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翌日、瑠璃は高校へ行くと言った。ヴァニスも途中まで一緒に来るかと誘われたので、彼は提案に乗ることにした。目下、ヴァニスがすべきことは瑠璃の調査だ。家長の暴走が彼女にどのような影響を与えているのか、それは瑠璃という調査対象についてよく知っていなければ判断しづらい。彼女がどんな人間であるのかを日常生活のなかから窺い知る必要がある。だからヴァニスは、家から高校までの道のりを制服に着替えた瑠璃と共にすることにした。
瑠璃がどのような人間なのか。それを知るためにと言ったが、そういう意味では、この十七日の朝は十分すぎるくらいに濃密な時間だった。まず瑠璃は通学に利用する電車のなかで、優先席に腰掛けていた中年の女性に、杖をついた高齢の女性と席を代わるよう頼んだ。電車を降りたあとは、道行く人に声を掛けられ区役所へ案内をした。つまりは人助け、社会貢献だ。
昨晩、瑠璃が言っていたことを反芻する。正義の人だった両親のようになりたい。弱きを助け悪をくじく――まさにその主義に恥じない振る舞い方を、彼女は今朝してみせたわけだ。
「瑠璃」
登校中、道すがらヴァニスが呼びかけると瑠璃は「なに?」と顔だけこちらに向けた。
「今更かもしれないが、無理して高校へ行く必要はないと思うぞ。お前は今、家長の暴走の影響を受けたことで精神が不安定になっている。暴走が収まるまで家で過ごしたほうが安全だ」
「うーん……」
瑠璃は目線を外して少し考えたあとで、
「確かにそうかもしれないけど、でもルリ、学生だし。学校は行かなきゃだめだよ」
そう、当然のように言ってのけた。同時に彼女は、まあ高校は義務じゃないけど、と笑う。
「でもさ、ルリ、ちゃんと勉強して、大学まで行って、普通に就職したいんだ」
瑠璃は上空を見上げていた。秋晴れの空には、いくつか真白な雲が漂っている。
それはまるで、亡き両親がいる天を仰ぐかのような仕草だった。
「お父さんもお母さんも、ちゃんと勉強して、ちゃんと働いて、ちゃんと普通に生きてた。普通に生きるって実はすごく難しいことなんだよ。今のルリは普通じゃないから、よくわかる。今のルリには、家族も、大きな夢も、お金も、友達も、何もなくて……普通じゃない」
声を落として言う。彼女が言ったのは、おそらく家長による介入を受けたことではなかった。きっと、そうなるよりもっと前からの、瑠璃自身が置かれた環境について言及しているのだ。
「やりたいことが明確にあるわけじゃないけど、強いて言うなら、普通に生きたい。朝も夜も働かないと高校に行けないなんて……こんな生活をしてたら、きっと普通にはなれない」
だからこんな状況でも学校に行くの。ヴァニスは、そう言って高校の正門を抜けていった瑠璃の背中を見送った。普通とは何なのか。その難題に、ヴァニスが代わりに答えてやることはできない。だが、彼女が普通を追い求めること自体は、悪いことではないはずだった。
彼女がそうしたいと言っているのだ、高校には基本的に行かせてやったほうがいいだろう。それなら今後役に立つことがあるかもしれないと考えて、ヴァニスは周辺を探索することに決めた。高校と最寄り駅の間にはそれなりに距離があり、生徒たちは住宅街の近くを歩いて通学している。しかし特に目ぼしいものは見つからなかった。それこそ普通の通学路という感じだ。
既に登校する生徒も見かけなくなって久しい。朝でこれなら昼間は行き交う人もまばらなのだろう。そろそろ帰ろう、とヴァニスは駅に向かおうとする。だが彼の足を、進行方向から歩いてきていた女子高生の集団が引き止めた。制服を着た四、五人の生徒の群れが近づいてくる。
