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「瑠璃。今日は学校には行くな」


 支度を済ませた瑠璃を引き止めたのはヴァニスだった。瑠璃はドアノブに置いていた手を離して、自身の左頬を撫でる。ざらざらした感触。昨日の傷を手当した際に貼ったガーゼだ。


「大丈夫。体は何ともないから。それにルリは学校に行きたい。普通に過ごしたいの」


「……そうか」


 あまり強く言ったつもりはなかったのだが、ヴァニスは呆気なく引き下がった。物分かりのいい父親みたいだ。それじゃあ、と気を取り直して、瑠璃は家を出た。

 秋の空は晴れ渡っていた。抜けるような青空が広がっている。気温も涼しげで心地いい。一年中このくらいなら過ごしやすいのに、と瑠璃は思う。電車はいつもより空いていた。土曜日だからだろう。瑠璃が通っている高校は都立だが、土曜日にも午前中だけ授業があった。

 瑠璃が教室に到着したときには、既に絹が来ていた。ちら、と目が合う。瑠璃はすぐに逸らしたつもりだったのだが、しっかり彼女に見られてしまったらしい。絹は大事件でも起きたかのような慌てぶりで、瑠璃の座っている左隅の座席まで駆け寄ってきた。


「瑠璃ちゃん、どうしたの、その傷」


「あー……おはよう、絹ちゃん」


「お、おはよう。いや、そうじゃなくて。大丈夫?」


「大丈夫。ちょっとぶつけたっていうか、あはは」


「……本当に? そんなところ、ぶつけるかな」


 瑠璃の誤魔化すような笑いは通用していないみたいだった。絹は机のうえに両手をついて、じっと瑠璃の濁った瞳を見つめている。まるで事件性があると踏んでいる刑事のような目つきの鋭さだ。最も、彼女の勘は正しいのだが――瑠璃は俯きながら、左手で右腕を隠した。


「……本当だよ。ほら、ルリって抜けてるところあるし」


「そうかな。そんなことないと思うけど。……痕にならないといいね」


 うん、ありがとう。目線を合わせないまま言う。少しでも気を緩めたら泣き出してしまいそうだった。痕にならないといいね。絹はそう言った。昨日、瑠璃が何度も夢中で蹴りつけたあの高校生は、今頃どうしているだろうか。どのくらい踏みつけたのかも覚えていない。何か怪我や後遺症が残っていたら。もう取り返しのつかないことになっていたら。どう足掻いても消すことの出来ない痣を、瑠璃は既に背負ってしまったのかもしれなかった。

 そのことを考えたら怖くて、でも誰にも、ヴァニスにだって打ち明けることはできなくて、昨日は何もかも忘れようと思ってすぐに寝た。だが結局、朝になって目覚めてしまえば、同じことの繰り返しが待っているだけだった。瑠璃は正義の人でありたかった。両親がそうだったから、自分も同じようになろうと決めていた。だからたくさん人助けをした。人のためを思って、人のために行動した。それなのに、瑠璃は人を傷つけてしまった。暴走した家長による介入があったとはいえ、自分が本気で悪人は消すべきだと考えたのが恐ろしくて仕方なかった。

 瑠璃の心は揺れていた。自分と、暴走した自分。どちらが本当の自分なのか、わからなくなってきていた。最もあってはならない暴力という手段に訴えかけたことで支えを失って、それこそ首吊りしたときのように、ぷらぷらと自分自身を見失いかけていたのだ。言ってしまいたい。昨日あったことを。絹なら助けてくれるだろうか。言えたら少しは楽になれる気がする。


「絹ちゃ――」


「ねえ、絹ちゃん」


 だが、生まれかけた瑠璃の勇気は、その差し込むような一言で再び萎んでいくことになった。


「その子と関わるの、やめたほうがいいよ。きっと忙しいだろうから」


 瑠璃が顔を上げたときには、あの女子生徒がいつの間にか隣の席に座っていた。絹の取り巻きだ。昨日、瑠璃を校舎裏に呼び出した四人のうち一人。取り巻きのなかでもリーダー格の女。


