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 気がつくと、私室の天井が見えた。


「!…お目覚めですか」


 次いで目に入ってきたのは、少し驚いた表情をするアニタだった。

 ステファナはすぐに状況が飲み込めず、ぼんやりしている。


「謁見に行く途中で、お倒れになったのですよ。覚えておられますか?」


 ステファナがまだ半分夢の中にいる様子だったため、アニタはあのあと起きた出来事について説明してくれた。


 不意にステファナの体が後ろへ傾き始めた時。真横にいたアニタのおかげで頭を打つことは避けられたが、意識を失った人間を支えるのはとても難しく、二人して床に倒れるのも時間の問題だった。

 しかしイバンが慌てて駆け寄ってくるより先に、二人の背後から助けの手が伸びていた。鍛えられた逞しい腕は、失神したステファナをいとも簡単に抱え上げたという。

 助けてくれたのはゼナスだった。彼もまた皇帝に呼ばれていたらしい。


「…では、ゼナス殿下がわたしをここまで、運んでくださったと…?」

「はい。そうです」


 音もなく登場したゼナスは、そのまま無言でステファナを運んだそうだ。


「殿下から伝言を預かっておりますが…お聞きになりますか」


 アニタの口ぶりからして、あまり良い内容ではなさそうだ。それでもステファナは「お願いします」と返事をしていた。


「…『抗っても虚しいだけだと伝えておけ』と、仰せでした」

「………」


 言葉の意味を飲み込んだ途端、ステファナの胸のあたりが少し重たくなったのだった。


 謁見に関しては有耶無耶になったようで、催促されることはなかった。ステファナが倒れた事で、一時的にでも皇帝の気は済んだのだろう。直接見てはいないが、玉座で高らかに笑っていたのではなかろうか。

 謹慎が解かれ、再び離宮で眠るようになったからといって、夜を独りで過ごすことは変わらない。しかし今夜は、疲れて長椅子に横たわっていても、なかなか眠気がやって来なかった。代わりにステファナの頭をよぎるのは、決まってゼナスのことだった。

 皇帝であり義父でもあるオダリスから何を言われても、毅然と揺らがずにいられた。でもゼナスが相手だと同じようにいかなかった。彼が発したただの一言が、ステファナの胸の中でいつまでも燻っている。

 嗚呼やはり、とステファナは吐息をつく。

 相手の人格や容姿が何であれ、伴侶という立場を特別視する傾向がステファナにはある。致し方あるまい。伴侶とは唯一無二の最愛を意味するのだと、彼女の両親が体現していたのだから。ステファナが皇太子妃となったその日に、彼女の中でゼナスは他の誰とも違う特別な存在に位置付けられたのだ。単純な好き嫌いの話ではなく、彼女にとって伴侶の肩書きがそれだけ重要という事である。

 特別な相手だから、嫌われるより好かれたいと願うのは当たり前だった。けれどもステファナはかぶりを振って雑念を払った。己は何を為すために祖国を後にしたのか、今いちど心に刻まねばならない。たとえ国中の皆から嫌われ、憎まれても、必ず果たすと決めた誓いがステファナにはある。己の願望なんて二の次で良いのだ。




 大病とは無縁に生きてきたステファナが丸一日、寝台で眠って過ごすなんて前代未聞の出来事だった。食事をしていなかった事が原因なので、しっかり食べればすぐ回復できるのだが、如何せんステファナに回される食事は雀の涙だ。これでは元気になれるものもなれない。

 起き上がるのも危なっかしい様子を聞きつけた料理人のジルとティムは、自分達に出される賄いをステファナに譲った。皇太子妃に料理人の賄い飯を提供する事に抵抗はあったが、迷っている場合ではなかった。兄の賄いは丸々ステファナの食事の足しにして、弟の分を二人でわけたのである。しかしその事を二人は黙っていた。ステファナが知れば気を遣わせてしまい、もう止めるよう言われるのが容易に想像できたからだ。

