはり私は、ある程度気持ちを周りに合わせることが得意だ。職場に入れば、仕事をする人になれる。
だから、大丈夫。
休みたい。
目の前に広がるきらびやかな光景に、まるでもって付いていけない。
「お金無いけど、でも新しいグッズが出すぎちゃって。この新しいビジュアルとか、もうこの辺りがえっちすぎない?」
アクリルスタンドが料理の隙間に陳列されている。友人と一緒に楽しんでいる、いわゆるオタク趣味の一環だ。カフェとコラボが始まったため、前々から予約をして足を運んだ。
料理を頼むたびに付いてくるシークレットのクリアファイルを数えながら、友人は満面の笑顔で写真を撮る。
「仕事がほんと忙しすぎて。でも推しのお陰で生きていける、ほんと」
多分私は、笑った。うんとも、いいえとも言えなかった。
推しは良いものだ。こちらを攻撃してくることは無いし、好き勝手に解釈することができる。大前提に『好き』があって、それを通じて同じ趣味の人と強固に繋がっていく。今や推し活は文化であり、独りで楽しむよりも、何かしらの手段で人と繋がって一緒にはしゃぐことが多くなっている。そのお陰で私も、こうして社会人になっても古い友人と親交があった。
でも、どことなく憂鬱だった。
友人がクリアファイルを撫でるのを見つめる。そのプラスチック板にそこまで盛り上がれるなら良いよな、と考えている自分がいる。人間の腰の形をした線をなぞって、興奮すると目を潤ませているのが奇妙に映る。
二次元なんて、ただの絵じゃないかという、定期的に聞くどこぞの論争を思い出していた。私はこの論争に不快になる方面の人間だったが、果たして今の自分も同じ場所にいるのかが疑わしかった。
ただの絵、というふうに、粗末に言われるのには腹が立つ。それを仕事にしている人もいるし、何かのきっかけになったりもするし、誰かの感情を揺さぶることだってある。
「マジでエロくて鼻血出そう」
感極まった調子で口元に手を当てる友人に、また私は笑って反応したのだと思う。
(白けて見えないかな…………)
ふと、周囲の目が気になった。店内は満員で、友人と似たり寄ったりの反応を示す人がたくさんいた。加えて、友人以上にはしゃいでいる人すらいた。顔にハンカチを当てる人すらいる。それを見て、ヤバいね、という友人らしい子も笑っている。
楽しそうだな、と思う。人とはしゃいでいる時が、何よりも楽しい。
(私もそうだった……)
SNSに推し活の写真を投稿するのが好きだったし、人のファンアートを見るのも好きだった。それを誰かと共有して、ここが良いとか、あそこが良いとか、そういう話で盛り上がるのが好きだった。推しというものに狂えば狂うほど、誰もがつられてはしゃいで、楽しいという感情が連鎖するとも思っていた。
いつの間にか、推しが好きというよりも、推し活が好き、という方向にシフトしていたとも思う。
自分にとって、推し活というのはコミュニケーションツールだった。推しというのは良い。推しはこちらを攻撃してこないし、好きに解釈が許されて、顔も見たことのない他人と共感できる。ある一種の言語、これぞ文化。
何かを好きでいる自分は楽しいし、簡単に人と一体感が持てるし、つまり何かと便利なのだ。
もともとわたしは、対人スキルが高くない。内向的で、かつ自己中心的なところがある。そんな自分にとって、一つのコンテンツでこれほど容易に人とコミュニケーションが取れるのは、革命的だった。
自分にとってのソレが何なのか、正体にうっすら気がついていた。
推しは良いものだ。こちらを傷つけてこないし、好き勝手に解釈しても良い。人の解釈は自由だ。
どんな服を着るところを想像したって、セクシーなイラストを描いたって、自分で考えた言葉を小説にして喋らせたって、良いのだ。だって好きなんだもの。好きは誰にも否定できない。
私は好きが高じて、二次創作もしていた。想像力は豊かな方だし、人に共有すればするほど盛り上がる感覚があった。
過激な方向に走っていることには、うっすら気づいていた。
この文化は、狂えば狂うほど面白い、という、サーカス的とも感じる側面があった。そもそも、好きというものを否定することが禁忌に近い暗黙の了解になっている。よっぽどのことが無ければ、過激な方向に走るのを止める人はいない。