「絹ちゃんも知ってるでしょ? その子、家のこと全部一人でやってるんだよ」


 ぐっと、瑠璃の内臓が焼け付くような感じがした。故意に注がれた悪意に反応したのだ。


「高校生なのに一人暮らしなんだよね。自分で稼がなきゃいけないからバイトもしなきゃなんない。ほんと大変だよね。すごいよ。人として尊敬しちゃう。でもさ、やっぱり私たちみたいな甘い汁ばっかり吸って生きてる人間からしたらさ、ちょっと価値観が合わないっていうか」


 べらべらと下らない言葉を並べ立てて喋り続ける女子生徒を、瑠璃はどんな目で見ていたのだろう。自分じゃわからなかった。鏡を取り出す余裕などないし、携帯も持っていなかったから。何より、こんな状況で、瑠璃が冷静さを保っていられるわけがなかった。


「だからさあ、もう瑠璃ちゃんと話すの、やめない? 私たちも最近ちょっと嬉しくなかったっていうか、絹ちゃん、よく瑠璃ちゃんに話しかけてるから嫉妬しちゃったっていうか……」


 こういう人間は、いつもそうだ。本当に、吐き気がするくらい、自分を棚に上げて相手を貶めることに長けている。波風立てずに、仮初めの平和を装ったまま、他人の心を掻き乱す。

 普段通りの瑠璃であれば、落ち着いて対応したのだろう。絹に迷惑をかけたことを詫びて、女子生徒には毅然とした態度で立ち向かったはずだ。瑠璃は、そういう人間だった。


「やっぱりさ、ご両親がいないから、瑠璃ちゃんにも迷惑かなあって」


 瑠璃はそういう、…………………………瑠璃って、どういう人間だったっけ。

 その決定的な一言を耳にした瞬間、瑠璃の頭の中で何かが切れた音がした。

 立ち上がる。あまりの勢いの強さに椅子が後ろへ倒れた。もう、我慢できない。両親のことまで侮辱するのであれば黙ってはいられない。このクソ女に鉄槌を下してやる。拳を握り締める。足を踏み込む。女の瞳に、瑠璃の正気を失ったような虚ろな眼光が反射して見える。

 絶対に、こいつは許さない――。


「やめなよ」


 まさに、鶴の一声だった。ぴたりと時間が止まったかのように、瑠璃の動きが止まる。だがそれは相手も同じことだった。取り巻きのほうも、絹が一瞬だけ放った圧倒的な威圧感に怯えたように口を閉ざして、椅子の上で固まっていた。


「……やめなよ」


 絹が止めを刺すように、今度は優しげな声音で言う。取り巻きは絹にそんなことができるとは思っていなかったのだろう、その緩急と諭すような言い方に、驚きを隠せない表情で頷いた。


「……ま、まあ、絹ちゃんがいいなら、いいけど」


「うん。瑠璃ちゃん、ごめんね。私から言っておくから、許して」


 絹は軽く振り返って、立ち上がったまま右手の行き場を失っていた瑠璃に謝った。

 瑠璃は何だか気が抜けてしまって、脱力したように長い息を吐き出してから、無言で頷いた。


「――瑠璃ちゃん、今日はもう帰る?」


 午前授業が終わったあと、帰り支度を整えていた瑠璃に、絹が話しかけてきた。


「うん、帰るけど」


「じゃあ途中まで一緒に行こ。途中までって言っても私は部活あるから、体育館までだけど」


「……まあ、いいよ」


「ほんと! やった!」


 花が咲いた、不意に瑠璃は思った。彼女の笑顔は可愛らしい。その華やかな笑みが、これまでにどれだけの人々を虜にしてきたのか。きっとこの教室には何人もいるのだろう、瑠璃はそんなことを考えながら、自身の背中に突き刺さる痛々しい視線を受け流して、教室を出た。


