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 六畳間の小さな和室に苦しげな声が響いていた。うー、うー、と呻くような声にならない声。台所の奥にある窓からは赤光が差し込んでいる。日が沈む少し前、その時間帯に特有の薄ぼんやりした淡い闇のなかで、瑠璃はたった今自身が取った行動に対して酷く後悔していた。

 畳が敷かれた狭い部屋。ぼやけた視界は振り子のように揺れていて、瑠璃が使用したちゃぶ台をチラチラと映している。白目を剥く勢いで上を見ると天井に露出した梁があって、そこから蛇のように伸びていた一本の縄が、今まさに瑠璃の首を絞めつけていた。


 ――苦しい。


 一言で言えば、瑠璃は自殺を試みていた。この際、理由なんて何でもいい。ただとにかくロープを用意して、梁に巻き付けて、ちゃぶ台から踏み出して、自分の首が強く締め上げられた瞬間、瑠璃は悟った。やるんじゃなかった、と。


 ――なんなの、これ。楽だって聞いたのに。めちゃくちゃ苦しいじゃん。


 瑠璃は後悔していた。息ができない。十秒くらいで死ねるはずなのに、少しも意識が遠のいていきそうになかった。感覚が鮮明なまま、ただ酸欠の苦しみに喘いでいる。

 多分、結び方が間違っていたのだろう。もしくは位置だろうか。いや、そんなことも、この際どうでもいい。何が正しくて何が間違っていたかなんて、この窒息しそうでしない状況においては考えたって無駄なことだった。苦しい。あとどれくらいで死ねるのだろう。苦しい。こんなに辛いなら、自殺なんてするんじゃなかった。苦しい。誰か。苦しい。誰か、誰か、

 そのとき、家の扉が開いた。そこでようやく鍵を閉めていなかったことに気が付いた。この家には瑠璃しか住んでいないのだから、誰かが勝手に扉を開けたのだ。しかしそれは瑠璃にとって確かな光明だった。いつもであれば侵入者、でも、今ばかりは――、


「あう、ええ」


 瑠璃は、扉が開いた先にいた美しい黒い髪の男に、そう言った。「助けて」と。美しい。本当に、美しい顔をした男だった。女と見間違われてもおかしくはないくらいに。

 茶色いコートを着た男は土足のまま居間に上がると、ずかずかと無表情を保ちながら瑠璃のもとに近づいた。そして腕を高く上げ、右手を手刀のようにして構えると、


「いてっ」


 瑠璃を吊るしていたロープを容易く切断してみせた。彼女の小さな体が畳の上に落ちる。尻をぶつけた。痛い。ヒリヒリする。でも何よりそれは、瑠璃が生きているということだった。

 自分の息が荒い。失っていた酸素を取り戻そうとしているかのように、体がしつこいくらいに呼吸を繰り返している。まだ苦しい。ただ瑠璃は、自分を助けてくれた相手を見上げて、


「あり、がとう」


 そう、息も絶え絶えに言った。相手はこちらを見下ろして、小さく頷いたようだった。

 瑠璃を助けた男は恐ろしく身長が高かった。百九十は下らないだろう。同い年の女子高生の平均にも満たない瑠璃と比べたら、巨人と小人みたいな差だ。一目見て美しいと感じたその顔は、酸素を得て焦点が合った視界のなかでも同じように思えた。むしろ見え方がクリアになったことで、その恵まれた美貌を一層つぶさに観察できる。

 すると、彼は片方の膝を床につきながら、ぐいと顔を瑠璃のほうへ近づけて問いかけた。


「私の名前がわかるか」


「えっ……」


 睫毛が長い。本当に女みたいだ。大きく宝石のような碧色の瞳に、鷲のクチバシのような鼻。外国の人だろうか。髪こそ黒いものの、とても日本人とは思えない顔立ちをしている。


