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ゼナスと一緒に朝陽を眺めたステファナは、その事を早速イバン達に話していた。しかし嬉々として話すステファナとは対照的に、彼らは微妙な顔をするのだった。
「だ、大丈夫だったんですか?」
「もの静かな方でしたが、普通にお話ししてくださいましたよ?」
イバン達にとって皇太子ゼナスは、皇帝オダリスの次に近寄り難い人間である。下々の者は許しがあるまで面を上げてはならないし、許しを得たとしてもおいそれと声を掛けられない厳つい雰囲気があるのだ。普通にお話しなんて、考えられない状況だった。
「でも精いっぱい見上げないと目が合わなかったので、それは少し苦労するかもしれません。次は座ってお話できないか、お尋ねしてみようかしら?」
「…すごいですね。ステファナ様…」
イバンにしてみれば、どこからそんな勇気が出てくるのか、不思議でならなかった。
「座ってお話」する機会は、予想外にはやく訪れた。
同じ日の朝食の席でのことである。皇太子は例の如く無言で、皇帝は不機嫌そうではあったものの、珍しく静かに食事が進んでいた。今朝は平穏に済むかもしれない、というステファナの淡い期待は、次の皿が運ばれてきた直後に打ち砕かれる。
彼女の前に置かれた皿には四枚のハムがのっていた。ところが四枚とも、見るからに傷んでいたのだ。その証拠に酸っぱい変な匂いが鼻を刺激する。流石にこれは食べられそうにない。
ステファナが手を止めていると、すかさずオダリスが彼女を責め立てるのだった。
「我が国の食糧難を知りながら、用意されたものを食べぬ贅沢は許されまい」
「…おっしゃる通りですが、食の基本は健康を作ることです。食べることで健康を損なっては本末転倒ではないでしょうか」
「余が召し抱える料理人に不手際があったと申すか?ならば彼らに厳罰を与えねばならないな」
「っ…」
「これを作った料理人を連れて来い」
下卑た笑みを浮かべるオダリスに対し、ステファナは初めて言葉に詰まった。ここで己の主張を通せば、料理人が罰せられてしまう。仮にも皇族相手に腐った食べ物を提供したのだから、本来ならば処罰が必要だ。けれども、連行されてきた料理人達が可哀想なほど顔色を真っ青にしているので、ステファナは同情を禁じ得なかった。料理人の二人はまだ少年だった。下働きであるが故に、嫌な役目を押し付けられても受け入れるしかなかったのだろうか。二人は皇帝ではなくステファナを見るなり、目に涙を溜めた。
「口に入れられぬものを皇太子妃へ出したのは貴様らか」
「ひっ……お、お許しを…っ申し訳ございませんでした。どうか、どうかお慈悲を…っ」
「皇太子妃が食べぬものを出した貴様らが悪い」
こんな時だけ妃扱いしてくることに怒りを覚える。いやそれよりも、自ら手を回しておきながら下らない茶番を演じて、仕えてくれる者達を絶望に突き落とすやり方が、ステファナは許せなかった。
ステファナは意を決してフォークを掴んだ。これを食べれば料理人達は容赦してもらえるだろう。そして大嫌いな皇太子妃が悶え苦しめば、皇帝もさぞかし胸がすっとすることであろう。体調を崩すのは必至だが、人命を救えるなら己ひとりが腹を下すくらい耐えてみせる。
瞼をぎゅっと閉じたステファナが傷んだハムを口に放り込む、その寸前───横から伸びてきた大きな手が、彼女の手首を掴んだ。
「っ!」
「…こちらの食欲が失せる」
恐ろしく低い声が聞こえ、ステファナが急いで左隣に目を向けると、苛立ちを露わにするゼナスの顔があった。
「隣で嘔吐されたら堪ったものじゃない。出て行ってくれ」
「は、はい…では、失礼いたします」
出て行けと言われたら、もうこの場には居れない。ステファナはすぐさま立ち上がり、足早に退室していった。その際、どさくさに紛れて料理人達も退室するよう促した。
扉が閉まる前にゼナスが皇帝へ「横にいる私の身にもなってください」と苦々しく漏らしているのが聞こえた。