「土曜授業ってさ、部活に入ってない人はめんどくさいよね」


「まあ……そうだね。わざわざ電車に乗らなきゃいけないし」


「瑠璃ちゃんは部活やらないの? バスケ部はいつでも歓迎だよ」


「いやルリ、バスケ得意じゃないし。それに時間がないよ」


「あ、そっか……そうだよね。んー……じゃあさ、今度瑠璃ちゃんのバイト手伝わせてよ」


「手伝うって、お店は研修を受けないと入れないけど」


「そっちじゃなくて、新聞配達のほう。私、体力には自信あるし!」


「うーん、どうかな。配達なら上の人に頼めばできるかも」


「じゃあ聞いてみて。大丈夫そうなら絶対に手伝うから」


 絹は嬉しそうだった。男子と並んでも見劣りしないくらい背が高いのに、こうしていると呑気な子犬みたいだ。取り巻きたちは絹のかっこいいところが好きらしいが、かわいいところもちゃんとあるのにな、と瑠璃は思う。


「じゃあ、部活頑張ってね。明日の練習試合も」


「うん、ありがとう。……あ、瑠璃ちゃん」


「なに?」


 体育館に到着したので別れようと思ったのだが、絹は帰ろうとした瑠璃を引き止めた。

 彼女はスカートのポケットから薄いピンク色のハンカチを取り出して、瑠璃に手渡す。


「これ、朝に落としてたよ。ごめん、今の今まで渡しそびれちゃって」


「あ……ありがとう。こちらこそごめん、せっかく貰ったのに落としちゃった」


「ううん、使ってくれてて嬉しい」


 朝の騒動の際に瑠璃のポケットから落ちてしまったのだろう。絹が持ってくれていたハンカチは、前の瑠璃の誕生日に、絹がプレゼントとして送ってくれたものだった。今思い返せば、二人はあの日から話をするようになったのだ。


「あと……今朝のこと、本当にごめんね。瑠璃ちゃんに嫌な思いさせちゃった」


「もういいよ。まあ、友達はもう少し選んでほしいけど」


「あはは……そうだね。でも私、瑠璃ちゃんを友達に選んだのはセンスあると思ってるよ」


「え、ルリたちって友達だったの」


「違ったの⁉ ショックなんだけど……!」


「あ、いや、絹ちゃん友達多いから、ルリのことは知り合いくらいに思ってるのかなって……」


「そんなわけないじゃん! 瑠璃ちゃんは大事な友達だよ。だから、さ」


 絹はそこで言葉を区切ると、瑠璃の両手のうえにそっと彼女の両手を重ねた。


「何か困ってることがあったら、言ってよ。力になりたいの」


 手が、暖かい。黒く染色されつつあった瑠璃の心が、じんわりと浄化されていくようだった。やっぱり大丈夫だ。今日が暴走のピークなら、ちゃんと明日まで耐えられる。困ったことがあっても、絹が助けてくれる。こんなにも心強い友達がいてくれる。だから大丈夫。


「……ありがとう、絹ちゃん。ルリ、もう行くね。また来週」


 瑠璃は半ば逃げるようにして、その場を離れた。泣きそうになっているところを見られたくなかった。駆け足が早歩きになって、早歩きが普通の速さに戻って、次第に瑠璃は足を止める。

 両手に握られた薄いピンク色のハンカチ。くしゃりと折れたそれを胸の前に持っていくと、瑠璃は自分の心の内に湧いた喜びを噛みしめるみたいに、両の手のひらに力を込めた。


「ヴァニスも絹ちゃんも、よくあんな恥ずかしいことが言えるなあ……!」


 堪えようとしても流れてしまう涙を誤魔化そうとして、瑠璃は笑った。そのまま何度か深呼吸を繰り返して心が落ち着いてから、やっとのことで帰り道を歩き始める。人前で泣いたのだから恥ずかしいはずなのだが、不思議と気持ちは爽やかだった。これまで抱えていた不安が一気に溶けていったからかもしれない。とにかく、あと半日。あと半日耐えれば、暴走は収まる。

 そして、その残りの半日にはもう予定がない。シフトも入れていないし、あとは家でゆっくりしていればいい。だから大丈夫。そうだ、今朝ヴァニスには少しきつく当たってしまったから、お詫びに美味しいご飯でも作ってあげよう。こっちの世界の料理は口にしないと言っていたけど、まあ一口くらいなら問題ないだろう。瑠璃はヴァニスが無理して料理を食べようとしている姿を想像しながら、住宅街の幅が狭い道を横に逸れて――、


