6
十九日、瑠璃が暴走のピークを迎える日。今日はB世界で使用されている暦では休日だが、瑠璃の高校は午前授業があるらしい。彼女はまた朝早くから出掛けていった。ヴァニスは瑠璃の代わりに部屋の掃除を済ませたあと、耳に装着したイヤーカフを用いてパルテに報告をした。
『調子はどうだい、ヴァニス』
「瑠璃の暴走は日を追うごとに強くなっています。やはり今日が正念場かと」
『彼女は何というか変わっているね。あんなに若いのに、奉仕の精神がある』
「むしろ若いからこそかもしれません。彼女の行動はどこか危なっかしい」
『後先考えないという意味では君も似たようなものじゃないか』
「昔の話でしょう。今は落ち着きました。瑠璃もそうだといいのですが」
『今日も学校があるんだろう。付いていかなくて良かったのかい』
「瑠璃が来るな、と。私としては傍で様子を見ていたかったのですが、どうも出来そうには」
『ははは。まるで反抗期の娘に嫌われた過保護な父親だね。まあ、あまり君も根を詰めすぎないように。こちらの新しい試算だと、瑠璃の暴走が最も強くなる時刻――「当該時刻」は今夜の十八時から二十時にかけてだと予想されている。非常に強大なエネルギーだ。心してくれ』
「かしこまりました」
通信を切る。その当該時刻とやらに何が起こるのかは見当もつかないが、パルテの言う通り、覚悟はしておいたほうがいいだろう。そこまで考えて、やはり強引にでも瑠璃の様子を見に行ったほうが良かっただろうか、と思った。……何か嫌な予感がする。
ヴァニスはすっくと立ち上がって、出掛ける準備を始めた。サポーターの役割も担っている密着性の高い薄めの肌着に、クレンモアラ(B世界で言うところの羊と馬の中間のような動物)の皮を使った平服。そこに上から茶色のフロックコートに似た外套を羽織る。ヴァニスの仕事着だが少しフォーマルなのもあって、まるでこれから授業参観に向かう父親のようだった。
服装を整えて準備を終える。洗面所の鏡からヴァニスの掘りの深い顔が消えた。すると家を出ようとしたのと同じタイミングで、固定電話が鳴った。
「……はい」
ヴァニスは少し逡巡したが出てみることにした。何か瑠璃に関係することかもしれないと思ったのだ。受話器を耳に当て、相手の返答を待つ。そのあと聞いた話に、彼の碧い瞳は大きく見開かれた。「すぐ行きます」そうとだけ返して、家を出る。鍵は瑠璃から合鍵を渡されていた。
彼が向かったのは瑠璃の高校だった。電話の相手は教師で、彼女のクラス担任ということだった。やはり自分が付いているか、そもそも学校に行かせないべきだった――電車に揺られながら考える。教師は電話口で言った。瑠璃がクラスメイトを殴った、と。
相手生徒との間に何かトラブルがあったらしかった。それはそうだろう。何も理由がないのに人を殴るなど、あの優しい彼女がするはずない。ただ、とヴァニスは自身の思考を紡ぐ。今の瑠璃は正義感が暴走している。だから、何か理由があれば――殴るべき大義名分があれば、瑠璃は迷わずそれを選ぶだろう。自分のミスだ。昨日の煙草の男の時点で気付くべきだった。
ヴァニスは電車を降りたあと、高校の正門を抜けた。昇降口の隣にある受付に声を掛けると、職員室に行くよう言われた。職員室は階段を昇ってすぐ目の前にあった。扉を開ける。すると、隅のほうにあった木製のテーブルの傍の座席に、瑠璃が座っているのが見えた。
「瑠璃」
「……ヴァニス」
瑠璃は一度だけこちらを見たが、すぐに目線を逸らして、あとは二度と目を合わせてくれなかった。気まずいのだろう。生徒を殴ったのも、かっとなってやってしまったに違いない。前に座っていたクラス担任らしき女性が「保護者の方ですか」と尋ねてきたので、ヴァニスは頷いて、隣の椅子に腰掛けた。
担任の話からは意外と早く解放された。ただ殴られた相手の生徒は意識を失って病院に運ばれたらしく、向こうの両親に謝罪するためにも今から病院へ向かうように、とのことだった。まさかここまで大事になるとは。自身の監督不行き届きを反省せざるを得ないだろう。
