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 電車の中で吊革が揺れている。瑠璃は背丈が低いから高い位置にあるものは掴めなかった。特に乗り慣れていなかったころは、それはもうヨロヨロと周囲の乗客にぶつかって迷惑をかけたものだ。だがそれも昔の話で、今は問題ない。通学の間くらい立ちっぱなしでも困らない。

 ヴァニスと邂逅した翌日、十七日。昨日あんなことがあったにもかかわらず、瑠璃は普段と変わらず高校へ向かっていた。ヴァニスも途中まで来るかと誘ったのだが、他に行くところがあるらしい。彼も彼で色々あるのだろうから、余計な詮索をするのはやめておいた。

 昨日のことは今でも夢だったのではないかと思ってしまう。高校からの帰り道で希死念慮が強まった。ロープを買って自殺しようとした。ヴァニスが現れて家産世界について説明を受けた。あんな体験はもう懲り懲りだと言いたいが、自身の暴走はまだ悪化する可能性があった。


「あと二日後にピーク、か……」


 ふと自分に課せられたタイムリミットを意識したら口に出てしまった。瑠璃は思わず両手で口を塞いで、誰も聞いていないか周囲を確かめる。まあ聞かれたところで意味はないのだが。


「……あ」


 すると、瑠璃から最も近い優先席のあたりで目の動きが止まった。朝の通勤電車は少しずつ混み始めている。そのなかで優先席に腰掛けていた中年の女性がいたのだ。彼女の前には、足を悪くしているのだろう、杖をついた高齢の女性が立っていた。

 他の座席は埋まっている。瑠璃は迷わない。こういうとき、取る行動は一つだった。


「あの。すみませんが、お婆さんと席を代わっていただけませんか」


「……あら、失礼」


 瑠璃の声掛けによって、中年女性と杖を持った女性が交代する。ありがとうございます、と瑠璃は車内で立つことになった女性に頭を下げた。


「ありがとう」


 高齢の女性が安心したふうに瑠璃に笑いかける。瑠璃は「いえいえ」と、はにかんだ。

 高校の最寄り駅で下車してから、瑠璃は通学路の途中で見知らぬ人に声を掛けられた。聞けば区役所に行きたいらしい。瑠璃は身に付けていた腕時計を見て、いいですよ、と快諾した。

 早めに家を出ておいて良かった。区役所までは少し距離があるから、あと少し遅れていたら案内できなかったかもしれない。子供が生まれたから新居を構えたという彼を送り届けて、瑠璃はまた高校へ向かった。

 その日は特に何も起こらなかった。少なくとも瑠璃が心配していた昨日のようなことは。変わったことと言えば、いつも瑠璃より先に教室に来て、いつも瑠璃に挨拶してくるあの子が遅刻してきたことくらいだった。瑠璃は一旦家へ帰って、また出掛ける準備をした。


「アルバイトか?」


 ヴァニスがそう言ったので、瑠璃はうんと答えた。


「そうか。気を付けてな」


「わかった。行ってくるね」


 後ろから聞こえてくる行ってらっしゃいの声が少しだけ嬉しかった。今までは聞こえることもなかったから。道行く人にばれない程度に口元をにやけさせてバイト先に向かっていると、


「……ルリ、ヴァニスにバイトしてるって言ったっけ」


 と気が付いて、にやつきは一瞬のうちに消えてしまった。きっとまたA世界の家長が事前にリサーチでもしていたのだろう。まるで知らない間にストーキングされていたみたいだ。やっぱりヴァニスって気持ち悪いかも、と瑠璃は人知れず鼻白んだ。

 駅前のハンバーガー店に到着して、スタッフルームで制服に着替える。先にシフトに入っていた同僚や先輩たちに挨拶をしたあと店頭に出た。すると店内の隅にあるボックス席にいた人物がこちらに向かってひらひらと手を振っているのが見えて、瑠璃は僅かに顔をしかめた。