「瑠璃。聞こえているか」


「あっ、はい」


 しまった。見惚れていたせいで、せっかく助けてくれた命の恩人の言葉を無視してしまった。

 えっと、何だっけ。瑠璃は少し前に彼が問いかけたことを思い出そうとする。そして、その違和感に気が付いた。


「え、何でルリの名前」


 今さっき、男は自分のことを瑠璃と呼んだ。確かに自分の名前は瑠璃だ。何も間違っていない。ただ彼と会うのは初めてだったし、自己紹介をした覚えもあるはずなかった。だから瑠璃の名前を知っているわけがないのだが――彼女がそう戸惑っていると、男は不意に立ち上がる。


「そうか」


 男は短く呟くと、納得したような、それでいて何かを諦めたような顔つきをした。瑠璃は彼がそんな表情をする理由もわからなくて、ただ小首を傾げるしかない。そうこうしているうちに息はかなり整ってきていた。首の縄を解いて、瑠璃も同じように立ち上がる。


「あなたは……誰?」


 今度は瑠璃が問いかける。それに対して男は、冷静に答えた。


「私はヴァニス・ペギーナ。他の世界から、来た」


 本当はこんな怪しいことを言う男なんて家に入れるべきではなかったのだろうが……瑠璃の気は動転していたし、何より彼は命の恩人だった。自殺に後悔していたところを助けられたのだ。だから瑠璃は、彼の話を本気で聴く気になってしまった。

 とは言ってもヴァニスの話は、あまりにも非現実的すぎるものだったのだが。

 ヴァニスと名乗った男は、他の世界から来たと言った。瑠璃が生きている地球や宇宙がある世界とはまた別の世界。いくつもの次元を超えた先の先。世界は一つではなく、無数に存在する。それを瑠璃の世界では異世界だとか、平行世界だとか、パラレルワールドだとか、とにかく様々な呼び方をするが、厳密にはそれらをひっくるめて「家産世界」と言うらしい。

 家産というのは、家産国家から来ている。領土と人民をその国の君主の所有物であると考える国、それが家産国家だ。君主がまるで家父長制における家長のように国家を支配する。そして、その考え方をいくつもある世界一つ一つに当てはめたのが「家産世界」だった。

 つまり、世界一つに対して一人の「家長」が存在する。無数にある世界群、その一つ一つに、それぞれの世界を所有するリーダーのような者がいるのだ。世界は一つの家そのものである。世界の「家長」は昔でいう家の長がそうだったように、世界に存在するものすべてを私有し、世界を管理・運営して適切な状態に維持することが求められる。家長は所有する世界の中に住み、普通の人間と同じように暮らしているが、人前に姿を現すことはまずない。


「つまり、家長は神様みたいなものってこと?」


「役割は似ているが、神とは違う。家産世界は無数にある世界群を安定的、効率的に運営するため過去に作られたシステムで、家長は元人間だ。家長としての寿命が尽きると、その世界の中から次に家長となる者が選ばれる。そして神というと人の上に立っているような印象があるが、家長はむしろ逆だ。自身が所有する世界に住む森羅万象が安定した営みを行えるよう、まるで奴隷のように働き詰めなくてはならない。勿論、家長の持つ権限を濫用して、自身の世界に悪影響を及ぼすことは家産世界のルールで禁忌とされている。ただし、お前は別だ、瑠璃」


 ちゃぶ台を挟んだ向こう側の壁に背中を預けて、家産世界について説明していたヴァニス。

 彼が急に話の矛先を向けてきたことで、三角座りをした瑠璃の体は緊張で硬くなった。


「ルリだけ別って、どうして」


「お前は知覚者だ。最近、何の前触れもなく家長の存在に気が付いただろう」


「え――」


 瑠璃が口籠ったのは突拍子もないことを言われたからではない。ヴァニスの指摘したことが、まさにその通りだったからだ。数日前、瑠璃は確かに家長という存在がいることを知り得ていた。急に頭の中に、この世界にはそういう荒唐無稽な何かがいる、という確信が生まれたのだ。それはまるで天啓とでも呼ぶべきものだった。