病院に行くまでの道中、二人は何一つ言葉を交わさなかった。娘がいたとはいえ、こういう場合に何と声を掛けてやればいいのか、わからなかった。それは瑠璃も同じであるようだった。二人は何とはなしに並んで歩いて、近隣の比較的大きめな病院に入っていった。
「申し訳ございませんでした」
ヴァニスと瑠璃は相手生徒の両親と対面して、頭を下げた。ここまでの平謝りは人生で初めてだったかもしれない。ヴァニスは今でこそ家長の名代として過ごしているが、それまでは普通に会社員として働いていた。大戦が起きて文明が後退する前の話だ。ただの人間だったあの頃でも、ここまで真摯に頭を下げ続けたことはなかったような気がする。
不思議な気分だった。実の娘でもない、それどころか出会って一週間も経過していない、そんな女子高生の保護者となって、知りもしない他世界の親に頭を下げている。だが、自分は何をしているのだろう、と感傷に浸る気は微塵もなかった。なぜならヴァニスは瑠璃のことを守りたいと本気で思っていた。だから、これが彼女のためになるのであれば、きちんとやり抜く。
怒髪冠を衝く勢いだった相手方の両親もいなくなって、二人はようやく言葉を交わした。
「……何があったのだ」
「別に――」
言いかけて、瑠璃はぴきっと頭痛がしたように目を瞑った。関係ないはずのヴァニスを巻き込んだ、その事実が彼女の心に申し訳なさを抱かせたのだろう。
「……お父さんとお母さんのことを、悪く言われた。あの子とは元から仲が悪くて、いつも嫌なこと言ってきて、でもなんか、今日は我慢できなかった」
暴走の影響だろう。きっと普段の瑠璃なら早まらなかった。それはヴァニスもわかっていた。
病院のなかは暗かった。もう日が沈み始めているのだろう。その微妙な暗がりのなかで、二人はモスグリーンのベンチに腰掛けた。ぼうっと力が抜けたように、小声で話す。
「……命に別状はないようで良かった。ご両親も一応は納得してくれた。あとは瑠璃、お前だ」
「ルリ、別に何もされてないけど」
「人を殴ると自分も傷つく」
ヴァニスはそう言って、瑠璃の右手を取った。彼女の手の甲は、皮が剥けていた。
「痛かったろう」
ヴァニスがその手をさする。傷口に触れないように気を付けながら。それを見て、瑠璃はまた目を逸らした。彼女の墨色の瞳は潤んでいた。怖かったはずだ。自分でも抑えきれないくらいに怒りの情が湧いて、他人をこの手で傷つけた。きっと、誰にも理解されない孤独を味わうように、辛かったはずだ。
「帰ったら手当しよう。菌が入ると良くない」
「……うん。……うん。ごめん、ごめん、ヴァニス」
「私に謝る必要はないさ」
ヴァニスは病院の天井を見上げて薄く笑った。少女が泣いているところを眺める趣味はない。
「ルリ、何が何だかわからなくなって。でも絶対に、二人を馬鹿にしたことは許せなくて」
「……正義は一元的ではない。見る方向を変えれば、善にも悪にも成り得る。お前の行動は、何も知らない赤の他人から見れば悪でしかない。人を傷つけるとは、そういうことなのだ」
「でもルリは、正義の人でいたい」
「暴力をもって成し遂げられる正義など、すべてまやかしに過ぎない」
「……そう、だね。ごめんなさい」
「……帰ろう、瑠璃。疲れたろう」
ヴァニスが立ち上がる。瑠璃は涙を拭こうと思ったのか、制服のスカートのポケットに手を突っ込んだ。しかし求めていたものが見つからなかったらしい。
「ハンカチをなくしたのか?」
「……うん。おかしいな、持ってきてたはずなんだけど。落としたのかも」
「これを使え」
代わりにヴァニスが持っていたハンカチを差し出す。瑠璃はありがとう、と一言だけ発してそれを受け取ると、目の端に残っていた涙を丁寧に拭き取った。瑠璃からハンカチを受け取って、さて帰ろうとなったところで、ヴァニスは自身の左手に微かな温度を感じ取った。