「わー、瑠璃ちゃんだ」


「……いらっしゃいませ」


 四角形の座席にはちょうど四人が腰掛けていた。みな一様に同じ服を着ている。瑠璃の高校の制服だ。それも全員が見知った顔。つまるところ、同じクラスの女子生徒たちだった。

 ……それも全員、瑠璃が苦手としているタイプの人間たちの集まりだ。


「瑠璃ちゃん、ここでバイトしてたんだねー。制服、似合ってるじゃん」


「ありがとう」


 嘘だ。彼女たちが今までに何度もこの店に足を運んでいることは知っている。その間、瑠璃のシフトが被った日は少なからずあった。彼女たちは最初から瑠璃がここで働いていると知りながら、わざと先のようなことを口にしたのだ。何故かと言えば瑠璃をからかうためだろう。

 そういう人間なのだ、この人たちは。だから真面目で曲がったことを嫌うたちの瑠璃は苦手としていた。まあ、それは向こうも同じだろうが。と、何かを探すような素振りの瑠璃を見て察したらしい。生徒の一人、手前でカップに入ったジュースを飲んでいた女子が言った。


「もしかして、絹ちゃん探してる? 今日はいないよー。部活中。大変だよねえ」


「……そうなんだ」


 瑠璃の目線が揺れる。彼女たちの着崩していた制服が目に入った。以前それは校則違反だと注意したことがあったのだ。それから彼女たちとの仲はさらに険悪なものになったのだが。

 すると瑠璃の視線が意味するところに感づいたのか、先ほどと同じ女子が目を細めた。


「あー、スカートねー……はは、ごめんごめん。前に注意されたよね。今戻すからさ」


 声を低くした女子生徒はソファの外に足を出すと、体の向きを真横に変えた。そして彼女は軽く屈んだあと、短いスカート丈を元に戻そうとして、


「あ、」


「え――」


 右手に持っていた蓋の付いていないカップの中身を、瑠璃の制服のそばで傾けた。カップのふちで葡萄色の液体が波打って、その直後、それらが驟雨のようにどばっと溢れ出す。

 瑠璃を狙っていたことは明らかだった。さしずめ手が滑ったと見せかけて、バイト先の制服を汚そうとでも考えたのだろう。ところが彼女の服は汚されずに済んでいた。すんでのところで瑠璃が後ろに下がって、カップから零れた液体はすべて床に落ちていったのだ。


「え、避けて――あっ、瑠璃ちゃん大丈夫? ごめんね、急に力が抜けちゃってさ」


「え、あ……うん」


 瑠璃は何が起きたのかも把握しきれていないまま、悔しそうに歯噛みしながら愛想のいい笑顔を作ろうとする女子生徒から離れた。彼女にジュースをかけられそうになった瞬間、確かに瑠璃の体は後ろにいた誰かに引っ張られた気がしたのだが、背後には誰一人いなかった。


         〇


「おはよう、瑠璃」

 

 翌朝、瑠璃は古びたアパートの敷地内で、ヴァニスに声を掛けられた。


「おはよう。早いね。まだ寝てればいいのに」


「そうはいかない。私はお前を守るためにこの世界に来たのだ」


「よくそんな恥ずかしいことをさらっと言えるなあ」


「新聞配達か?」


「あ、うん。今からね」


 瑠璃が目を向けたほうには自転車が置いてあった。籠には既に大量の新聞紙が積まれている。彼女はハンバーガー店でのアルバイトに加えて朝の新聞配達も掛け持ちしていた。どちらも生活費を賄うためだ。瑠璃が普通に生きるには、これくらい難なくこなさなければならない。


「私も手伝おう。居候している身だからな」


「え、別にいいよ」


 とは言ったのだが、ヴァニスは俄然やる気らしい。自転車の籠から新聞紙の束を丸ごと取り出して、両腕で抱えるようにして持っている。彼はそのまま敷地を出て歩いていってしまった。


