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「お呼びですか、パルテ様」
屋敷のなかの広い部屋で、ヴァニスは跪いていた。カルテンの毛皮を使用した上質な絨毯。彼の前には焦げ茶色の長机があって、その奥の落ち着いた色合いをした黒のプレジデントチェアに、もう一人の男が腰掛けている。彼はパルテ――このA世界の家長だった。
「ああ、悪いね、来てもらって。実は君にお願いしたいことがあるんだ、ヴァニス」
パルテは椅子から立ち上がると、畏まる必要はないと指示を出した。ヴァニスはそれに従って、自身の仕える家長と対等に目線を合わせる。短めに切り揃えられたブロンドヘア。パルテは高齢男性の見た目をしていて、肌には年相応の皺が刻まれてはいるものの、鋭い目つきに整った鼻梁、そして何より全身から醸し出す瑞々しい覇気から、実年齢よりも若い印象を受けた。
ヴァニスは家長という家産世界のシステムについて詳細なところまで知り尽くしているわけではないから、彼の外見が家長に就任したときからのものなのか、はたまた普通の人間だったころからそうなのか、よくわからなかった。
「お願いしたいこと、とは?」
「うん。実は先日、隣のB世界で家長の暴走を感知してね。家産世界平和維持条項第3条に則って、僕は家産世界における非常事態として動かなくてはならない。ただ、僕もA世界の家長としての仕事が忙しくてね。ちょっと手が回らないんだよ。だからさ、ヴァニス」
「……家長名代として私がB世界に行く。そういうことですね」
「さすがヴァニス、話が早い! いやあ、優秀な代理がいる僕は幸せ者だね」
はあ、とヴァニスは気付かれない程度に溜め息をつく。彼はいつもそうだ。家長とは思えないほど楽天家で、下らない冗談を吹っかけてはヴァニスを苛立たせるお調子者。この道化のような男が過去に暴走して大戦を引き起こしたのだから、人が持つ潜在能力は甘く見られない。
と、パルテは少し度が過ぎたと思ったのだろう、咳払いをして話を戻した。
「僕が感知した限りだと、今回の件にはB世界の瑠璃という少女が関与している可能性が高い。歳は十七、高校二年生だ。ああ、こっちで言う高才教育機構にあたるね。まあそのへんは文化適格の段階で僕が手回しするから、心配しなくていい。制服ジェーケーを楽しむといいよ」
「表情が不適切な発言であることを物語っていますが目を瞑るとして、知覚者は学生ですか。それは何というか……不憫ですね」
「まったくだ。若い時期なんて、ただでさえ自己同一性の確立に苦しむっていうのにね。知覚者を暴走させる家長側の僕が言えたことじゃないけど、可哀想だよ」
「暴走が始まってから、どのくらい経過しているのですか」
「三日が経った。今はB世界のグレゴリオ暦で十一月十六日。家長の暴走は約一週間続くから、瑠璃の暴走がピークを迎えるのは十九日だ。というわけで、君の滞在期間は二十日までだね。まあ、あまり長居しても物理法則が蓄積して体の不調に繋がるし、そのくらいがベストだろう」
「家長は他世界の物理法則の影響を受けないのでしょう。であれば名代の私も同じなのでは」
「まあそうなんだけど、念には念を入れよってこと。あ、これB世界のことわざね。確かに君は家長名代だから一般人よりは耐性があるけど、それでも無用な流入は避けるように。あと留意すべき点は……うん、ないかな」
ないのか。どこまでいっても適当な家長である。これで仕事はできるというのだから驚きだ。
するとパルテはヴァニスの後ろに回り込んで、背中に向けて手のひらをかざした。早速B世界に行く準備を始めたのだ。
「それじゃあ、洞穴を作るよ。突然で申し訳ないけど猶予がなさそうでね。いいかい」
「構いません」
「携帯食料は持った? あとで追加分を送るけど」
「問題ありません」
「トイレは済ませてある?」
「お戯れは程々にしてください」