「……瑠璃?」
「あ……その、ごめん。迷惑、かな」
瑠璃が照れたように下を向く。彼女は椅子から立ち上がる際に、ヴァニスの左手を掴んでいた。手を繋ぎたかったのだろう。別に迷惑でもない。ヴァニスは「構わん」とだけ言って、自分ができる精一杯の笑顔で返した。二人は手を繋いだまま、病院の受付を通過した。
出口を抜けるとき、近くの壁に設置されていたテレビから女性キャスターの声が聞こえる。
「明日の十一月二十日は家族の日だそうです。家族の大切さについて考えるため、内閣が十一月の第三日曜日を家族の日と制定したのが始まりらしく、その前後一週間を家族の週間と……」
家族の日か。ヴァニスは何とはなしに思った。それより明日はお祝いだ。何と言っても瑠璃が暴走を乗り越える日だから。もう出所不明の制御できない激情に悩まされることもなくなる。安心して日々を生きていける。だから、明日は絶対に素晴らしい日になる。そのはずだった。
外は既に日が落ちていた。夕暮れは真っ暗な闇に追いやられて、漆黒に染まっている。上空では欠けた三日月がぼんやりと輝いていた。低空に雲が多いのかもしれない。それはまるで月が、プリズム効果を発生させる滑らかなシルクに包まれているかのようだった。
「……?」
路地を歩いていたそのとき、ヴァニスが不意に後ろを振り返った。繋いでいた手が離れる。
瑠璃は突然あらぬほうを向いたヴァニスを見て、不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの?」
「何者かにつけられている気がする」
「尾行されてるってこと? そんなの誰が」
「わからん。何か強い気配を感じた。……気のせいか」
自身の背中に視線が向けられている感じがしたのだが、近くにそれらしき人影は確認できない。ヴァニスは考えすぎだろうと思って、前に向き直ろうとした。そのとき、瑠璃が彼の服の端を引っ張って、
「ねえ、ヴァニス。あれ、なに」
ヴァニスが向きを正す。瑠璃が指をさしていた方向――路地の出口のあたりには、夜の闇を丸ごと吸収したような、真っ黒な犬の形をした何かがいた。
「犬、かな。見たことない色だけど」
「……何故」
黒い犬は三匹いた。ヴァニスはそれらを見て、自身の背中に悪寒が走ったのを感じた。あってはならない光景を目にしたことで戦慄を覚えたのだ。あの暗闇そのものが蠢いているような犬もどきは、A世界の生き物だった。そんなものが、どうしてこのB世界にいるのか。
「パルテ様、いらっしゃいますか」
『ああ、見えている。異常事態だ』
「何故やつらがこの世界にいるのですか。あれは、」
ヴァニスが咄嗟に左耳のイヤーカフを起動すると、すぐに頭蓋のなかで反響するような声が聞こえてきた。パルテと通信が繋がっているのを確認して、ひとまず落ち着きを取り戻す。
だが彼の束の間の安堵は、パルテが続けた次の言葉によって意味を為さないものとなった。
『正直、僕にもわからない。ただ、そもそも世界間の移動が非常時を除いて禁止されていることは知っているね。それが何故かと言えば、世界を移動することにはそれだけ予測できない危険がつきまとうからだ。それも、主に作製難度の高い洞穴関連でミスが生じることが多い。洞穴作製は壁に大きな穴を開けるようなもので、その際に発生する莫大なエネルギーはその穴ひとつでは受け止めきれない。すると余ったエネルギーが衝撃波のようになって、その大きな穴の周辺に放射状に拡がるんだ。だから洞穴を作ると、中心にある本来の穴の周りに、ごく微小な細かい穴がどうしても開いてしまう。これらすべての位置を把握して閉じることは不可能だ』
「つまりそれは――パルテ様がどれだけ気を付けていても、私をB世界に送った際に生じた洞穴すべてを塞ぎきることはできない、ということですか。そして、やつらがその小さな洞穴を通じてこちらの世界に侵入してきてしまうことも、有り得ると」