「ちょっと、ヴァニス。自転車は」


「必要ない。すぐに終わる」


「何それ……」


 最初こそ彼の言っている意味が理解できなかったのだが、その言葉は本当だった。というのも、ヴァニスは異常なくらい足が速かったのだ。とても人間業とは思えないような目にも止まらぬスピードで住宅街のなかを駆け抜け、ありとあらゆる郵便受けを制覇してしまった。B世界における百メートル走の世界記録があっけなく打ち破られた瞬間を目にして、瑠璃はぽかんと口を開けることしかできなかった。これも権能と物理法則の違いが関わっているのだろうか。


「こちらの世界のほうが、重力が軽いのかもしれん。相対的に体が軽く感じる」


「すごいよ、ヴァニス。いつも一時間くらいかかるのに五分で終わっちゃった」


「歩合制のもので良かったな」


「ほんと詳しいね、こっちの文化に……」


 瑠璃が異世界の超人の適合具合に軽く引いていると、道路の奥から見知った人物が走ってきているのに気が付いた。ショートの茶髪に、すらりと伸びた長い手足。明るい配色のスポーツウェアを身に纏った高身長の女子の姿は、瑠璃が昨日から探していた知り合いのものだった。


「あ、瑠璃ちゃん! おはよう!」


 相手も瑠璃の存在に気付くやいなや、こちらへ速度を上げて走り寄ってくる。


「絹ちゃん。おはよう」


 彼女は絹、瑠璃のクラスメイトだ。八頭身というスタイルの良さに加えて、時折見せる花が咲いたような笑顔が印象的だった。明るく朗らかな性格で誰に対しても優しいから、クラスにおけるアイドル、男子より女子に人気な王子様、といった立ち位置にいる。これといった友人のいない瑠璃にも気さくに話しかけてくれるので、瑠璃も彼女のことは好意的に思っていた。

 ただまあ、だからこそ昨晩のような、あの意地の悪い取り巻きたちが苦手なのだが。


「今日も配達? 大変だね……私も手伝えたらいいんだけど」


「気にしないでよ、絹ちゃんは部活あるんだし。朝練前だよね」


「そう。今度の日曜、練習試合でさー。また東高とやるの。去年、県大会一位だったとこ」


 日曜と聞いて、瑠璃の体が無意識のうちに強張る。その日は二十日、つまり瑠璃の暴走が収まるとされている日だ。絹が部活の練習試合に出るころ、自分はどうなっているのだろう。そんなことを考え出したら止まらなくなって、絹に余計な気を遣わせる羽目になってしまった。


「瑠璃ちゃん? どうしたの、急に黙って」


「あっ、ううん、なんでもない」


 下から覗き込むようにして様子をうかがってきた絹と目が合う。至近距離から見つめられて、たじろいでしまった。綺麗に広がった二重。汗の似合う健康的な白肌。相変わらず整った顔をしているな、と思う。一瞬でも自分と比べて卑下してしまいそうになるのが、少し嫌だ。


「ランニング、邪魔しちゃった。練習試合、頑張ってね。応援してる」


「ありがとう、瑠璃ちゃんに応援されるとやる気出る! 頑張るね」


 朝練前のランニングを再開した絹が走り去っていく。瑠璃はその背中が小さくなっていくのを見届けて、ふとヴァニスの姿が消えていることに気が付いた。そういえば絹と話している間も声を聞いていない。瑠璃が知らないうちにどこかへ行ってしまったらしい。

 周辺を軽く探していると、ヴァニスは家屋の外壁の裏に身を隠すようにして潜んでいた。


「……何してるの?」


「行ったか?」


「え?」


「絹だ。もう行ったか」


「あ、うん、行ったけど。絹ちゃんに会うとまずいことでもあるの?」


「いや、特には。気にするな。瑠璃、今日は別の道から帰らないか」


 ヴァニスの謎の提案に瑠璃は「はい?」と眉を寄せた。なぜそんなことを言い出したのか見当もつかなかったが、帰るのにかかる時間はそう変わらない、別にいいかと頷いておいた。

