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ゼナスに追放を命じられたステファナは、荷物を取りに戻ることさえ許されず、彼の私室を出た足で宮殿を去る羽目になった。黙って付き添っているアニタも、未だ状況が飲み込めていないようだ。
外はもう陽が落ちて暗くなっていた。そう言えば何処へ追放されるのか知らされていない。まさか着の身着のまま外へ放り出されるのだろうか。どうして良いか妙案が浮かぶはずもなく、ステファナはアニタと共に城門へ向かう。
「あっ!来た来た!ステファナ様、こっちです!」
城門から少し逸れた場所でイバンが手を振っている。途方に暮れていた二人に対し、イバンは至って普段通りの調子だった。すると首を傾げていたステファナを置いて、アニタが飛び出した。
「…貴方ってこんな時でもお調子者でいられるのね」
「ま、待ってくれよ」
胸ぐらを掴みそうな勢いで詰め寄るアニタを、ステファナは慌てて止めた。
「アニタ、暴力はだめです」
「……申し訳ありません。ですがこの男が証言に加わっていたら、追放処分は免れたかもしれませんのに…」
「俺がいてもいなくても、処分は変わらなかったと思うけどなぁ」
イバンの軽い口振りは、余計にアニタを怒らせたらしい。きつく睨みつけられたイバンは後ずさりながら、同僚を宥めるために早口で説明を始めた。
「だって二人が呼ばれたすぐ後に、急ぎ荷を纏めろって命令されたんだぞ!?ステファナ様の追放は、殿下にとって決定事項だったって事だろう?」
「…そうですね。かくなる上は殿下が望まれた通り、速やかに出て行きましょう。ところで二人は…どうしますか?」
周囲に配慮してか、ステファナの声量は抑え気味だった。使用人の同行は許可されていたが、強制して良い訳ではない。これ以上は付き合いきれないと匙を投げられても仕方がない状況である。だからステファナは本人達に選択を任せた。
先に意思を表明したのは、意外にもアニタであった。
「わたくしは共に参ります」
「もちろん俺も一緒に行きますよ。解雇は勘弁してくださいって、前にも言ったじゃないですか」
次いで、イバンがおどけてみせる。彼のことをお調子者だとアニタは怒るが、暗い雰囲気に押し潰されずに済むという点では長所ともとれるだろう。ステファナも思わず、くすっと笑っていた。
「二人とも、本当にありがとうございます」
「従者として当然の務めですよ。それで俺達はどこへ向かう事になっているんですか?」
「あら…イバンも聞いていないのですか?」
「俺は荷造りをしろと言われただけで後は何も……ということは、街中を好きに散歩して良いって意味ですかね!」
「皇太子妃殿下に仕える侍従としていただけない発言です」
やにわにイバンではない男の声が耳に飛び込んできたため、三人は揃って勢いよく後ろを振り向く。いったい誰が、いつから背後に立っていたのだろうか。全く気配を感じなかった事にある種の畏怖を覚える。
三人が一様に目を丸くしているのが可笑しかったらしく、突然現れた男は咳払いで笑いを誤魔化していた。
「驚かせて申し訳ございません。僕はゼナス殿下の側仕えをしている者で、ミリアムと申します。以後お見知りおきください」
使用人の二人はその名に聞き覚えがあった。ミリアムは皇太子が重用する、唯一といっても過言ではない従者だ。二十代半ばという若さに加え、優男にしか見えない風貌なのだが、見かけに反して卓越した剣術を操る人物であるとの評判だった。その有能さは寡黙で気難しそうな皇太子をも唸らせた…らしいが、これは話が誇張されている気がする。
「妃殿下にはシェケツ村へ向かうよう、指示が出ております」
「シェケツ村というのはどちらにあるのでしょう」
「北西へずっと進んだ先にございます。途中までではありますが、僕が妃殿下の護衛に付きます」
「ミリアムがわたし達に付いてきたら、ゼナス殿下のご公務に支障が出ませんか?」
「少々不在にする程度は差し支えございません」
ミリアムはそう告げて柔らかく微笑んだ。
「それから、妃殿下にお届け物がございます」
「?」
「こちらは料理人からです。何やら挙動不審な二人組がいましたので事情を聞いたところ、妃殿下にお渡ししたくて機会を窺っていたそうです。品物と伝言を預かり、二人は持ち場へ帰しました。『お帰りをお待ちしてます。ずっと待ってますから』との事でしたよ」