「家長は本来、所有しているものに自身の存在を知られてはならない。しかし稀に、偶然に家長の存在を知覚してしまう者が現れる。それを知覚者と呼ぶ。そうなると家長は正気を失い、存在を知覚した者も狂い始めてしまう」


「狂う?」


「ああ。人には正気を保っていられる限界がある。ある日突然、隠されていた世界の真実に何の前準備もなく到達してしまうのだ。知覚者の意識は蝕まれ、次第に正気を失っていく。とはいえ知覚された家長まで暴走してしまうのは、家産世界のシステムの大きな問題だが」


「じゃあ、ルリも狂うっていうこと?」


「そうだ。現にお前は、自殺しようとしていた。特に大きな原因があったわけでもあるまい」


 ヴァニスの言う通りだった。瑠璃が首を吊ろうとしたのは、何か嫌なことがあったとか、そういう直接的な原因があったからではない。これまでに蓄積されてきた人生に対する不信感みたいなものが一気に押し寄せて、自分でも何が起こっているのかわからないまま死のうとしてしまったのだ。とはいえ、そんなことを突然告げられて、すぐ受け入れられるわけがなかった。


「……よく、わからない。ルリはどうしたらいいの」


「私も知覚者だ」


 不安そうに両膝を抱えた瑠璃を見て、ヴァニスは少しだけ声音を柔らかくさせた。

 今まで立ったまま話していたところを、彼も床に座って、瑠璃と目線を合わせてくる。


「私も以前、私の住む世界――A世界で、同じように家長の存在を知覚した。それで私も一度、自分を見失ったのだ。だからお前の苦しみは理解できる。こちらの世界――B世界も家長の原理は同じだから、私の経験を活かすことができるはずだ。そのために私はこの世界に来た」


 さもそうすることが当然であるかのように言ってのけたヴァニス。

 瑠璃はその綺麗な碧眼に意識が吸い込まれそうになるのを何とか堪える。


「つまり、ルリを助けてくれるってこと?」


「そうだ。家長の暴走はおよそ一週間で収まるとされている。B世界の暦で今日は十一月十六日。こちらでB世界の家長の暴走を感知したタイミングから計算して、瑠璃、お前の暴走のピークは十九日だ。つまり――十一月二十日まで耐えれば、お前は助かる」


 お前は助かる――死のうとしてしまったりすることがなくなる、ということだろうか。説明されても話が非科学的すぎて、やはりよくわからなかった。

 整理すると、瑠璃が住む世界以外にも他の世界がたくさんあって、それぞれに一人ずつ家長という世界を所有するリーダーが存在する。それで、家長は所有する人たちに自分の存在を悟られてはいけないけど、たまに気付いてしまう人がいる。その人は知覚者になって、家長と一緒に暴走してしまう。でもその暴走は一週間くらいで収まる。瑠璃の場合は二十日まで耐えられれば大丈夫……こんなところだろうか。何が起きたのかは理解できたが、結局、何をすればいいのかはわからない。とりあえず、と瑠璃は立ち上がって、台所にある冷蔵庫を開けた。


「どうした、瑠璃」


「なんか……死にそびれたら、お腹すいちゃった」


 軽く何か入れておかないと、今度は頭が酸欠になってしまいそうだ。

 キャベツ、人参、もやし、挽き肉が少し……余り物しかない。野菜炒めでいいか、と棚からフライパンを取り出す。油を引いて、コンロに火をつける。


「ねえ、ヴァニス」


「なんだ」


 切って冷凍しておいたキャベツをフライパンの上に放り込む。じゅう、という小気味いい音と一緒に、白い湯気がもくもくと沸き起こった。


「ヴァニスがルリのことを助けに来てくれたのはわかった。でも、やっぱり家長ってなんなの。知覚しちゃったときの暴走? っていうのも、よくわからない」


「……野菜炒めか?」


「え? あ、うん」


 気付けば隣にヴァニスが立っていたので少しぎょっとした。水気を失ってしなしなになっていくキャベツを眺めながら、彼はまた「そうか」と短く呟く。


「……例えるなら暴走した家長とは、物語の作者のようなものだ。物語の世界には、作者が主に描く登場人物の他にも人々が存在するだろう。名前も姿も出てこないが、その物語の世界にいることになっている、他の人々」