『前半はその通りだ。家産世界というシステムにおける根本的な欠陥と言えるね。ただ、後半に関しては違う。いくら洞穴を塞ぎきることができないとは言っても、あのサイズの生物が通過できるほど幅が広い穴は、君が使用した洞穴くらいのものだ。そこに関しては僕が責任をもって塞いでいる。だから、やつらが洞穴を通じて侵入してくるのは――まず有り得ない』
「ですが、現に私と瑠璃はあれに遭遇しています」
『うん。だから僕も困惑している。一体どこから入ってきたのかわからない。……十分に警戒してくれ、ヴァニス。君なら問題ないとは思うが、A世界とは異なる挙動をするかもしれない』
「ヴァニス、こっちに来た!」
「くっ! パルテ様、一度切ります」
瑠璃の声に目線を戻すと、黒い犬たちが一斉に二人のほうへ走ってきていた。ヴァニスはパルテとの通信を切断すると、瑠璃を自身の後ろに下がらせて、
「ぬんッ」
がばりと大きく口を開けながら飛び込んできた犬の胴体へ、目にも止まらぬ速さで裏拳を打ち込んでみせた。如何せん体が真っ黒なため部位が判別しにくいが、おそらく腹と思われる箇所がゴムのボールを指で押し込んだときのように凹む。
腹の凹んだ一体が、叩き込まれた衝撃によって路地の壁に激突する。壁がみしみしと呻き声をあげて、打たれた力が散開するようにヒビが広がっていった。
「す、すごい」
「下がっていろ、瑠璃。奴らはA世界の獣だ。我々は蛹也黄と呼んでいる」
「サナギヤキ……?」
「A世界の公用語でバケモノという意味だ。やつらは人を襲い、食い荒らす」
ヴァニスが言葉を中断させる。残りの蛹也黄が左右から襲い掛かってきたのだ。その口元には鋭利な牙のようなものがちらりと覗いていた。
「B世界の人間がこの牙で噛まれれば、A世界の物理法則が流れ込み、大抵は死に至る」
二匹の猛攻を右に左に体を動かしながら躱す。その姿は、さながら暴れ回る牛を回避し続ける闘牛士のようだった。かつてヴァニスは家長であるパルテから権能を付与されたことで、超人的な膂力と走力を手に入れた。その結果、彼の身体能力は飛躍的に向上し、常人にはまず出すことの叶わない瞬発力や破壊力を軽々と発揮することができるようになった。
しかも今のヴァニスはA世界より重力が小さいと思われるB世界にいる――つまり、本来よりも体が相対的に軽くなった状態で戦うことができる。そのような彼が野良の化け物二体に対して遅れを取ることなど、まず有り得なかった。
「遅い」
まさに無双と呼べる戦士の強さと速さをもって、ヴァニスの拳が唸りを上げる。一瞬の間隙を突いた彼の右腕が、蛹也黄の柔らかな躰を粉砕した。最後の一匹は仲間たちが軒並み伸された光景を見て恐れをなしたらしい。ヴァニスは尻尾を巻くように路地の奥へ逃げていったそれを追うと、細い首根っこを掴み上げて躰を捕え、頭部を反対方向へ強引に捻じ曲げた。
「……犬に似ているから躊躇うだろうが、これは人の作った農作物を荒らし、家々を破壊し、挙句の果てには人を襲い食い尽くす、立派な害獣だ。奴らに同情しても無駄なことだぞ」
ヴァニスは首が曲がった蛹也黄を地に放り捨てながら言った。
すると瑠璃は地に横たわっていた別の蛹也黄を見つめた。ヴァニスが最初に倒した一匹だ。
「害獣……そっか。じゃあ、悪いやつだ」
瑠璃は言いながら、死にかけだったそれが何とか起き上がろうとしたところを、足の裏で踏み潰した。うびゅ、という奇妙な音が鳴って、蛹也黄の頭が地面に落としたトマトのようにぐちゃぐちゃになる。さらに瑠璃は嫌悪感を隠さない表情で見下げると、原形を留めなくなるまで何度も踏み続けた。ヴァニスはその姿を複雑な表情で見ていることしかできない。
正義の暴走。やはりそれは、確かに瑠璃の精神を蝕んでいる。とはいえ、ひとまず危機は去ったと見ていいだろう。ヴァニスは瑠璃がいるところへ歩み寄っていく。すると。
「――瑠璃」