たとえ、推しを殺す作品でも、凌辱する作品でも、逆に推しが誰かを殺す作品でも、凌辱する作品でも。ある程度の配慮と住み分けがされれば、誰も何も言わない。そういうのが好きな人もいる。
でもそれは、推しが好きなのか? 本当は、推しじゃなくても、そういう作風が好きなだけでは無いのか? だって、純粋な推しというものは、そういうことをするという設定も、作者の意図も無い。
推しは道具だ。自分の欲望を体現する、便利な人形に過ぎない……。
ぬいぐるみ相手に大人が笑顔で喋り続ける人を目撃した時の、独特の気まずさを感じ始めていた。誰にも迷惑をかけていなくて、本人が楽しければ良い……という前提だけではぬぐえない程の、強烈な違和感。微笑ましいの枠組みに入れるのは、せいぜい小学生程度の子供くらいまで。子供はその辺りの境界が曖昧だ。
(いや、でも、私がおかしいのかな……)
今や、大人だってぬいぐるみを持ち歩いたりする。イベントではそんな人なんかたくさん見た。缶バッジを山のようにカバンに付けて歩く人だっている。最近は、アクリルスタンドも、いわゆる痛バックというものに仕込むらしい。
大量のアクリルスタンドの中には、布で作った服を纏わせていたり、ラメシールでデコレーションされていたりするものもあった。それを大事そうに抱えるその手には、色々な形のストーンを付けた爪。
(なにも悪くない、今の時代はそんなの普通)
でも今の自分には、友人の大切なアクリルスタンドはただの柄がプリントされた板に見えるし、纏わせた布やデコレーションも爪も、幼稚園児の喜ぶオモチャのようなデザインにしか見えない。
オモチャを机の上に並べてはしゃぐ大人。別にいいじゃないか。他人に迷惑をかけているわけではないし、本人が楽しんでいるだけだ。オモチャに対して、いわゆるガチ恋しても減るものじゃないし、貢ぐと言いながらコンテンツにお金をつぎ込むのはおかしなことでも無いし、ある程度の配慮と棲み分けさえできていれば、欲求不満の解消相手にしたって良い。
どうしてそれに、一定の忌避感を覚えるのようになったのだろうか。どうして自分の手から、零そうとしているのだろう。ただでさえ奪われることの多い世の中で、好きなものを自ら手放すことになるのだろうか。
「…………ねえ、具合悪い?」
ああ、と私は思わず、ため息を漏らしてしまった。
さっきまで楽しそうだった友人は、表情を曇らせて、心配そうにこちらを見つめていた。
きっともう、この友人は気づいているだろう。そして、二度とこうやって遊んでくれることは無いだろう。
「ごめん」
気が付くと、私は謝りながら笑っていた。
道具になり果てた推しは、この友人と繋がり続けるためにあった。思い返せば、推し以外の話題で、この友人と長く話をつなげられることは無かった。あれほど強かった関りも、これを機に、ぶっつりと切れるのだろうと思った。
この文化で繋がった人との関係は、ピアノ線のようなものだった。強固だが、一度切れれば戻らない。それは人間関係というよりも、会社ににていた。同じ共同体に属するには、別に人格を深く知る必要はないのだ。同じ目的さえあれば、誰だっていい。会社を運営するでも良いし、推しを語らうことでも良い。
そこに個人というものは、必要ない。
そして今、推しすら不要になった。
私も大概、寂しい人なんだろうな。
柔らかな常夜灯の下で、パソコンの画面ばかりが輝かしい。今日もSNSは何かの話題で盛り上がっている。自分とは関係の無い人間の不倫話に、まるで自身の恋人が盗られたとばかりに文句を言う人たち。人はイライラしたがっている、という本を読んだことがある。そのイライラを吐きたくて仕方がない。怒りたくて仕方がない。正義を成し遂げたくて仕方がない。そういう人たちを煽るように、世間の話題は選ばれていく。
随分とシニカルな見方をする本だと思うが、その一方で、なんとなく誰かの不倫話を追ってしまう自分もいる。それを楽しいと思えばいいのだが、大体はイライラしたり、こんな世の中なんて、とがっかりして終わる。無意識ながらも、この話題を見たら不快になるかも、という予測通りの負の報酬が得られて、それはそれで落ち着くらしい……もちろん、癖になる、というだけの話で、負の報酬が蓄積されているだけなのだが。