「……え?」


 そこで広がっていた光景に、息をのんだ。


「なに、これ。犬?」


 瑠璃の前方を、犬のような形をした真っ黒なナニカが塞いでいた。三匹いる。そのすべてが足と見られる部分で四足歩行をしていて、顔や胴体、尻尾などもあるのが確認できた。とはいえ如何せん全身が闇に包まれたように黒いため接合部は視認できない。ただその姿は、確かに犬のシルエットそのものに似ていた。

 そのナニカはまさに犬のように、地面に鼻と思われる箇所を近づけていて、目的のものを探しているみたいに辺り一帯を嗅ぎまわっている。その動きはどう見ても動物としか考えられないものだった。だが一度も目にしたことがない。現実でも、図鑑などの本でも。こんな全身が黒く覆われた犬がいるなんて知らなかった。いや、そもそもこれは、この世界の生物なのか。


「もしかして、A世界の動物?」


 瑠璃が口にした予測は、おそらく正鵠を射たものだった。今この世界にはヴァニスがいる。それならば、向こうの世界に存在する動物が紛れ込んでいてもおかしくはない。そういえばヴァニスは生態系が異なっていると言っていた。多分、いやほぼ確実に、瑠璃の考えは正しい。

 と、その黒い犬たちが、突然こちらがいるほうへ顔を向けた。まるで犬が何か見つけたかのような仕草だ。そして運の悪いことに、発見された対象はどうやら瑠璃であるらしかった。


「ちょ、こっち来ないで」


 瑠璃が走って距離を取る。しかし黒い犬たちは四本の足を駆けさせて追跡してきた。捕まれば何をされるかわかったものではない。何しろ相手は別の世界の生き物だ。だから瑠璃が逃走を選ぶことは当然の帰結だった。だが、彼女の選択はさらに悪い結果を招くことになる。


「ここ、駅前――」


 瑠璃が逃げた先は駅前だった。つまり、人が一段と多いエリア。悪寒が背中を駆け巡る。

 そのとき、瑠璃の悪い予感が的中したことを示す、わかりやすい悲鳴が轟いた。


「キャ――――――ッ!」


 咄嗟に振り返ったのと瑠璃の瞳が見開かれたのは、ほとんど同時だった。駅前の広場。そのなかに乱入した黒い犬が若い女性を襲っている。がばりと開かれた口からはやはり闇色の牙が覗いていて、それに腕を捕らえられた女性が痛みに泣き叫んでいた。

 だが瑠璃を驚愕させたのはそこではない。黒い犬に噛まれた女性が、見る見るうちにその姿を変えていったのだ。初めは噛まれた腕だった。腕に気泡のようなものが幾つも生じ、その穴から蒸発したように湯気が飛び出した。次第にミキサーにかけられたかのように腕が変形して、瞬きのあとにはそれが女性の全身へと行き渡った。健康的だった肢体は至る所が奇形と化し、ついにはぐちゃぐちゃの液体状になって、広場の床の溝に染み込んでいった。

 そのグロテスクな光景を見て、駅前はたちまちパニック状態になった。人々は叫び逃げ惑う。いつの間に増えていたのか黒い犬は三匹どころではなくなっていて、もはや数えていられない量の化け物たちが老若男女問わず無差別に人を喰い散らかしていた。数分前まで日常だった場所が、あっという間に惨劇の舞台に転じる。人の体が歪曲され、骨が飛び出し、肉が裂ける。


「な……なんなの、これ」


 瑠璃は動けない。生き地獄のような光景を見せられて普通に足が動かせる人間なんてそうそういないだろう。しかし黒い犬たちは瑠璃の膝の震えなんて考慮してはくれない。何人もの人を喰い殺したあと、数匹の犬が瑠璃に狙いをつけた。ウルル、ウルルと、やはりこちらの世界の犬とは違う奇妙な唸り声を上げながら、こちらに向かってくる。


「ひっ」


 瑠璃は自分の下半身に鞭を打って無理やり逃げようとした。

 だが、その前に四角いガラス張りの箱が目に入る。公衆電話だ。そのとき思考停止に陥りかけていた瑠璃の脳が、まるで最後の力を振り絞るかのように稼働した。あれで家の固定電話に掛ければ、ヴァニスが出るかもしれない。瑠璃は藁をも掴む思いで受話器を握り締めた。