「エキストラのこと? メインキャラクターが歩いてる道で背中だけ映ってる人たちとか」


「そうだ。彼らは作者に意識されることはない。ただその世界を構成する一要素として放置されている。だが、作者の存在に感づいた我々は、作者からしてみれば異端だ。だから私たちは『メインキャラクター』に選ばれる。作者が意識し、また意識させる異常な部分として」


「つまり、今のルリは作者に都合のいいように操られそうになってる、ってことか」


「ああ。別に例えが物語の作者でなくてもいい。今お前がしている料理にも当てはめることが出来る。料理人が家長で、フライパンの上で熱されている食材が知覚者だ。もし今このキャベツたちが、自分たちが調理されていることに気が付いて逃げ出そうとしたら瑠璃はどうする」


「外に出ないように蓋をする。それか火を強めるとか、とにかく邪魔する。……ああ、だからルリも家長の暴走の影響を受けちゃうんだ。この世界の真実に気付いちゃったから」


「そうだ」


 ヴァニスは頷くと、台所から居間へ戻っていった。


「私の分の食事は必要ない」


 今の説明を踏まえると、瑠璃だけ別という言葉の意味も理解できる。本来その存在を秘匿していなければならない家長にとって不都合となるから、知覚者は暴走の巻き添えを食らうのだろう。瑠璃が唐突に自殺したくなったのも、家長の介入によって精神衛生が乱されたからと推測できる。少しずつわかってきた。そのあとに何か大事なことを聞き逃した気がするが。


「って、え。ちょっと待って。ヴァニス、ご飯食べないの」


「食べないが」


「二人分、入れちゃったんだけど」


 手に持った菜箸でフライパンの中を指し示す。ヴァニスが丁寧に解説している間、瑠璃は人参ともやし、さらには挽き肉を投入してしまっていた。しかし、焦った様子の瑠璃とは対照的に、ヴァニスは出会ったときからほとんど変わらず無表情を貫き続けている。


「そういえば、そうだったな」


「はい? どういうこと」


「いや、何でもない」


 ヴァニスは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げる。


「私の住むA世界と瑠璃の住むこのB世界では物理法則が異なっている。隣り合っているからズレはまだ小さいが、それでもズレはズレだ。私は他世界の物理法則の流入には耐性があるほうだが、危険を冒すことは出来る限り避けたい。すまないが、私は食べられない」


「よくわからないことを次から次へと……なんなの、もう」


 仕方ない、半分タッパーに入れて保存しておこう。瑠璃は溜め息をつきながら台所に向き直った。目を離していたせいで焦げ付いた肉をこそぎ取る。あとは火を止めて皿に盛りつければ完成だ。先にレンジで温めておいた白飯も茶碗に乗せる。少し質素だが、まあいいだろう。


「いただきます」


 居間のちゃぶ台に移動して食べ始める。おいしい。自殺未遂のあとの食事なんて変な気分だ。

 瑠璃はご飯から目を離して、奥に座っていたヴァニスを見た。目が合う。彼もこちらをじっと見つめていたらしい。


「……なに」


 瑠璃が怪訝な顔をして尋ねると、ヴァニスはふっと目線を外した。意味ありげな仕草だ。


「何か、体に異常はないか。何でもいい」


「異常? 特にないけど。あ、首が少し痛い。肺とか、胸のあたりも」


「……そうか」


 聞くだけ聞くと、ヴァニスはそれきり黙ってしまった。勿体ぶっておいて、それだけか。無言のままというのも気になって、瑠璃は一旦箸を置く。


「なに、どういう意味。ルリの体に何かあるの」


「いや。詳しい原因は解明されていないが、知覚者には暴走した家長によって何らかの権能が与えられるのだ。だから、お前の体にも何か自覚できる力が付与されていないかと思ってな」