ヴァニスの声が怒気を交えたものになったので、パルテはごめんごめんと軽く謝った。ちなみに彼が今作ろうとしている洞穴は、他世界に行くために使用する穴みたいなものだ。ワームホールのようなものと言って差し支えないだろう。洞穴作製はかなり難しく、熟練した家長でも気付かないうちにミスをしてしまうことが多々あるらしい。
パルテが目を閉じて集中したのに合わせて、ヴァニスの体の周辺に力場が生じる。すると途端に頭が重くなって、熱を出したときの眩暈に似た感覚があった。ぶつぶつとパルテが何かを呟く。それはすべて、A世界とB世界を繋ぐために用いる「設定」だった。
「言語調整、荳也阜B-コード078。文化適格、同。洞穴規格、縦横20クラータ。洞穴位置、荳也阜Bの座標を代用。北緯36度、東経140度……ヴァニス、いいかい」
「はい」
「B世界、星名は地球、国名は日本。君がこれから向かうのは――その首都、東京だ」
その瞬間、ヴァニスの意識が途絶える。いや、実際に途絶えたわけではない。一瞬にして視界が暗闇に覆われたから、そう錯覚しただけのことだ。どこかからパルテの声が聞こえてくる。
「伝え忘れてた。瑠璃にも何らかの権能が付与されている可能性が高いから、注意するように」
留意すべき点、あるじゃないか。ヴァニスは自身の主人の適当さに辟易しながらも、正常な視界を取り戻した。立ち眩みのような眩暈が収まって、体の感覚が徐々に取り戻されていく。
「ここは……」
空はオレンジ色に染まっていた。既に夕暮れ時らしい。見える範囲には幾つか建物があって、どれも店舗であるようだった。そのせいか人通りが多い。ヴァニスは自身の左耳に意識をやる。
「パルテ様、聞こえますか」
『――接続は問題ないみたいだね。良かった。無事、東京に到着だ』
ヴァニスの左耳には極小サイズのイヤーカフが装着されている。これはA世界の主なエネルギー資源である鉱石から作られたもので、A世界にいるパルテとB世界にいるヴァニスを繋ぐ通信機器の役割を担っていた。これを身に付けているだけで、聴覚だけに留まらず視覚までもがパルテと共有できる。イヤーカフを監視カメラのように使うことができるのだ。彼も忙しいため常時「視る」ことは叶わないが、こうしてヴァニスに指示を出すことくらいは可能だった。
『ヴァニス、あれが瑠璃だ。二時の方角、制服を着た黒髪の小柄な少女。追跡しよう』
「今、店に入った者ですか」
『ああ。あとの行動は君に任せる。僕が言うのもなんだけど……神の御加護があらんことを』
パルテの視覚共有が途絶える。完全にヴァニスに一任されたわけだ。……さて、どう動くべきか。彼は周囲の様子を慎重に確認したあと、瑠璃のあとに続いて同じ店に入っていった。
瑠璃が入ったのはホームセンターだった。女子高生がこんなところに何の用だろう。ヴァニスは店内を捜索したあと瑠璃を見つけて、――少し距離を取った。彼女は知覚者だ。既に家長の暴走の影響を受けているはず。であれば下手に接触するのは避けたほうがいいと考えたのだ。
瑠璃はしばらく店内を物色したあと工具売り場へ移動した。しかし肝心の工具類には微塵も興味を示さず、彼女はフロアの隅に置かれていたロープを手に取った。そんなもの何に使うつもりだと思ったのだが、ヴァニスは結局、瑠璃が丈夫そうなロープを購入するのを見届けた。
瑠璃は店を出て自宅へ向かったようだった。やがて二階建ての古い木造アパートの前で立ち止まり、敷地の中へ入っていく。到着したらしい。ヴァニスはアパートを囲う塀の外に身を隠し、瑠璃が鍵を開けて部屋のなかへ入るところを監視した。
扉が閉まる音がしたあと、ヴァニスは幅の広い鉄骨階段を昇り、瑠璃の部屋の前で足を止めた。耳をそばだてる。木造だからか辛うじて中の音が聞き取れた。荷物を下ろす音。床板が軋む音……聞こえなくなる。畳だろうか。しゃっ、とカーテンを勢いよく引っ張ったような音がした。何か物を引きずっている。机か椅子を移動させているのか。しかし、音だけでは読み取れる情報量に限度がある。窓も閉められているし、磨りガラスで中の様子は確認できない。