 通学中、電車に揺られながら絹の言っていたことを思い出す。二十日が練習試合。今日は十八日だから明後日だ。暴走のピークはすぐそこまで来ていた。正直、少し不安だ。ただ、と彼女は自身のネガティブな思考に渇を入れる。意外にも、これまで心配していたような出来事は起こっていない。実はヴァニスの考えは杞憂で、このまま無事に明日を越えられるのではないか。いや、きっとそうだ。そうに違いない。大丈夫。瑠璃は考え直して、高校の正門を抜けた。

 だがその直後、自身の希望的観測が浅はかだったことを、瑠璃は思い知らされた。


「調子に乗ってんじゃねえよ、なあ」


 登校してすぐ、瑠璃は絹の取り巻きに呼び出された。昨日バイト先で会った四人の一部だ。

 人気のない校舎裏。確かに今まで不和はあったが、こうやって彼女たちが直接的な行動に打って出たのは初めてだった。だからこそ、瑠璃は人並みに動揺した。


「鬱陶しいんだよ、真面目ちゃん。絹ちゃんにも付きまといやがって。立場を弁えろ」


 瑠璃が小さく呻く。女子生徒の一人が彼女を壁に押し付けて、腕の皮膚をつねったのだ。


「……絹ちゃんは、こういうの、許さないでしょ」


「は?」


 絹を引き合いに出されたことで、相手はさらに興奮したようだった。


「ああ、うん。そうだね。だめだって言うよ。言うだけだけど。あの子さ、意志弱いから。スペック高いからアイドルに仕立て上げてるけど、実際のところは私らの話聞いてうんうん頷いてるだけ」


「え――」


 瑠璃は言葉を失った。思い描いていた絹の人物像が裏切られた気がした。


「便利なんだよ、ああいう子。外面いいから隠れ蓑にピッタリ。残念だったね」


 助けに来ないよ、絹ちゃんは。女子生徒はそう吐き捨てるように言って、瑠璃の腕を再三、先ほどよりも強い力でつねった。鋭い痛みが走って、瑠璃はぎゅっと目を閉じる。彼女たちが去ったあと、瑠璃の右腕は一部が青色に染まっていた。ヴァニスの瞳の輝かしい碧色とは比べようがないくらい、ひどく汚らしい、痛ましげな内出血の色だった。

 じんわりと、水面に雨粒が落ちたように、瑠璃の心の中で鬱屈した何かが広がっていくような気がしていた。もやもやした気持ちを抱えたまま授業を受け終えたあと、自宅への帰り道を歩いている途中で、まさに弱り目に祟り目とでも言うようにそれは起きた。


「ちょっと金貸してくんない?」


 高校生だろう。不良と思しき恰好をした男三人組が、道端で気弱そうな男子中学生に絡んでいた。この近くには繁華街があるから流れてきたのかもしれない。決して治安がいいとは言えない環境だ、ああいう輩が弱者にたかる光景というのは珍しいものでもなかった。

 強面な三人の男に詰め寄られて、中学生はすっかり縮こまっている。今だけは隣にある自動販売機と見分けがつかないのではないかと思うくらい、身動き一つしていなかった。


「……はあ。あの、」


 放っておけるわけもない。瑠璃はそういう人間だった。ただ相手は男三人だ。まともに相手して主導権を握れそうにはない。だから彼女は周囲を見渡して、近くに居た警官に声を掛けた。


「え、行っちゃったし」


 だが残念なことに声が届いていなかったらしい。それどころか二人組の警官は他の誰かに呼びかけられたような反応をして、どこかへ去っていってしまった。瑠璃は上げかけた手を気まずそうに下ろしながら、再び周りを見やった。他に頼れそうな大人はいない。それなら、もう、


「ちょっと、何してるんですか」


 自分一人で行くしかない。瑠璃は車道を渡って、不良と中学生がいるほうへ駆けつけた。案の定、振り返った体格のいい男たちはこちらを不機嫌そうに睨み付けてくる。


「何って、金貸してほしくて。つか、誰」


「その子、困ってますよね。解放してあげてください」


「困ってる? 困ってんの? あ、おい」


 中学生へにじり寄って詰問していたところを、瑠璃が無理やり体をねじ込ませる。今のうちに逃げて、と背後に向かって囁くと、彼は一度だけ頭を下げて、そそくさと場を後にして行った。とりあえず目的は果たしたと見て、瑠璃も男たちから距離を取ろうとする。だが。