「そんなのがあるの? すごいね、いよいよ漫画みたいじゃん。ヴァニスはなんだったの」


「身体能力が向上する権能だ。膂力や走力が強化される。だが暴走が収まるにつれて、それらは私の一部になった。今はもう自在に操ることができるから、常時権能を使用していられる」


 へえ、と瑠璃は感心したように息を吐く。


「でもさ、何でルリたちだけ家長の存在に気付けたんだろうね」


「……それは、わからない。家長すら超えた何か、私たちでも知覚できない超常的な存在による策略かもしれないし、本当にただの偶然なのかもしれない。ただ、一つ確実なのは、誰かが家長の存在に気が付くと、家長は暴走し始めるということだ。私の場合も、そうだった」


「家長の暴走は時間が経てば収まるんだよね。ヴァニスのときはどうやって乗り越えたの」


「こちらの家長は暴走したあと大規模な戦争を引き起こした。世界中の国々が参戦するような、本当に大きなものだ。だから私はどの国にも属することなく、一人で戦場に赴き、思い思いに兵士を殺して回った。家長への反逆の意を示すため、各国の兵士を平等に殺すことを続けた」


 ぽろりと、瑠璃が持っていた箸の先から焼け焦げた肉片が落ちる。よくもまあ、それだけリアリティのない話がぽんぽん出てくるものだ。瑠璃の内心も知らず、ヴァニスは続ける。


「それを繰り返していたら、そのうちに暴走が収まった。まあ普通はそこで終わりなのだろうが、こちらの家長は変わり者でな。私を呼び出したかと思えば、代理として働けと命じてきた」


「もしかして、それでルリの家に来たの?」


「そうだ。A世界の家長――パルテ様がB世界の家長の暴走を感知した。これは家産世界における非常事態に該当する。だがパルテ様は家長の仕事でお忙しいからな。家長名代であるところの私が、暴走の原因の可能性が高い瑠璃のところへやって来たわけだ」


 そうしたら瑠璃が今にも死ぬところだった、と。ということは、かなりギリギリだったんじゃないか。あと少しヴァニスの到着が遅れていたらと思うとゾッとする。

 でも、これでようやく謎が解けた。瑠璃の名前を知っていたのも、家の扉を開けたのも、パルテとかいうヴァニスの世界の家長が事前に知り得ていたからだったのだ。


「てっきり女子高生の家に上がり込むために嘘の話を考えてきた不審者だと思ってたけど」


「今、私のことを不審者だと言ったか?」


「今は思ってないって。そもそも自殺のタイミングで来ること自体おかしいし、ずっと真面目に説明してくるし……いやあれも普通に考えたら怖すぎるけど。でも何より、」


 何よりヴァニスは、瑠璃の首を吊っていたロープを右手だけで切断していた。あの時点で確実にただの不審者ではないことはわかっていたのだ。彼は物理法則が違うと言った。何か、今までの常識では測ることが出来ない突飛なことが起きているのだと、瑠璃も薄々察してはいた。

 とはいえ、ここまで荒唐無稽すぎる話だとは思っていなかったものの。


「……はあ」


 緊張が緩んだ感じがして、瑠璃は夕食を終えたのをいいことに、ごろんと横になった。


「ルリ、ついにおかしくなっちゃったのかなあ」


「まあ、おかしくなるのはこれからだが」


「いいよ、そういう冗談にならない冗談。ピークは十九日だっけ。あと三日か……」


 耐えられるかな。ぼそっと呟いただけだったのだが、ヴァニスは返事をしてきた。


「心配するな。お前は普段通り生活していればいい。私が何とかする」


「そうは言ってもね。……ねえ、A世界ってどういうところなの」


 上体を起こして問いかける。そこで瑠璃は自分がまだ制服を着ていたことに気が付いた。


「こことさほど変わらない。先ほども言ったが、物理法則が違うとはいえ隣り合った世界だからな。B世界と似たような宇宙や惑星が誕生し、似たような猿が似たような人類に進化し、似たような歴史を歩んでいる。違うところといえば、生態系やエネルギー資源くらいだな」