それに、とヴァニスは脳内で思考を巡らせる。少し前から音が止んだ。帰ってすぐ床に就いたわけでもあるまい。急に生活音が聞こえなくなるとは、どういうことなのか。やはり家長によって何らかの介入を施されているのだろうか――ヴァニスがそう結論付けようとしたとき。
「――なんだ」
雷に打たれたようにヴァニスが顔を上げる。瑠璃の部屋から不審な声が聞こえてきたのだ。それは、うー、うー、と呻くような声だった。普通であればまず耳にすることのない苦しそうな声は、加速度的にその切迫度合いを増していく。やがてそれが首を絞められた人間が発する類の呻き声だと悟った瞬間、ヴァニスは居ても立っても居られなくなって、部屋の扉を開けた。
「……な」
ヴァニスは言葉を失った。部屋の中で、瑠璃が首を吊っていたのだ。
「あう、ええ」
瑠璃が何かを言った。呂律が回っていない。白目が盛り上がっていて、口の端からは唾液が垂れている。窒息寸前であることはすぐにわかった。ヴァニスはすぐさま助けに行こうとした。だがそこで、先ほどの自身の思考が邪魔をする。
――家長の暴走の影響を受けているなら、下手な接触は避けるべきだ。
だがヴァニスは意識的に頭を振って動いた。彼には娘がいた。それも瑠璃と同じくらいの。そんな年端もいかない少女が自殺するところを見て見ぬふりするなんて、できるはずなかった。
「いてっ」
ヴァニスが縄を切断すると、重力に従って落下した瑠璃は尻を打った。まだ苦しそうだが、ちゃんと息はある。ヴァニスは人知れず安堵の溜め息を吐き出して、瑠璃をじっと見下ろした。
「あり、がとう」
彼女の素顔をじっくり見たのは初めてだった。肩まで伸びた黒髪、愛嬌のある丸い墨色の瞳。すっと通った鼻筋と、薄幸を象徴するような薄い唇に、福を感じ取れない小さな耳たぶ。高校生にしては発育が悪く、かなり身長が低いうえに、体のラインも直線ぎみだった。綺麗な顔立ちをしてはいるが、どうも生に対する充足感のようなものが感じられず、ひどく疲れているように見える。まあ窒息しかけたあとで元気な表情をしろというほうが、無理があるか。
「初めまして、瑠璃。私はヴァニス・ペギーナ。他の世界から、来た」
瑠璃を必要以上に困惑させるのもそこそこにして、ヴァニスは彼女に家産世界のことを一通り説明した。家産世界というシステム。家長という世界を所有する者の存在。知覚者の存在。ヴァニスの目的。瑠璃の暴走のタイムリミット。こうして既に接触してしまったのだ、この際すべて知っておいてもらったほうが、こちらとしても動きやすくなると判断した。
瑠璃は説明を受けて頭が混乱したらしい。おもむろに冷蔵庫を開けると、料理を始めた。
「何か作るのか?」
「野菜炒め。余り物で作ったやつだけど、おいしいよ。ヴァニスの分も作ってあげる」
「ああ……すまない。私はB世界の食物は摂取できないのだ。物理法則が違うから」
「え、そうなんだ。よくわかんないけど、先に聞いておいてよかった」
危ない危ない、と瑠璃は材料の半分を仕舞い直す。彼女は一人分の野菜炒めを作ったあと、居間に移動して、ちゃぶ台の近くに腰を下ろして食べ始めた。
「瑠璃、知覚者には家長から権能が付与される。お前にも何らかの力が備わっていないか」
「権能……うーん、今のところはなさそうだけど。ルリも何日か前に家長って存在がいることを突然知っただけで、あと変なことと言えば、今日自殺しようとしたことくらいだよ」
ふむ、とヴァニスは顎に手を添えて考える。瑠璃にはまだ権能が宿っていないらしい。それとも単に無自覚なだけか。あるいは気付いているが隠しているのか。彼女の動向を探るという意味もあって、ヴァニスは自身に付与された権能についても話した。
彼はそのあと、A世界の家長であるパルテの代理として来たこと、A世界がB世界と似た世界であることなども話した。瑠璃も完全にとまではいかなくとも少しずつ理解できているらしかった。これなら大丈夫だろう。長居しても悪いと、ヴァニスはお暇することにした。
