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ステファナが私室でぽつんと食事を摂るようになって、そろそろ一カ月が経とうとしている。祖国では毎日家族みんなで食卓を囲んでいたから、独りの食事は未だに不慣れだ。かと言って、皇帝から罵倒されながらの食事も心を擦り減らすだけなので、孤独なほうがまだ良いのかもしれない。
「もうじき冬が来ますね。ウイン帝国は寒さが厳しいと聞きますが、雪はどれくらい積もるのでしょう」
食事を終えたステファナは、食後のお茶を用意しているアニタに尋ねた。アニタは手を休めることなく、淡々と聞かれた事について答える。
「北へ行くほど豪雪になりますが、帝都はそれほどでもありません。ですが夜間の冷え込みは、ここも厳しいかと思います」
「夜はしっかり暖かくして眠らないといけないという事ですね。忘れないようにします」
ウイン帝国へ嫁いで初めて迎える冬はどのようなものになるのだろうか。明日の予測もつかない日々だが、祖国で過ごしたようにはいかない事だけははっきりしていた。
宮殿での暮らしは辛抱の連続だった。食事が簡素なのは世情も関係するのだろうが、ステファナの着る物まで日に日に貧相になっていった。最近になって判明した事だが、衣装棚に仕舞っていた衣服が減っているのだ。着付けてくれるアニタがこの異変に気付いた時、刺繍が多く施された比較的豪華な服は軒並み無くなっていた。残っているのは地味な色で流行遅れの古着ばかりである。
けれどステファナは、この件を誰にも口外しないようアニタに指示した。侍女長に報告すれば、いつぞやみたいにアニタが一番に疑われてしまう。ステファナに仕える事だけでも一苦労なのだ。これ以上、重荷を増やしたくなかった。仮にアニタが盗んでいたとしても、金銭に困って売り払ったのなら咎めないつもりだった。
そういう理由で着飾ることができない為、ステファナが廊下を歩くといつも、他の使用人達からくすくす笑われた。夜伽が無いことも既に知れ渡っており「あんな貧乏くさい姿では無理もない」なんて影で言われている始末だ。ゼナスとは怒らせたきり会っていないし、彼が離宮の前を通りかかることすらない。
ステファナの心が休まる場所は、ブランカのいる馬屋だけであった。彼女は頻繁に馬屋へ足を運び、愛馬の毛を梳いてやりながらお喋りをしていた。
「ここは夜がとても冷えるそうよ。でもあなたは雪の中でも楽しそうに走っていたから大丈夫かしら」
人間のお喋りに馬が言葉を返す訳はないが、ブランカは主人の声に合わせて小さく鼻を鳴らしたり、尻尾を揺らしたりする。
「今日はね、書庫で本を読もうと思ったのだけど許可が下りなかったの。貴重な蔵書を手荒に扱われては困るからって」
ステファナは馬屋にいる時のみ、母国語を使った。しかもブランカにだけ聞こえるような囁き声である。愛馬と会う一時くらいは、他人に気兼ねせず喋りたかったのだ。しかしステファナは誰も聞いていないとしても、後ろ向きな愚痴を語ることはしなかった。
「本が自由に読めるのも当たり前の事ではなかったのね。自分が持っていた幸せがいかに沢山あったのか、ここへ来てからうんとよく分かるようになったわ」
空を見上げて微笑むステファナに、ブランカが擦り寄ってきた。まるで慰めてくれているかのような愛馬の仕草に、ステファナは笑みを深めたのだった。
馬屋に着くまではアニタが一緒だったが、彼女は片付けなければいけない雑用があるとの事で離れていた。しかしなかなか戻って来ないので、ステファナは馬屋の管理人に言付けを残し、一人で廷内に引き返すことにした。
アニタの姿を見つけたのは、私室に戻る道中であった。彼女は侍女長と他数名の使用人に囲まれていた。良からぬ気配を感じたステファナは歩く速度を上げる。
アニタとの距離が縮まるにつれ、彼女を叱責する声も大きくなっていく。目を凝らしてよく見てみれば、アニタの両頬は赤く腫れていた。
「これは何事ですか」
人集りに辿り着いたステファナは背後から鋭く問いかける。すると侍女長のクロエはゆっくり振り返り、厳しい顔を向けてくるのだった。
「妃殿下。この者が盗みを働いていると知りながら何故、隠蔽しようとしたのですか。場合によっては妃殿下も同罪とみなされますよ」