ミリアムから受け取った包みは、ほのかに温かかった。きっとジルとティムが、夕食を食べ損ねたステファナのために急いで用意してくれたのだろう。二人の精一杯の気遣いに胸が熱くなる反面、ありがとうと直に伝えられないのが悔やまれた。
「お届け物はもう一つございますよ」
「え…?」
微笑みを崩さぬまま、彼はすっと右手を持ち上げる。それを合図に暗がりから、ブランカが手綱を引かれて姿を見せたのだった。
「ブランカ!」
ステファナは一目散に親友へ駆け寄り、首元に抱き付く。だがすぐに我に返り、隠しきれない期待の籠った瞳でミリアムを見る。
「もしやブランカを連れて行っても良いのですか…?」
「はい。ゼナス殿下がそうするようにと」
「……なぜ、です…?」
何故、と問う彼女の声は揺れていた。
ゼナスの口から語られた言葉の通り、ステファナを本気で厭うているなら、どうしてブランカを寄越した。厭う相手を喜ばせて何の得がある。かの白馬は親友だと彼に教えたのはステファナだ。一人と一匹の絆を、ゼナスが知らないはずはない。
ゼナスの言葉と行動は矛盾している。それに気付いた刹那、何にも例えられない衝動が腹のあたりから突き上がった。ステファナは食い入るようにミリアムを見つめたが、彼は柔和な笑みを浮かべ続けるだけで、明確な答えはくれなかった。
「僕はご命令に従っただけですから、ゼナス殿下のお気持ちまでは計りかねます」
「………」
「では出発いたしましょう。妃殿下、あちらの馬車へお乗りください」
「…はい」
ステファナは後ろ髪を引かれる思いで馬車に乗った。今一度、ゼナスと話がしたくて堪らなかった。話かけたところで、にべもなく突き放されるのが落ちかもしれない。だが、それでも良い。何だって良いから、彼の言葉を聞きたいと願った。ステファナは彼の真意を見落としてしまった気がしてならなかったのだ。
北西に位置するシェケツ村へ向かうため、三日間の行程が組まれた。駿馬で駆け抜ければ日数を短縮できるのだが、皇太子妃を護送するにあたり余裕を持った行程になっている。ミリアムが付き添ってくれたのは、宮殿を出発してから夜が明ける頃までだった。
「僕はここで失礼いたします。道中の無事をお祈りしております」
「一晩中、護衛をしてくださってありがとうございました。ミリアムもお帰りには気をつけてくださいね」
「勿体なきお言葉に感謝申し上げます」
彼の話によると、護衛につく軍人は半日毎に交代するそうだ。軍の駐屯所を中継する道程がある事も、馬車旅が長引く要因である。
「…こう言っては失礼にあたるかもしれませんが、国全体が殺伐とした雰囲気に包まれているように感じます」
馬車に揺られながらステファナは、小窓の外の景色をそう評した。
祖国のカルム王国は、どこへ行っても人々の笑顔があった。季節を問わず温かな活気に満ちていた。貧困層と呼ばれる人達を全員救うのは理想論であろう。だが少なくともステファナは祖国で、骨と皮だけになって物乞いをする民を目の当たりにした事はなかった。街から街へ移動しても乞食の姿が絶えないのは、ステファナに言わせるとあり得ない事でしかなかった。
「失礼でも何でもなく、それがこの国の真実ですよ。食べ物は貴重で値段が高騰するばかり、平民は安い給金でこき使われて…こんなの毎日頑張って死にに行ってるようなもんです」
お調子者のイバンが茶化さず、厳しい口調で喋るのは珍しかった。
「カルム王国から食糧支援があるって聞いて、大喜びした民は大勢いたんです。でも入ってきた食糧は根こそぎ貴族や商会が横取りするから、現状はあんまり変わらなくて…」
「そうだったのですか…わたしは何も知らずに過ごしていたようですね。恥ずかしい限りです」
「え!?いやいや、やめて下さいよステファナ様!というかステファナ様に今の話をしたら、皇帝陛下に直訴なさるでしょう!?そんな事したら即、斬首刑でしたよ」
「一国を統べる皇帝なら尚の事、正しく力を行使しなければいけません。臣下が改善案を進言するのは当然です」
「ほらもうそれが斬首刑なんですって!」
イバンはすっかりいつもの調子に戻っていたが、対するステファナは釈然としない顔をするのだった。
三日目の護衛を任されたのは女性の軍人であった。ステファナが丁寧な挨拶をすると、相手も笑みを見せてくれた。ステファナの祖国にも女性騎士は居たが、やはり男性より圧倒的に少なかったこともあり、物珍しげに眺めてしまった。