一方では、続けていた推し活にも戻れずにいる。前みたいに、何か二次創作でもしてみようかと考えても、そこには、自分の欲望を反映しただけの、推しの見た目をしたテセウスの船があるだけなのだろうとも思った。それが酷く卑しく感じて、恥ずかしかった。家族にも、数人を除いた友人にも言えないような趣味だった。秘密基地のようなわくわく感は既に消えて、
SNSをスクロールする。昔はずっと貼りついて何かしら発信していた気がするが、今や喋ることが無い。それでも、どことない不安感に付きまとわれているように離れられない。
寂しい人だと思った。会社にも、友人にも、推しにも、不格好にしがみ付いている理由は、それでしかなかった。そこに『自分』という個人はいなくて、ただ漠然とした不安感が霧のように渦巻いている。そして、それを取り除いてしまったら、それこそ何もなくなるのだろうとも思った。
(透明になっていくみたい……)
いや、今まで煮凝りのような、全てを濁した状態だったのだろうか。でもそれが悪かったとは思わない。そうでもしていないと、自分の形を見失ってしまう。
透明なんて、綺麗なものでもないだろう。そこには、透き通って明るくなんか無い、ただ何も無い、ぽっかりとした虚があるだけだ。
だって今まで、自分なんて必要なかった。周りに合わせるのが処世術だったし、友人と同じような趣味に狂っていられれば、どこかには所属していられた。
自分を殺してでも、安心したかった。自分というものが、一人で成立しないことが理不尽だった。個を獲得するために、ずっと自分が邪魔だった。
ふと、パソコンでテキストファイルを立ち上げた。二次創作をする前は、自分でオリジナルの小説を書くのが好きだった。推しが云々というのは、ここに乗っかった趣味だった。
元々私は、学校で配られたプリントの裏に小説を書くような子供だった。もちろん親はそのことに気づいていたかもしれないが、子供ながら読まれることに恥ずかしさがあり、「日記のようなもの」と誤魔化してきた。でもそれは全てが間違いではなく、大体自分の書いたオリジナル小説というものは、その時自分が何に興味があったかとか、何を考えていたかとか、そういう趣味思考がよく現れる。できた小説を読み返すと、自分ってそうなのかと思うことがしばしばあった。
オリジナル小説を書くのは久しぶりだった。推し活というものにハマって、誰かと共有することで繋がることがメインになっていて、書く時間がなかった。
推し活をする人のオリジナルってあまり見ないなとSNSで呟けば、見てみたいという反応があったのが有難い。正直、あの場では推し活をする自分の作品がフォロワーの目当てであって、別にわたし個人の思考などてんで興味ないだろうと思っていた。
結局、出来上がったのは、死んだ人の記憶に追われる話だった。ちょっとしたラブストーリーでも……と思っていたのに、柔らかな桃色というよりは、擦りむいた瘡蓋の赤黒い色がせいぜいの、随分と暗い話だった。推し活ではもっぱらピンクだったくせに。
そんなオリジナル小説に、コメントが寄せられた。死んだあのキャラクターがもし生きていたら、という言葉に、(でも死ぬべきなんだ)と考え、すぐに(なんで?)と自分に問い返した。小説の中では、死んだ人に対して罪悪感を抱く主人公があっただけで、大した死亡理由は描写されていなかった。でも自分の中では、死ぬべき存在として決められていて、物語の最後では、そのまま忘れ去られるべきだとも思っていた。
ふと、「あなたの小説は誰かを傷つけることに傾倒してるよね」と言われたことを思い出した。それは、推し活で繋がっていた友人に言われた言葉だった。
(それはそうか)
私は独りパソコンに向き合い、つい笑ってしまった。
自分が傷つきたいのだ。自分を抑え込むことで、周囲と溶け合ってきた。そうやって、寂しさを紛らわして、安心を獲得し続けてきた。だから、自分を傷つければ安心できるものだと思っている。
死にたい。殺したい。でもできないから、生きてる。
(わたしなんて、消えて無くなれ……)
そうしたら、抱えるこの虚にすら溶け合って、安心できるのだろう。