「いや、待てって」


 男のうちの一人が瑠璃の腕を掴んだ。


「な……離してください」


「いや俺ら、マジで金なくて困ってるんだって。あいつがだめなら代わりに貸してくれよ」


「は……嫌です。あなたたちに貸すお金はありません」


「おいおい嘘だろ、頼むよ……ん、なんだこれ」


 男の言葉が止まる。男は自身が掴んだ瑠璃の右腕を見ていた。いや、厳密に言えば、瑠璃の右腕に出来ていた青色の痣を。にやり。微々たる差だ。でも確かに、男はそれを見て笑った。


「いじめられてんの、お前。それとも虐待? まあ、どっちでもいいか。それなら」


 そのとき、瑠璃の視界が、振り上げられた腕を捉えた。


「一発くらい殴ってもバレないだろ」


 殴打。鈍痛が瑠璃の左頬を起点に広がっていく。コンクリートの地面に尻餅をつく。殴られたのだと、咄嗟に理解した。じりじりと焼けるような痛み。途端に血の味が口の中を支配する。


「最後のお願いだ、金を出してくれ。な、頼むよ」


 にやり。学ランを着た男はまた笑った。その悪質な嫌らしい笑みが、瑠璃は生理的に受け付けなかった。気色悪い。逃げるべきだ。走って家へ逃げ帰るべきだ。戦ってはいけない。同じ土俵に上がってはいけない。腹立たしい。こんな人間が、人とも呼べない悪が、この世にいていいのか。悪。そう、悪だ。奴らは悪だった。生かしていていいわけがない。こういう奴らがのうのうと息をしていられる世界を許してはいけない。いや、逃げるべきだ。逃げてさっきの警官に助けを求めるべきなんだ。でも、でも。許せない。許したくない。こんな畜生どもを、


「……あう」


「あ?」


「あ、う……あう……あああああああああああ」


「なんだ、こいつ――ぐっ」


 瑠璃は突然叫び出したあと――しゃがんでいた男の喉仏を、親指で思い切り押した。


「ごえっ……あが」


 怯んで体勢を崩したところを蹴り倒し、床に横たわった男の首をローファーで踏みつける。ごえ、ごえ、と喉仏を踏み潰すたび、掠れた呼気のような音が気道から漏れ出てくる。それでも瑠璃は止まらない。気の狂ったような叫び声をあげながら、男の首を踏み続けて――狂う?


「……え。あ、え、……あ。そんな。ルリ、うそ、うそ」


 自分が本当に狂い始めている――そのことに気が付いた瑠璃は恐ろしくなって、一目散に逃げ出した。なりふり構わずに走った。自分が失われていく。自殺未遂のときと同じ感覚だった。まるで自分が誰かに操られているかのように、気が付けば取り返しのつかないことをしようとしている。怖い。恐ろしい。喘ぐように息を吐き出して、ようやく辿り着いた家のなかには、


「瑠璃、おかえり――」


 帰ってきた瑠璃を見て、すぐさま血相を変えたヴァニスがいた。


「どうした、その顔は。誰に……誰に、やられた」


 ああ、さっき殴られたときの傷か。指先で触れる。ぴりっとした痛みが走った。ヴァニスに会えたからだろうか、瑠璃はつい先ほどよりは落ち着きを取り戻して、彼に今日あったことを話した。するとヴァニスは何故か強いショックを受けたように膝から崩れ落ちて、言った。


「すまなかった」


「……何でヴァニスが謝るの?」


「私の、せいなのだ。私の……本当に、すまなかった、瑠璃」


 ヴァニスの言うことはよくわからない。だがそんなのは、いつものことだった。

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