消えた衣装達のことを言っているのはすぐにわかった。だからといってステファナが罪に問われたり、アニタが殴られる謂れは無いだろう。
「わたしはアニタが盗むところなど目撃していませんし、盗みに加担してもいません」
「でしたらすぐにご報告すべきではありませんか?」
「盗まれた衣装は全て、わたしが祖国から持参してきたものです。持ち主であるわたしがもう良いと思っているのですから、アニタへの叱責は必要ありません。ましてやこのように暴力で自白させるやり方はいけません」
「………」
クロエは忌々しそうにステファナを見つめた後、踵を返した。
追及から解放されるとステファナは真っ先にアニタの怪我の程度を確認しようとした。しかしアニタ本人がそれを手で制したのだった。
「…わたくしのことは庇わなくて結構です。余計惨めになるだけですから…」
痛々しく頬を腫らしながら、アニタはそう告げる。でも、そんな事を言われて大人しく頷ける人間だったら、ステファナは宮殿で孤立していなかっただろう。
「それは聞けないお願いですね。何度だって庇いますよ」
「わたくしは望んでいません」
「仕えてくれる者を守るのは主人の責任です。アニタの望みとは違うとしても、そうしなければならない事なのです」
「…侍女長は皇帝陛下から贔屓にされています。楯突いた分、ご自身の首を絞めるだけです」
「自分の首が絞まるからといって、一方的な暴力を見過ごす言い訳にはなり得ませんよ」
「………」
ステファナは終始穏やかに話したものの、アニタは目を伏せて黙ってしまった。腹を立ててしまったのだろうか。だとすればステファナは此処へ来てから、他人を怒らせてばかりだ。
翌日、ステファナは朝の会議に招集された。その場にて彼女は五日間の謹慎処分を下されたのだった。使用人を不当に扱った罰だという。
クロエは涙声でこう訴えていた。
「私は妃殿下のためを思い、部下を叱責しただけですのに私の誠意は伝わらず、かえって犯人呼ばわりされたのです…」
心苦しそうに台詞を絞り出すクロエは、相当な演技派であった。無論、ステファナは事実と異なることを主張したが、話すだけ無駄だった。カルム人の言う事など信用ならないと怒鳴られて終いである。
「身を粉にしてそなたに仕える者を、盗人と決めつけるとは傲慢な。恥知らずのカルム人め!」
出身国を理由に罵倒されるのはとても悲しい。祖国を大切に想う気持ちが強ければ尚更である。
ステファナが濡れ衣を着せられ悲しみに耐えている時も、その場にゼナスは居なかった。
たかたが五日間の謹慎なら大した事は無い…というのは見当違いである。オダリスが命じた謹慎には、食事抜きの条件がついていた。つまりステファナは五日間、私室から出られない事に加え、パンのひと欠片すら与えられないのだ。
嫁いでから満足に食べていない彼女に、断食の罰は辛くのし掛かかってくる。彼女の体調を案じたイバンは、こっそり食べ物を差し入れようかと提案した。ところがステファナは気遣いに感謝しつつも、その提案を受け入れることはしなかった。
「わたしを助けたが為に、罰せられてはいけませんから」
ステファナがアニタを庇うのは良くて、その逆は駄目だというのか。イバンはそう食い下がるも、優しく諭されてしまうのだった。
「わたしが皇太子妃だからこの程度の罰で済んだのです」
高い身分も後ろ盾もない使用人が皇帝に逆らえば命の保障は無い。あのオダリスの事だ、使用人など塵を処分するような感覚で殺されるだろう。イバンは反論できず、押し黙るほかなかった。
私室での軟禁が始まると使用人と言葉を交わす事も禁じられ、ステファナは孤独でもの寂しい時間を過ごさなければならなかった。私室に置いてある本はとうに読み終えてしまったし、刺繍をしようにも布と糸が少なくて、半日も持たずに無くなってしまった。
そして厄介なことに動き回らなくても腹は空いた。水差しだけは置かれていたが、水だけで腹が満たされることはない。空腹を誤魔化すのも限界があった。一日、二日と日を追うごとに立ち上がるのも、ただ座っているのもしんどくなり始めた。三日目には頻発する目眩で立っていられなくなった。