「ヴァニス……お願い。出て。ヴァニス」


 何度かコール音が虚しく鳴ったあと、通話が繋がった。良かった。これで助けを求めれば、


「ヴァニス、助けて――」


 そのとき、瑠璃が手にしていた受話器が粉々になった。黒い犬が背後から強引にガラスを突き破って、その勢いを保ったまま受話器に激突したのだ。突如として自身の背中を襲った衝撃に耐えられるはずもなく、瑠璃の体は電話ボックスの外に投げ出された。

 全身が擦り傷まみれになって、切れた額から垂れた血が瑠璃の片目を充血させた。目を擦ってみても眼前の世界が絶望に染まっていることは変わらない。人が斃れ、変形して腫れ上がった顔が助けを求め、闇を纏った魔獣たちが辺りを破壊し尽くしている。

 瑠璃はふらふらと立ち上がって、ゆっくりと歩き出した。彼女の精神は既に事切れていた。それでもなお歩き続けることができたのは、最後に会話を交わした相手のことが気がかりだったから。彼女は、あの子は、無事なのか。ここから高校までは少し距離がある。まだ間に合うかもしれない。そんな瑠璃の淡い希望が、心身ともに摩耗した彼女を突き動かしていた。

 歩き続けて、高校の体育館に辿り着いた。扉は閉められていた。練習中だったはずだから、もしかすると異常事態は起こっていないのかもしれない。瑠璃は期待を抱いた。だが彼女は肝心な事実を見逃していた。扉は閉まっていても、その隣にある窓は総じて割れていた。

 扉の取っ手に指を添えると軽く動いた。鍵はかかっていない。瑠璃は指先に力を込めて半分だけ横に開ける。瑠璃は少しだけ安堵した。求めていた友人の姿が、ちゃんとそこにあったからだ。彼女は無事だ。床に両膝をついて背中を向けている。瑠璃はその周囲にも目を向けて、


「……え?」


 その周りには、バスケ部の部員たちだろう、大量の横たわった死体があった。


「わたしだけ」


 彼女が――絹が、振り返った。体中に鮮血を浴びた、絹が。


「わたしだけ、おそわないの。みんな、ころされちゃった。なんで。なんで、るりちゃん――」


「ああ」


 瑠璃のポケットからハンカチが落ちる。体育館の中に残っていた数匹の黒い犬が、薄いピンク色のそれへ一斉に群がった。


「あああああああああああああああああああああ」


 瑠璃は正気を失って逃げ出した。どうして。どうしてこうなった。あと半日だったのに。あいつらはなんなんだ。どこから来た。なんで人を襲う。なんで噛まれただけで体が歪む。なんで。なんで。なんで。どうすればよかった。どうすれば。どうして、こうなったんだ。

 逃げて、逃げて、自分がどこにいるのかもわからなくなって、瑠璃は近くの茂みに隠れた。そうして未知の化け物に殺される恐怖に怯えながら、頭と膝を抱えて震え続けていた。怖い。恐ろしい。自分が狂ってしまうことだけじゃない。自分が殺されることが怖くてたまらない。

 あの化け物に噛まれた人は、みな総じて体に異常をきたしていた。気泡ができて、ミキサーにかけたみたいにグチャグチャになっていた。あの変死体が脳裏に焼き付いて離れない。あれは一体なんだ。あの化け物がA世界の生き物だとするのなら――そこで瑠璃の思考が繋がる。

 ヴァニスが言っていた。A世界とB世界では物理法則が違うと。他世界の物理法則の流入を避けるためにB世界の食事は取らないと。つまりあれは、A世界の生き物に噛まれたことで、A世界の物理法則が体内に流れ込んだのではないか。多分そうだ。でも、そうだとするなら、