「ふうん。異世界っていうと中世のヨーロッパとか、あんな感じのイメージだったけど」


「田舎にはああいうような風景が残っている場所もある。だがそれはB世界も同じだろう」


「確かに……というか野菜炒めのときもだけど、やけにこっちの世界の文化に詳しくない?」


「B世界に来る際に、言語や文化は一通り適応させられているからな」


「へ、へー……それで普通に日本語話してるんだ。便利だね」


 ああ、とヴァニスが頷く。すると彼は「それでだが」と再び目を合わせて、


「瑠璃の暴走を防ぐために、私は二十日までこの家に泊まろうと思っている。問題ないか」


「…………やっぱり不審者?」


「何故だ」


「不審者じゃん、どう考えても。女子高生の家だよ、ここ。あり得ないんだけど」


「な……お前、言っていることが違うだろう」


「何が。ルリは何も間違ったこと言ってませんけど」


 瑠璃のつっけんどんな態度にヴァニスは焦った様子を見せている。出会ってすぐとはいえ、彼がそこまで慌てた表情をするのは珍しい。まさか本気で泊めてもらえると思っていたのか。


「……お前の暴走を防ぐにはお前のことを調べるのが一番だ。それなら近くにいたほうがいい」


「言い方きも……まあでも、確かにそうかな。また首吊りしようとするかもしれないしね」


「……冗談にならない冗談はよせ」


「ふふ、仕返し」


 瑠璃はいたずらっぽく笑うと、空になった食器類を持って台所へ歩いた。蛇口を捻る。手が痛い。もう冬が近いから冷水で洗うのは少し辛かった。そういえばヴァニスは何も食べていないが、食事は必要ないのだろうか。次元を超越した家長の代理だから、そうなのかもしれない。

 そんな他愛もないことを考えていると、彼女の背中に声がかけられた。


「……瑠璃。その、ああは言ったが無理はするな。お前の暴走を防ぐには、お前を出来る限り刺激しないようにすることが肝要だ。だから迷惑なのであれば、私はこの家を出て――」


「なに普通のおじさんみたいなこと言ってるの」


「わかるのだ。私の娘にもそういう時期があったから」


「え、ヴァニスって娘さんいたんだ。というか、今いくつなの。年齢不詳すぎるでしょ」


 外見だけなら相当若く見えるのだが、意外とそうでもないのだろうか。

 と、ヴァニスの声がやんだのを察して、瑠璃はわざと水の勢いを強めた。


「……別に構わないよ。一人なのは、ちょっと寂しかったから。家長のことも、少し怖い」


 答えは返ってこなかった。きっと聞こえなかったのだろう。勿論、それでいい。

 でも何故だろう、彼は一度もそのことについて質問してこなかった。確かにヴァニスは別の世界の人だ。文化も違う。瑠璃くらいの年齢の女子高生が一人暮らしをしているなんて、別段おかしなことでもないのかもしれない。でも、瑠璃は気になった。


「聞かないの?」


「何をだ」


 蛇口を逆方向に捻ると、狭い和室には再び静寂が訪れた。タオルで濡れた手を拭く。


「どうしてルリが、この家に一人で住んでるのか」


「……」


 ヴァニスはまた答えなかった。先ほどまでの焦燥にまみれた表情は霧散して、出会ったときと同じ、冷静で落ち着きはらった無表情のままだ。


「……まあ、そういう人間だって、いるだろう」


 しばらく黙ったあとで、ヴァニスはようやく言葉を返した。限りなく感情が薄いのに変わりはなかったが、瑠璃にはその無機質な肯定がありがたかった。


「そうだね」


 瑠璃が柔らかく微笑む。まだわからないことだらけだが、何となく、彼とはうまくやっていけそうな気がした。

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