「あー、マジでだるい。ねえ、やっぱりこのままサボっちゃわない?」
「ええ、行こうよ。もう登校時間も過ぎちゃってるし……」
「えー、さすが絹ちゃん、えらいなあ」
「あはは……」
すれ違う際に集団の真ん中にいた長身の女子生徒と目が合った。茶色い短髪。貼りついたような笑顔が、ほんの少しの間だけ剥がれ落ちる。だがその素の表情もすぐに霧散して、彼女が目を逸らしたあとには、もとの取り繕った仮面のような笑顔が取り戻されていた。
帰宅後、ヴァニスはパルテに報告を済ませ、瑠璃の自宅周辺も探索した。知らない世界の知らない土地というのは新鮮で、数世紀前の探検家と同じ気分を味わっているような感じがした。そうこうしているうちに瑠璃が帰ってきて、彼女はろくに腰を落ち着けることもしないままバイトへ出掛けていった。
〇
どうも昨夜から瑠璃の様子が変だった。雰囲気が刺々しいというか、どこか機嫌が悪いような感じがしたのだ。高校から戻ったときは普通だったから、昨日のバイトで何かあったのかもしれない。だが尋ねても正直に答えてくれそうにはなかったので、結局わからず終いだった。
「こんな朝早くから、どこへ行くのだ」
「新聞配達。ヴァニスはまだ寝てなよ」
「配達……それなら私も行こう。役に立てるかもしれない」
ヴァニスも仕事を手伝うことにした。何せ今の状態では穀潰しでしかない。いや、食事は取っていないから正しくは居候か。とにかく他人様の家で、しかも娘と同じくらいの女子高生の家で惰眠を貪るだけなんて、彼の沽券にもかかわる問題だったのだ。
この世界に来たときから感じていたことだが、どうやらB世界は重力が比較的小さいらしい。その証拠に、A世界にいるときより体が軽かった。ヴァニスは権能を使用した持ち前の走力を遺憾なく発揮して、瑠璃の指定した配達コースをあっという間に回りきってしまった。
「じ、十分……いつもは一時間くらいかかるのに。歩合制で良かった……」
「次はもっと配達する量を増やしても構わないぞ」
「そうだね。一時間が十分だから、作業効率は六倍……あ、でもヴァニスの仕事だから……」
瑠璃に楽をさせたくてやっているのだから、ヴァニスの取り分なんて考慮する必要はないのだが。どこまでいっても根は真面目なのだろう。几帳面で、正義感が強くて、そして何より優しい。それが瑠璃という少女だ。目を輝かせながら賃金の計算をする彼女を、ヴァニスは微笑ましげに眺めた。これで少しは機嫌を直してくれていたらいいのだが――そんなヴァニスの願いは、遠くから瑠璃に突然声を掛けてきた人物によって、呆気なく砕かれることになった。
「瑠璃ちゃん! おはよう!」
急に呼名されたからか、瑠璃が肩をびくっと震わせる。彼女と同じようにヴァニスも目線をやると、――彼は道路の奥から走ってきていた者が誰であるのかをすぐに察して、近くの住宅の外壁に身を潜ませた。あれは確か昨日、高校に遅れて来ていた絹という女子生徒だ。制服ではなくスポーツウェアを着用しているが、あの背の高さと明るい茶色の短髪はよく覚えている。
ヴァニスはあのとき姿を見られている。そして絹の気さくな接し方からして、おそらく彼女は瑠璃に近しい人物だ。それならばここは隠れてやり過ごしたほうがいいと考えた。
「絹ちゃん。……おはよう」
やはり彼女が絹であるらしい。しかし、とヴァニスは外壁の裏に隠れながら、瑠璃が醸す雰囲気の微妙な変容を感じ取っていた。つい先ほどまで気を良くしていたはずだったのに、瑠璃は絹を目にしてからというもの、昨夜の不機嫌な感じに逆戻りしていたのだ。
ということは昨夜、バイト中に絹と何かあったのか。目を細めて観察するも、読み取れない。
「今日も配達? 大変だね……私も手伝えたらいいんだけど」