「ヴァニスは……敵だ」


 瑠璃がぼそっと呟く。自分一人で真実に辿り着いた確信が、あった。


「ヴァニスは敵だったんだ。A世界の動物を送り込んで、B世界を乗っ取ろうとした、悪だ」


 悪は消さなければならない。中学生に絡んでいた不良も、絹の取り巻きも、そうだった。

 悪は消さなければならない。それが正義だ。正義の人だ。瑠璃は、そういう人間だった。


「殺さなきゃ。ヴァニスを、殺さなきゃ。絹ちゃんの、友達の大切な仲間の仇を、取らなきゃ」


 うわごとのように呟きながら茂みの外へ出る。するとそこで、丁度よく声がかけられた。


「瑠璃」


 振り向けば、そこにはヴァニスがいた。ああ、なんていいタイミングだろうか。


「……あんたでしょ。あんたがやったんだ。そうでしょ。絶対そうだ。思い返せばあんたが来てから嫌なことが増えた。あの動物も見たことがなかった。この世界のじゃ、ないんでしょ。あんたが連れてきたんだ。ルリを助けるふりして騙して、それで、みんなを殺し尽くした」


「違う」


 ヴァニスはあくまでも白を切るつもりらしかった。


「それは、違う。瑠璃」


「何が違うの? 現に今そうなってるんだよ。あんたがやったの。あんたが。あんたが」


 そのとき瑠璃は自身の右腕あたりに違和感を覚えた。目線を下げてみれば、何やら自分の肩から、自分のものではない誰かの腕が生えている。白い大理石のような、筋骨隆々の腕。瑠璃はこれを知っている。見たことがある。これは、そう、ヴァニスの右腕だった。

 まさかと思ってヴァニスを見返してみたら、彼の右腕があったところには瑠璃の右腕が繋がっていた。瑠璃の右腕とヴァニスの右腕が、何故か交換されていたのだ。……これは僥倖だ。


「は、はは。すごいや。カミサマが、家長なんか超えたカミサマが、ルリに微笑んでるんだ。この腕があればルリは戦える。悪を倒せる。正義の人でいられる。あんたを殺すことができる」


「瑠璃――」


「死ね、ヴァニス」


 瑠璃が目をひん剥いて突撃する。だがその一撃は呆気なく防がれることになった。


「かっ……」


 瑠璃の腹部に、ぽっかりと大きな空洞が生まれる。ヴァニスが左腕で抉り抜いたのだ。

 内臓を破壊された。一瞬だったから痛みはなかった。視界が揺らぐ。感覚が損なわれていく。

 瑠璃が草むらのうえに倒れ込む。上空では月が輝いていて、いつの間にか夜になっていたことを知った。焦点の定まらない視野のなかで、ヴァニスの碧い瞳だけがやけに眩しく映る。


「……また、失敗か」


 ぼそりと、ヴァニスはどこか物悲しげに呟いた。また、ってなんだろう。でも、まあいいか。

 ヴァニスの言うことはよくわからない。だがそんなのは、いつものことだった。


「おしえて、ヴァニス」


 既に意識を保つこともままならないなか、瑠璃は微かに残存した自我を頼りに、尋ねた。


「あなたは、なんだったの」


「……瑠璃」


 ふしぎだ。ヴァニスはいまにもなきそうだった。てきだった、はずなのに。


「知覚者には、家長から権能が付与されると言ったな。私は身体能力を向上させる権能だったと、以前に説明した。そして、お前は気付いていなかったが、既に瑠璃にも権能が付与されていたのだ。――『時間遡行』の、権能が」


 いしきが、ぼやける。ねむくなってきた。そろそろ、しぬのか。


「お前は時を巻き戻すことができる。だがその力は、お前が死ななければ発動されない。お前は何度か私の言動を不思議がっていたな。……既に経験してきているのだ、一度。私にとって今回は二周目だった。私とお前は繋がっている。だから私は記憶を引き継げた。お前は死んでしまうから記憶を保つことができない。私だけが、完全なタイムリープをすることができる」


 でも、すこしさみしいな。せっかく、ルリにもまた、かぞくができたとおもったのに。


「お前は十九日に必ず狂ってしまう。だが、私がそうさせない。すべて覚えている私が」


 さよなら、ヴァニス。もう、あえないね。ちょっとだけ、ざんねん。


「またやり直させよう、世界を。次こそ、お前を救う」


 もし、もしも。またあえたなら、つぎこそは――


「絶対に――死なせない」

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