 そうやって陰ながら支えられ、徐々にステファナは快方へ向かっていった。普通に歩いている彼女の姿を遠目に発見した際、兄弟は我が事のように喜んでいたそうだ。


 ウイン帝国に嫁いでからまだ二ヶ月と経っていないのに、ステファナの体重は落ちる一方である。それでも彼女は変わらず明るかった。

 歩けるようになると早速、ステファナは親友ブランカの所へ行った。本当は一番にゼナスへお礼を伝えに行こうとしたのだが、ぱったり会えなくなってしまったのでやむなく断念した。


「同じ宮殿で暮らしているんだもの。いずれお会いできるわ。ね?ブランカ」


 主人に優しく撫でられる白馬は、気持ちよさそうにしている。


「お話ししたのはほんの少しだけど、殿下はわたしを二度も助けてくださったのよ。それにね、話し方がちょっとおじ様に似ているの。だからきっと殿下は良い(かた)だわ。それがわかってわたし、とても嬉しいの」


 事実、ステファナの愛らしい顔は花のように綻んでいる。

 イバンとアニタは楽しそうな二人(正確には一人と一匹である)の邪魔にならないよう、少し距離を置いて待機していた。そんな折、ふとアニタが後方を気にする素振りをみせたので、イバンは「どうした?」と尋ねる。


「…視線を感じた気がして」

「怖っ…と思ったけど、監視されててもおかしくないか。皇帝陛下にとっちゃ、目の上のこぶもいいところだもんなぁ」

「…口を慎みなさい」


 アニタは念のため周辺を見てくると言い、体の向きを変えた。イバンは見回りなら自分が、と言いかけたものの、無表情のアニタにばっさり断られてしまう。元々、冷淡な印象のアニタだが、同僚が相手だとそれが顕著になるようだった。




 侍女が動くのを見て、ゼナスは窓際から身を離した。

 父に用事があって廊下を進んでいたゼナスは、白馬と戯れる華奢な後ろ姿を見つけた。足を止めたのは無意識だった。ステファナの声は決して大きくなかったが、澄んでいてよく通る声質ゆえにゼナスの耳まで届いた。帝国では聞き慣れない言語でも、履修済みのゼナスには意味が通じる。だから、彼女が愚痴も恨み言も口にしないどころか、衒いなくゼナスを褒めた事を彼は理解していたのだ。

 ゼナスは険しい表情のまま、止めていた足を動かす。如何ともし難い感情が体の中を巡り、それを鎮めるのに苦心させられた。廊下に上等な絨毯が敷かれていたのは幸いだった。もしここが大理石が剥き出しになった廊下であったなら、勢い任せに踏み鳴らす足音が響いていたことだろう。