「別に、いいよ。そんなに大変じゃないし。絹ちゃんこそ、部活忙しいんだってね」
「あー、今度の日曜、練習試合でさー。また東高とやるの。去年、県大会一位だったとこ」
瑠璃が黙り込む。彼女の俯いた姿勢は、まるで絹と目を合わせないようにしているかのようだった。沈黙が二人の間に流れたあとで、瑠璃は「じゃあ」と話を終わらせにかかる。
「もう帰るね。学校あるし」
「えっ、あ……うん。また学校で」
瑠璃の強引な態度に、絹は戸惑った様子を見せた。ヴァニスも同じだった。あれでは無視とほとんど変わらない。やはり昨日の夜に何かがあったことは間違いないのだろう。今の瑠璃は一種の暴走状態にある。家長から介入を受けているせいで些細なことでも大きな刺激となる可能性があるのだ。もっと慎重に事を運ぶ必要があるか――そう考えながら瑠璃を追いかけると、
「ねえ、瑠璃ちゃん。その人、誰」
ヴァニスの背中に絹の声が飛んできて、逃げ場を失ったように彼の足が止まる。絹に見られたのだ。彼女が去ったのを確認して外壁から姿を現したのだが、おそらく瑠璃の様子を案じて引き返してきたのだろう。恐る恐る振り返るとそこには、
「……絹ちゃん?」
人殺しのような面構えをした絹が、立っていた。先ほどの明るく朗らかな印象はすっかり消えており、見た者すべてを怯ませるような冷たい眼光が二つ鎮座している。隣にいた瑠璃も同じことを思ったのだろう、絹が放つ言葉にならない威圧感に気圧されたように名前を呼んだ。
だが絹の体から放たれる並々ならぬオーラが収まる気配はない。彼女はヴァニスを指差す。
「誰、その男の人。瑠璃ちゃんの知り合い? 友達? まさか彼氏とかじゃないよね?」
瑠璃が慌てたようにこちらを見る。そこには黒髪碧眼の美青年がいた。ヴァニスは確かに実年齢より若く見られがちだが、それを差し引いても彼氏というのは飛躍しすぎではないのか。
さすがに真実は明かせない。瑠璃は目を泳がせると、何とかこの場を取り繕おうとした。
「あ、あー……この人は、親戚の……叔父さん」
「叔父さん……初めて聞いたけど。いたんだね」
「うん、まあ」
「なんで隠れてたの?」
「えっ」
「なんで隠れてたのって。さっき私と話してるときも一緒にいたんでしょ?」
「え、えー……」
これ以上は厳しいか。ヴァニスはそう判断して、瑠璃を庇うように一歩前へ出た。
「私のせいで、すまないな。二人の邪魔をすると悪いと思って、距離を置いていたのだ」
「別に構わないけど。目が青いけど、ハーフとか? 口調も変わってるよね」
「……まあ、そんなところだ」
「ふうん……」
「あー、瑠璃の友達……だったな。瑠璃のことを宜しく頼む」
ヴァニスの作った硬い笑顔に、絹の射貫くような目つきが衝突する。その目に見えない鍔迫り合いは、絹が吐き出した冷たい溜め息を合図に、ようやく終わりを告げた。
「……わかった。イケメンだから認めるけど、これでイケメンじゃなかったら信じなかったから。瑠璃ちゃんの家系だもん、親族全員イケメンか美人じゃないと絶対ありえない」
「は、はあ」
何を言っているのだろう。てんでわからない。ただ唯一確かであるのは、絹の瑠璃に対する執着心が、AB両方の世界でも類を見ないほどに凄まじいということだった。
有難いことに絹はランニングに戻っていって、ヴァニスと瑠璃は再び帰り道を歩き始めた。
「はー……びっくりした。なんか変な設定作っちゃったけど、良かったの」
「まあ仕方ないだろう。……瑠璃、昨日の夜に何かあったのか」
「なに。何でそんなこと聞くの」
ここで踏み込むのはまずかったかもしれない。ヴァニスが尋ねるやいなや、瑠璃は先ほどまでの棘を含んだ空気感を取り戻した。一気にむっとしたような面持ちで、早足になる。