ヴァニスが瞠目した。彼の視界の中で死角となっていた、路地の出口の裏から飛び出した蛹也黄が、背中を向けた瑠璃に襲い掛かろうとしたのだ。
「まだ一体残って……!」
瑠璃は振り返ったものの動くことが出来ない。体が固まっている。ヴァニスも足を踏み込むのが一瞬だけ間に合わなかった。瑠璃の頭蓋が蛹也黄の牙に抉られる――その直前に、蛹也黄の動きがぴたりと停止した。
「……なんだ」
瑠璃に噛みつこうとした蛹也黄は突然やる気をなくしたように俯いて、その場で立ち止まったまま動かなくなった。何が起きたのかはわからないが、ヴァニスはその隙を突いて始末する。
「瑠璃、怪我はないか」
「う、うん。大丈夫。……それよりさ、ヴァニス」
「なんだ」
「蛹也黄はこの道の出口から出てきたよね。それってもしかして」
途中で瑠璃の言わんとすることに察しがついて、ヴァニスは咄嗟に路地から出た。瑠璃も後に続く。その先に広がっていた光景を目にして、二人は絶句することしかできなかった。蛹也黄が、ヴァニスが相手取った数なんて鼻で笑い飛ばせてしまうような夥しい数の蛹也黄が、人々を襲っていた。彼らを出迎えたのは、まさに地獄と化した駅前の大通りだった。
「こんな、ことが」
大量発生した蛹也黄が人々を蹂躙している。その牙で皮膚を引き裂き、人肉を貪り、異なる物理法則を流し込まれた体を異形に変えている。
ヴァニスは即座に横を見た。最悪のタイミングだと気が付いたのだ。パルテの言っていたことを今更ながらに思い出す。彼女の暴走が最も強くなる時刻は今夜の十八時から――、
「こんな、ことが、あって、たまるか」
先ほどからぶつぶつと呟かれていた言葉は、ヴァニスによるものではなかった。
当該時刻。その瞬間、ヴァニスの右腕と、瑠璃の右腕が、交換された。
「――は?」
驚いて自身の腕を見やる。白く、綺麗で、細い。小さな手の甲は、一部だけ皮がめくれている。ヴァニスの肩からは、瑠璃の右腕が生えていた。隣にいる瑠璃の肩からはヴァニスの太い右腕が生えている。これはまさに二人の腕が交換されたとしか言いようのない現象だった。
だが瑠璃は微塵も戸惑った様子を見せない。それどころか彼女は自身の肩から生えたヴァニスの腕を一瞥するやいなや、にやりと口元を歪めて、
「ルリが、助けなきゃ」
墨色だった瞳を真っ赤な深紅色に染めて、飛び出していった。
「瑠璃!」
風が吹き荒れる。とても人が踏み込んだことで起こったものとは思えないほど強烈な風が。それだけでヴァニスは起きた事態を察知した。瑠璃の体には今、ヴァニスに付与された権能が宿っている。身体能力を向上させる彼の権能だ。そして二人の腕は当該時刻を迎えてすぐに交換された。つまりそこから導き出される答えは――二人の体にはコネクションがあった。
二人は繋がっていた。おそらく同じ知覚者だからだろう。生じるだけで珍しい知覚者が、短いスパンで二人も現れた。そのせいで二人の間には異常な親和性があった。だから当該時刻に瑠璃の腕とヴァニスの腕が交換され、それを通じて瑠璃の体にヴァニスの権能が流れ込んだ。
そして瑠璃は今、その権能を最大限に活用して、人々を救済しようとしている。
「瑠璃、待て、行くな――」
止めても、もう無駄だった。瑠璃は既に正気を失ってしまっていた。駅前に躍り出るやいなや彼女は右腕を振り回し、周囲にいた蛹也黄を駆逐している。人々を襲撃していたバケモノたちを殴り、握り潰し、蹴り飛ばす。傍から見ると、その姿は荒れ狂った猛獣のようだった。
だが真の地獄はまだ始まってすらいなかったことを、ヴァニスはそのあと知った。瑠璃は駅前にいた蛹也黄を殺し尽くすと、ゆっくりと周りを睥睨して、今度は目についた人を襲い出したのだ。自分たちを助けてくれていたはずの少女が一転して敵に回ったことで、人々は再び悲鳴を上げ始める。
「……そんな」