 荒々しかった歩調も、執務室が近付くにつれ鳴りを潜めていった。万が一にも父の気に障ったら面倒な事になるからだ。

 扉の前には衛兵が二人立っており、彼らによれば先客がいるとの事だった。皇帝の寵臣が来ているらしい。下品な笑い声が、部屋の外まで漏れていた。


「お取り継ぎ致しましょうか」

「………」


 ゼナスの用事は急ぎではない。出直すことに問題はなかった。しかし彼は衛兵を片手で制し、待機を命じた。廊下に静寂が落ちれば、皇帝と寵臣の声だけがとり残される。


「カルムの王女が目障りでならん!あんな細い首、片手で絞め殺せるというのに」

「お心を鎮めてくださいませ、陛下。確かに殺すのは造作もなき事…しかし、どうせ殺すならば身心を痛めつけ、苦しみもがく姿をご覧になってからでも遅くないかと」

「ほう…して、妙案でもあるのか」

「折角ですので、若く瑞々しい身体を愉しまれてはいかがですか?」

「何を申すかと思えば馬鹿馬鹿しい。余は小枝のような女に欲情などせん」

「女人としての魅力には欠けますが、新雪を踏み荒らす快感は味わえましょう」

「………」

「抵抗は許されず、苦悶の涙を流しながら純潔を散らされるのは、女人にとって最大の屈辱です。目障りな王女に相応しい罰だとは思われませんか?」

「…フン。一考に値すると言っておこう」

「ありがたきお言葉。手筈は私めが整えますゆえ、いつでもお声がけを」


 彼らの会話を最後まで聞かないうちにゼナスは立ち去っていた。此処に皇太子が居たことは決して他言するなと、衛兵に言い含めた彼は恐ろしく冷たい眼をしていたという。




 イバンが夕食を貰いに出て行ってすぐのこと。馴染みのない使用人が部屋の扉を叩いた。何でもゼナスがステファナを呼んでいるらしい。皇太子の私室に呼ばれるのは初めての事であり、とても珍しい事でもあった。彼が呼び付けるのは大抵、側仕えの男のみだからだ。その珍しさと言ったら、沈着なアニタでさえ「…珍しいですね」と小声で溢してしまう程である。しかしステファナは、これが珍事であるとはあまり分かっておらず、お礼を伝える機会がやってきたくらいにしか考えていなかった。

 半ば浮かれていたステファナだが、凍てつくような形相をするゼナスを見たら、感謝の言葉を口にするどころではなくなった。何一つ感情が読み取れない彼を前に、ステファナの心臓は嫌な音を立てる。


「端的に答えろ。正午から今まで何をしていた」


 当初よりゼナスはぶっきらぼうに喋る青年であったが、今の声は突くような刺々しさが加わっている。ステファナは掌にじわりと汗をかきつつ、素早く思考を巡らせて簡潔な言葉を選んだ。


「…愛馬の様子を見に馬屋へ行き、その後は部屋で過ごしておりました」

「正直に話せ。皇太子妃が内廷へ入って行くのを見た者がいる」

「内廷へは足を踏み入れた事もございません。皇帝陛下より禁じられているからです」


 ステファナの中で焦燥感が募っていく。オダリスならまだしも、ゼナスから糾弾される理由がまるで分からなかった。誤解を解かねばという思いが彼女を急かす。


「では何故、皇太子妃が内廷で盗みを働いていたなどという証言が出てくる?火のないところに煙は立たないと言うだろう」

「そんな…っ!」


 反論しようとするステファナを遮るかのように、ゼナスは金の冠を手に取った。


「君はこれを盗もうとしたらしいな。自分の冠が無いからといって、亡き皇妃の冠を奪うのは故人に対する冒涜だ」

「わたしはアニタとイバンと行動を共にしていました。わたしの潔白は二人が知っています」

「では聞こう。そこの侍女、お前は皇太子妃から片時も離れなかったか?」


 ゼナスに睨まれたアニタは、しばし視線を彷徨わせた後、俯いてしまった。


「……わたくしは…お側を離れた時がありました。しかし本当に僅かな時間でございましたし、もう一人の従者がお側に、」

「わかった。もういい」

「お待ちください!イバンを呼んで参ります。彼の話をお聞きになってからご判断を、」

「君には聞いていない」


 あまりに冷たく切り捨てられたステファナに、唇を引き結ぶ以外何ができたであろうか。


「実のところ、窃盗の証言に関する真偽はどうでもいい。問題はこうも頻繁に窃盗の疑いをかけられる事だ。君の人間性を疑いたくなる。ついでにこの際だから言っておく。君という存在は、私の平穏を乱す因子でしかない。私は極力、父上の怒声を耳にしたくないのに、君が来てからどうだ?父上は毎日いきり立っている。迷惑この上ないことだ」

「………」

「私の権限を以って、追放処分を下す。期間は嫌疑が晴れるまでだ。即時この宮殿から退去するように。従者の同行は許可しよう」


 何もかもが突然すぎて、訳が分からなかった。


「…聞こえなかったのか?」


 立ち尽くすステファナを金色の瞳が射る。彼女は静かにその瞳を見つめ返した。


「…いえ。聞こえておりました。仰せの通りに致します。しかしながら一つだけ、宜しいでしょうか」

「君から聞く事は何も無い。今すぐに去れ」

「………」


 僅かな慈悲さえ与えられなかった。それでもステファナは気力を振り絞って、口角を持ち上げる。頭の中はぐちゃぐちゃにこんがらがっていたけれど、必死に微笑みを浮かべた。微笑と共に一礼することで、失神した時に助けてもらった感謝を何とかして伝えようとしたのだ。だがゼナスはというと、瞬きを一つしただけであった。

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