しかし、ダリアと名乗った軍人は鷹揚だった。任務中の私語は良しとされていないはずなのだが、ダリアはステファナと会話することに積極的で、ステファナもまた沢山お喋りできるので、ついつい舌が軽くなっていった。同乗しているイバンとアニタはもはや空気と化している。
「私の任務地は宮殿から遠く離れているので、妃殿下を拝見できる機会に恵まれた事、光栄に思います」
「わたしもダリアのように、勇ましくて頼もしい方に守っていただけて光栄です」
「はははっ!軍人にとって最上級の褒め言葉ですね。ありがとうございます」
ダリアはステファナが今まで出会った女人の中で、一番背が高かった。適当に切ったと思われる赤毛も、さっぱりした気質の彼女に似合っていたし、濃い琥珀色の双眼には力強さがある。鞘から抜くまでもなく、相当な剣豪であることが窺い知れた。己を厳しく鍛えてきた片鱗が、洗練された所作にも出ている。
「しかし妃殿下のようなお方が何故、僻地に追放などと…皇太子殿下のお考えが私には分かりませんね。オダリス陛下の悪評はよく耳にしますが所詮、蛙の子は蛙という事ですか」
従軍する人間が発したとは思えない台詞だ。下手をすれば自身の首が飛びかねない言い草ゆえに、ステファナは少々ぎょっとしてしまう。その表情を見たダリアは肩を竦めはしたものの、訂正はしなかった。皇帝本人の耳に入らなければ構わない、といった仕草である。何とも豪胆な女人だ。
束の間ぽかんとしていたステファナだが、訂正したい内容が一つあった。
「ゼナス殿下は良い方だと思います」
「…私が聞いた報告では、ゼナス殿下が自ら妃殿下を追放した事になっていましたが。失礼ながら妃殿下が窃盗罪を犯したのでないならば、皇太子殿下の処分は不当かと」
「表向きはそう見えるかもしれません」
「報告とは異なる真相があるという事ですか」
「…処分を下された直後は、わたしも混乱していて冷静でなかったのですが、思い返してみれば色々と違和感があるのです。ゼナス殿下は多くを語らない方と聞いていましたし、数回お話しした限りではわたしもそのような印象を受けました。それなのにあの時の殿下は、わたしが口を挟む余地を与えないくらい饒舌でした」
ステファナの伯父はお喋りが苦手な代わりに、どんな内容の話であれじっと耳を傾けてくれる人である。ゼナスはおじ様に似ている、と感じたステファナの感覚が当たっているなら、一方的に言いたい事だけ並べるという行為は明らかにおかしいのだ。
「殿下の真意はわかりません。でも殿下はわたしを単に追い出したかったのではなく、何らかの危険からわたしを遠ざてくださったのではと…本当のことが分からない以上、わたしは自分の予感を信じることにしました」
ステファナは迷いなく晴れ晴れと言い切った。そんな彼女を見たダリアは、ひどく優しい笑みを向けるのだった。
「…成程。妃殿下はとても素敵な考え方をなさいますね。酷な仕打ちを受けても、相手を悪く言わないその姿勢…なかなかできる事ではありません。私も見習いたいものです」
しばらく貰っていなかった率直な褒め言葉に、ステファナは頬を染める。
「軍人風情が妃殿下に偉そうなことを言いましたね」
「いえそんなっ、嬉しかったです。ありがとうございます、ダリア」
目的地まではあと半日足らずとなっていたが、残念ながらダリアの護衛はここまでであった。ダリアは「近々、別の任務でシェケツ村の付近を通りがかりますので、その際は様子を伺いに参じます」と言い残し、颯爽と馬に跨って行った。
「爽やかで気持ちの良い方でしたね。同じ女として憧れます」
「うーん…俺はいかにも上官然って感じがして、息が詰まりましたね」
「わたくしも…緊張が抜けませんでした」
ダリアを高く評価するステファナとは対照的に、使用人達は若干渋い顔をするのだった。
ステファナ達がシェケツ村に到着したのは、村人が寝静まった深夜であった。この村の外れには、古ぼけた小さな城が建っている。其処はゼナスの姉であるルイーズ皇女が、かつて生活していた城だった。当のルイーズ皇女は、宮殿に近寄らなければ何処で暮らそうが構わないでしょう、との言い分を通し各地の城を転々としているそうだ。シェケツ村の城からは三年ほど前に退去したらしい。
だがいくら皇女が住んでいたと言っても三年もの間、人の手が入っていなかった城は住めたものではない。しかも時刻は真夜中。今から荷解きや掃除をするのは億劫である。ステファナ達はとりあえず寝床の周辺だけを簡単に片付けて、今夜はもう休むことにしたのだった。