「いや……どこか機嫌が悪いように見えてな。先ほど絹と話したときもそうだった」
「別に、そんなことないし。ヴァニスが気にすることじゃないでしょ」
「おい、瑠璃」
ヴァニスの制止も聞かず、瑠璃は走り出して先に行ってしまった。B世界の家長の存在を知覚したことで、瑠璃は家長の暴走に巻き込まれている。その間は精神が乱されやすくなるし、それに応じて情緒も不安定になる。しかも今回に限っては、知覚者が思春期真っ只中の学生と来た。瑠璃の心の状態は、こちらが想像しているよりもっと悪いのかもしれなかった。
その日の夕方、ヴァニスの嫌な予想を裏付けるように、似たようなことが起きた。ヴァニスが部屋にいると、外から何か揉め事のような声が聞こえてきたのだ。男と女が言い争っている声だった。気になって外へ出てみると、アパートの敷地の外で瑠璃が見知らぬ男を物凄い剣幕で睨み付けていた。ヴァニスはすぐに階段を下りていく。
「瑠璃、何があった。彼は」
「……ヴァニス。出てこなくていいのに」
瑠璃は迷惑そうにヴァニスを流し見て、前に立っていた男の足元を指で示した。
「この人が煙草をポイ捨てしたの。しかも火がついたまま。危うく火事になるところだった」
「煙草……」
ヴァニスが目線を落とすと、確かに雑草の中に吸い殻が捨てられていた。
「だから注意したら、なんか突っかかってきて。あなたが悪いのは明らかでしょ」
「うるせえな。俺は知らねえって言ってんだろ。言いがかりつけやがって、ガキ」
「はあ……? ルリはあなたが煙草をここに捨てるところを見たの。今更なにを、」
「だからそれが見間違いだって言ってんだ。偽善も大概にしろよ」
「なっ……!」
「待て、瑠璃」
男の舐めた態度に手が出そうになっていた瑠璃を制止する。ヴァニスは二人の間に割り込むようにして体を動かすと、あくまでも紳士的な対応を貫いた。
「引き止めてすまなかった。私が代わりに謝るから、どうか収めてくれ」
「ヴァニス、ルリは本当に見て……!」
「鬱陶しいな、このガキ――」
男のほうからも手が出かけたのを見て、ヴァニスは咄嗟に相手の右手首を掴んだ。すると男は軽く目を見開いたあとで、抵抗する気が削がれたように肩を脱力させる。ヴァニスが軽く力を込めたことで、向こうに微弱な電流のような痛みが走ったのだ。それは、脅迫に近かった。
「……チッ。仕方ねえ」
男はヴァニスの手を振りほどくと、ずかずかと大股で帰っていった。
危険が去ったのを確認して、後ろにいる瑠璃へ振り返る。
「無事だな」
「……何で止めたの」
「取り返しのつかないことになっていたかもしれない」
「別に、頼んでない」
「お前を守ることが私の役目だ」
「だから頼んでないって」
「私が決めた」
「……っ」
瑠璃は納得していなかった。彼女のうちに宿った激情は余りにも重たすぎて、それは形ある言葉になるよりも前に、瑠璃を体ごと押し潰してしまっているようだった。
ヴァニスはそのもどかしそうな様子を見て、目を閉じながら息を吐く。
「……瑠璃。やはりお前は自己を見失いかけている。あまり無理はするな」
「……多すぎるんだよ」
「多い? 何がだ」
「悪人が。帰る途中でも、ガラの悪い人たちが中学生に絡んでた。本当、何でこの世界って、嫌な人が多いんだろう。真面目に、普通に、ちゃんと生きてる人が、いつも馬鹿を見る」
その気持ちを理解できないわけではなかった。確かにヴァニスだって、そう思うことはある。
「……それでも、お前がすべて背負う必要はない。明日は暴走のピークだ。今は休め」
ヴァニスはそう諭すように言って、瑠璃を家のなかへ入らせた。瑠璃は着実に暴走の影響を受けている。もとから有していた正義感が膨張して、冷静さを保てなくなっているのだった。