横になっていても腹の虫は鳴き続ける。ステファナは這うようにして寝台脇の机に置かれた水差しを手に取った。思うように力が入らず、杯を持つ手が小刻みに震える。両手で杯を支えながら水を口に含んだステファナだったが、ぱちりと目を瞬かせた。飲んだ水が甘かったのだ。気の所為かと思い、再度飲んでみるが間違いなく甘味を感じた。香りはないのでこれは多分、砂糖水なのだろう。
誰がしてくれた事かは分からない。でも、誰かがステファナを思い遣ってくれたのは確かだった。その気遣いが、どれだけ彼女を力付けたことか。
また明る日は透明な水から果実の風味を感じた。混ぜられた果汁は少しだったのだろうが、辛い空腹に耐えている彼女には、沁み入る甘味であった。
こうしてステファナは、五日間を乗り切った。すぐにでもお腹いっぱいに食べたかったが、空きっ腹にいきなり食べ物を流し込むのは良くない。まずは重湯からという事で、アニタが既に用意してくれていた。
重湯をゆっくり飲んでいたステファナは、恐る恐るといった感じで部屋を覗く二つの頭を発見した。
「あら…?そこにいるのはジルとティムですか?」
ステファナが呼びかけると、二人は戸惑いがちに出てくるのだった。ジルとティムは、件の料理人である。ジルが兄で、ティムが弟だ。
「どうぞ中へ入ってきてください」
皇太子妃の私室に来るなんて、初めての経験なのだろう。兄弟は落ち着かない様子で指をもじもじさせている。
「し、失礼いたします…」
「あのう…お加減はいかがでしょうか?」
「空腹なだけで、あとは元気ですよ。もしかして二人がお水を準備してくださいました?」
「は、はい…そうです」
「あれくらいしか、思い付かなくて…」
ステファナは自分の予想が当たると、それは嬉しそうに相好を崩すのだった。
「次は何味だろう?って、わくわくさせてもらいました。二人のおかげで辛抱の時間が短くなったんです。本当に感謝しています」
明るさを失わないステファナでも、今日ばかりは上手く声が張れていなかった。腹に力が入らないのだから無理もない。ジルとティムはぐっと歯を食いしばって涙を呑んだ。泣くのを堪える兄弟を見たステファナは、ふっと目元を和らげた。
「良いのですよ。民の苦しみはこんなものではないはずです。困窮の一端を体験できたと思えば、貴重な五日間でした」
兄弟は言葉を失くした。いたく感動したからだ。
こんな酷い仕打ちをされて何故、帝国の民を憂う事ができるのか。どうしてこんなに、優しく微笑む事ができるのか。どれだけステファナが奮闘しようとも、ここが閉鎖された宮殿である限り、国民は彼女の努力を知る由もないというのに。
健気すぎる姿に、兄弟は再び涙が込み上げてきた。このまま留まっていれば溢れてしまうのは間違いなかったので、ジルとティムは食べ物を持ってくるという名目で彼女の部屋を後にするのだった。
鼻を啜りながら小走りで厨房へと戻る二人。その道すがらで信じられない会話を耳にした。
「オダリス陛下のご命令だ。皇太子妃を連れて参れ。即刻だぞ、クロエ侍女長」
「かしこまりました」
ジルとティムは足を止めて、互いを見合う。涙が引っ込んだ代わりに、二人には怒りの形相が浮かんでいた。
今、ステファナは部屋を歩き回る力もないほど疲弊している。謁見なんてとんでもない。彼女の部屋から謁見の間まで、どれだけ離れていると思っているのだ。仇国の王女なんぞの近くにはおれん等と文句を吐き、義娘の部屋を遠ざけたのは皇帝だった。知らない筈はない。いや、だからこそか。いくらでも苦しめば良いと、底意地の悪い笑みを浮かべているのだろう。
だが、下働きの料理人でしかない二人がいかにステファナを案じたところで、状況が好転することはない。ジルとティムはそれが悔しくて、遣る瀬なかった。
皇帝が呼んでいる事を知らされたイバンは、二人と似たような反応を示した。アニタのほうは表情に変化が無かったものの、実は腹の前で重ねた手に力が入っている。
今すぐ謁見するのは難しいと訴えても、侍女長に冷たく却下されてしまう。それどころか苛立ちながら急かされる始末で、ステファナは無理を押して支度しなければならなかった。着替えるだけで息が乱れたのは初めてだった。
着替え終えたら間髪を入れずに部屋から追い立てられた。アニタに支えてもらうが真っ直ぐ歩くのが難しい。というより足が床についている感覚が無い。それに加えて、やけに周りが暗くて前方が見えない…そんな異変を感じたところで、ステファナの記憶は途切れている。