「それでは、私は一度帰る。また明日、様子を見に来るが構わないか」
「え、いいけど……もう帰っちゃうの?」
「ああ。パルテ様が手を回して、この世界に滞在するためのホテルを取ってくれている」
「そうなんだ……便利だね。そっか。もう、行っちゃうのか」
瑠璃はどこか残念そうな顔をした。しかし彼女からしてみたら、ヴァニスは会ったばかりで家産世界だとか家長だとか意味の分からないことを言ってきた男だ。普通であれば警戒して一秒でも早く立ち去れと追い出してきそうなものだが、あろうことか瑠璃は彼を引き止めた。
「あ、あのさ。よかったら、うち使いなよ。ホテル泊まるのもお金かかるしさ」
「……お前は無茶苦茶なことを言っているぞ。今日会ったばかりの怪しい男を泊めるのか」
「いや、だって、ルリのこと調べたいんでしょ。だったらルリの近くにいたほうがいいし」
「まあ、それはそうかもしれないが。だからと言って、何故そこまでして引き止める」
お前にメリットはないだろう。ヴァニスが放った言葉に、瑠璃は一瞬だけ口をつぐんだ。
「……多分、ちょっと寂しいのかな。ルリ、この家で一人だから。お客さんが来たのも初めてなんだよ。それに、ほら、自殺だって止めてもらったし。本当に、命の恩人だから」
ヴァニスは迷った。彼女の厚意にあずかるべきか。確かに監視対象である瑠璃をこの家で見張っていられるというのは、これ以上ない利点だ。だが、だからと言って、年頃の少女のプライバシーを破っていいとも思わない。何しろヴァニスは人の親だ。そのあたりは気になる。とはいえ黙っていても埒が明かないので、ヴァニスはずっと疑問に思っていたことを尋ねた。
「この家には瑠璃しか住んでいないのか。親や兄弟……家族はどこにいるのだ」
質問して即座に後悔した。瑠璃の表情が険しいものに変わったのだ。触れてはいけない部分に触れた感覚があった。ヴァニスはすぐ訂正しようとしたが、意外にも瑠璃は素直に答えた。
「兄弟はいない。一人っ子。親は……二年前に死んじゃった。仕事中に、二人とも」
「な……」
二年前。そのワードが、ヴァニスの心を揺さぶった。それは、ヴァニスが娘を、
「最初は親戚の家で暮らしてたの。でも合わなくて。意地悪な人だった。家出を繰り返してたら追い出されて、色んな所をたらい回しにされた。それで、ここで一人暮らしを始めたの」
「だからお前は、一人で……生活費用はどうしているのだ」
「遺産があるけど、足りない分はバイトで賄ってる。ハンバーガーのお店と、新聞配達」
この世界にも、瑠璃のような子供が存在する。その事実は、A世界の大戦で多くの戦災孤児を目にしてきたヴァニスの胸を、強く締め付けた。そして何より彼は、自身の娘と瑠璃を重ねてしまっていた。
「ルリね、お父さんとお母さんみたいになりたいんだ。あの二人はいつも優しくて、強くて、正しかった。正義の人だったの。弱い人の味方をして、強くて悪い人を懲らしめてた。だから……お金も、家族も、ルリには何もないけど、二人みたいに、ちゃんと正しく生きたいの」
彼女が本気で言っていることは明白だった。生への充足感。先ほど自殺から助けたときは感じられなかったそれが、今は瑠璃の全身からありありと放たれている。それを見て、ヴァニスは思った。彼女を死なせてはいけない、家長の暴走などに巻き込んではならない、と。
「……わかった。お言葉に甘えて、この家に泊めさせてもらうとしよう」
「本当? 良かった。じゃあルリ、お風呂入ってくるね。覗かないでよ」
「今すぐホテルに帰ってもいいのだが」
「冗談だよ、ヴァニスは硬いなあ。なんかルリみたい。……あれ、体操服どこやったかな」
瑠璃が通学用の鞄に手を突っ込んで、ごそごそと何かを探している。
その小さく儚い後ろ姿を見て、ヴァニスは心密かに気持ちを固めていた。
自分が、瑠璃を守るのだ。