ステファナの私室まで避難した後、改めて料理人の二人から話を聞いてみたが、彼女が立てた予想とさして変わりはなかった。皇帝から料理長へ、皇太子妃にだけ腐った食べ物を出せと命令があったそうだ。言われた通りにしたは良いが、料理長は罰せられる恐怖に負けた。それでこの件には無関係だった、年若い料理人を身代わりにして連れて行かせたらしい。
身代わりにされた二人は兄弟であった。二人は泣きながらステファナに謝罪した。
「申し訳ございません…っ、本当に申し訳ございませんっ。あんなものを妃殿下にお出しするなんて…料理人失格です。俺たち、妃殿下にまともな食事が出されていないことを知ってたのに、何もできなくて…」
「妃殿下が我が国へ来てくださらなかったら、厨房の食糧は底をついていました。だというのに、こんな恩知らずなことを…申し訳ありませんでした。どんな罰でも受けます」
兄弟が何度も何度も頭を下げるので、ステファナは「謝罪はもう充分ですよ」と優しく告げるのだった。
「わたしのほうこそ謝らなくては。上手く庇えなくて、恐ろしい思いをさせてしまいました」
「そんな…っ、とんでもないです!」
料理人の兄弟は首が千切れそうなくらい勢いよく横に振る。ゼナスが止めなければ、ステファナは腐ったハムを飲み込んでいただろう。たった二人のため、それも身代わりにされるような下っ端のために。兄弟はますます涙が溢れてきた。
「ゼナス殿下のお妃様が、貴女様のようなお優しい方で良かった…俺たちにできる事なんて何もありはしませんが、それでも俺たちは妃殿下の味方です」
「この国のために来てくださって本当にありがとうございます。心から感謝します」
ステファナは僅かに目を見開く。それから、じわじわと彼女の頬が桃色に染まっていった。
「…ありがとうございます。そのように言ってもらえて、わたしは幸せです。力及ばぬことは多くとも、お二人のような方達がいる限り、わたしは絶対に諦めません」
料理人の兄弟の前で、彼女は固く約束するのであった。
事の次第を知ったイバンは、無茶しすぎですよと仰け反っていた。アニタのほうは目立った反応がなかったものの、内心では呆れていたのかもしれない。
「変なものを食べてお腹を壊したら大変ですよ!医者を呼んでも来てくれるか分からないんですから…」
「心配には及びません。わたしは多少ですが医学の知識がありますので、食あたりくらいなら自力で対処できます」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。お母様から習いました。持病があるお父様のために、お母様はいつも献身的に看病なさっていたんです。弟の一人も幼い頃は病弱で、何かと手助けが必要だったのですけど、わたしはよくお母様にひっついて看病の仕方を見ていました。そうするうちに自然と覚えていったみたいです」
尤もステファナの技量は、母の水準にあと一歩届かない。母は医学書を熟読し、薬草を育てて薬を調合することまでやってのけるのだ。とはいえステファナも王女らしからぬ知識と経験があるのは事実である。
「すごいなぁ…って感心してる場合じゃなくてですねっ。ゼナス殿下が止めてくれたから良かったものの…皇太子妃が食あたりなんて事案ですよ!」
「そう、ですね…」
イバンが皇太子の名前を出した途端、ステファナは言葉を濁した。明朗な彼女にしては珍しい。
「何かあったんですか?」
「いえ。ただ少し…残念だなと」
今朝方のように会話できる機会がやって来たら何を話そうか、ステファナは色々考えていたのに彼を酷く怒らせてしまった。もう普通にお話しなんてしてくれないかもしれない。大層がっかりしている胸中に気付いた時、彼女は己の事なのに驚かされたのだった。
正直なところステファナには、彼をあれほど苛立たせた原因が分からなかった。だってオダリスの嫌がらせは今日に始まったことではない。義憤に駆られたというのなら、何故いままでは黙認してきたのか説明がつかないだろう。真横で嘔吐されるのが不快極まりない言われてしまえばそれまでだが…本当にそれだけが理由なのか。
怒らせたことを謝るのが先か、あるいは助けてもらったことへの感謝が先か。果たしてどちらが正解なのか、ステファナの頭を悩ませた。けれど悩んだ時間は徒労に終わる。ゼナスの怒りは相当大きかったのか、それ以後ステファナは食事の席に一切呼ばれなくなってしまったのだ。