ヴァニスが崩れ落ちる。もう瑠璃は完全に狂っていた。家長の暴走による影響がピークを迎え、人と蛹也黄の、いや、善と悪の区別すら、つかなくなっていた。彼女は正義の人にもなれなかった。あまりにも一瞬の出来事すぎて、ヴァニスにはそのことを悔しんだり悲しんだりする余裕も残されていない。ただただ膝をついて、眼前で繰り広げられる殺戮を眺めている。
『処分対象だ』
突如として耳元で聞こえた声に、ヴァニスは我を取り戻した。パルテだ。
『本来ならB世界の家長の仕事だけど――今は使い物にならない。僕たちが代行する』
「処分……とは、パルテ様、まさか、瑠璃を」
『そうだ。――殺せ、ヴァニス。このままでは、B世界の無辜の民が大勢死ぬ』
彼の決定的な一言を聞いて、ヴァニスは息が止まるような錯覚に襲われた。
誰もいない、月の光も差さない路地の出口で、ヴァニスはただ一人、虚ろな顔で首を振る。
「……できません。私に瑠璃を殺すなど、できるわけがありません」
『あれは君の腕だ。君は大戦を経て、もう暴力はしないと誓ったはずだろう。その君の腕が今、何の罪もない人々を殺戮し続けているんだ。……ターシャの死を、忘れたのかい』
パルテの最後の言葉を聞いて、ヴァニスは決心せざるを得なかった。大戦の戦火に巻き込まれて殺された娘のことを思い出したのだ。もう、あんなことは、二度とごめんだったのに。
「……かしこまりました」
ヴァニスは唇を噛みながら立ち上がって、今もなお暴れ回る瑠璃のもとへ近づいた。右腕に力を込める。すると、交換されていた二人の腕が元に戻った。奪い返すこともできるらしい。
「……ヴァニス。返して、ルリの腕。ソレがあれば、ルリは人を救える」
「瑠璃。もう、やめてくれ」
「やっぱりルリが正しかった。悪は力の限りを尽くして消さなきゃならない。それが正義」
「違う。暴力をもって成し遂げられる正義は――」
「うるさいッ!」
瑠璃が常軌を逸した表情で怒鳴る。細い腕のまま、ヴァニスへ殴りかかろうとする。
ヴァニスはそれを流して、そのまま彼女の心臓を貫いた――表情を消し、感情を殺して。
瑠璃の命の灯火が、消える。華奢な身体が、抉られたコンクリートのうえに倒れ込む。
墨色の瞳は既に光を失っていて、――痛みもなく即死したことは明らかだった。
「……任務、完了しました」
ぼう、と耳元のイヤーカフが煌めく。
『お疲れ様、ヴァニス。……すまなかった』
ヴァニスは自身の拳を固く握り締めた。爪が皮膚に食い込んで、血が滲む。だが、心のうちに宿った激情の芽を摘み取るには、そんな手ぬるい痛みでは足りなかった。
『今、帰還の準備を整える。少し待機していてくれ』
パルテの通信が途絶える。本当に独りになったヴァニスは、おもむろに空を見上げた。たった四日間。短い滞在だった。それでも自分は、瑠璃と、……瑠璃と、何を為せたのだろう。
散々守るだの何だの嘯いておいて、結局最後はこれか。年端もいかない少女の命を身勝手に奪っておいて、涙なんぞ、流してたまるものか。自分は悪人だ。瑠璃に殺されるべき、悪人だったのだ。ヴァニスは何もかもに落胆したように、肩を落とした。
そのとき、彼の視界が奇妙に歪んだ。
「……なんだ?」
見えている世界がおかしい。ゆらゆらと蜃気楼のように揺らいで、焦点が合わなくなる。パルテからの通信はまだない。A世界に帰る合図というわけでもないだろう。これは一体――顔を上げた刹那、ヴァニスの視界に雷のような眩い光が差し込んで、彼は思わず両目を閉じた。
「……今のは」
ヴァニスが次に目を開けたとき、彼は客室のような部屋にいた。そして自分がいる場所をすぐに察する。ここはパルテが住んでいる屋敷だ。その証拠に、目の前のプレジデントチェアにはパルテが足を組んで腰かけていた。ということは、A世界に戻ってきたらしい。
「……パルテ様。私は」
「ああ、悪いね、来てもらって。実は君にお願いしたいことがあるんだ、ヴァニス」
「……………………は?」
パルテは、まるで何も知らない体を装っているかのように、同じ言葉を口にした。