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 皇太子ゼナスには、母親がいない。厳密に言えば五歳の時に死別した。

 ゼナスの母は帝国生まれ帝国育ちの人間としては珍しく、争いを好まない温和な女人であった。美しい人だったと皆は口を揃えて言うが、残念ながらゼナスの記憶は朧げで、母親の顔立ちはほとんど覚えていない。聞く話によると儚げな美女だったそうで、なるほどあの父の目に留まる訳だと思った。

 しかし強烈に記憶に焼き付いている事もある。それは、父に蹂躙される母の小さな背中だった。

 母の性格や思考は、皇帝である父と全く正反対であった。己の意に沿わぬ者を徹底して懲らしめ、非を認めさせるのがオダリスのやり方だ。たとえ相手がか弱い妻であろうと、血を分けた我が子であろうと関係ない。皇妃がほんの少しでも服従を躊躇う素ぶりを見せれば、打ち叩き、跪かせ、言いなりにした。

 泣きながら許しを乞い、皇帝に従う事を誓わされる母の姿を、ゼナスは鮮明に覚えている。忘れたくても忘れられない記憶だった。

 そうやってぼろぼろに傷つきながらも、母は皇帝の目を盗んではゼナスと彼の姉に説き続けた。


「金で他人を支配する者は、金によって身を滅ぼす。暴力で他人を支配する者もまた、暴力によって身を滅ぼす。あなた達は、あの方のようになってはいけない」


 声を震わせていた母は、三人目の子を死産した際に命を落とした。ゼナスの姉の言葉を借りるなら「母は父に殺された」のだ。子を身籠もっていてもオダリスが怒声を控えることはなく、心の休まる瞬間はなかったであろう。母は酷い難産に苦しんだ末、胎児と共に息を引き取った。死別の悲しみも癒えぬまま、姉はその後まもなく宮殿を追い出され、それから一度も会えていない。ゼナスは五歳にして、辛い孤独を味わうことになったのである。


 ゼナスは父の行いが正しいと思ったことはない。けれど同時に、母が正しかったと言い切ることもできないでいるのだ。

 母が遺した言葉は真実のように聞こえる。でもその言葉は証明されなかった。暴力で人を支配する父は今なお健在で、暴力に頼らなかった母は死んだのだから。母の言う事が正しかったのなら、身を滅ぼすのは父でなれければならないはずだ。

 姉もそうだった。ゼナスの姉は気弱な母の腹から生まれたとは思えない勇猛果敢な女人だが、父のやり方は間違っていると声高に非難したので、抵抗も虚しく追放された。

 ウイン帝国で重用されるのは善良な人間ではなく、皇帝と同じ考え方をする人間だ。皇帝を褒め称え、賛成意見だけ口にする人間は優遇され、そうでない人間は淘汰されていく。ゼナスの母も内心では父のやり方に否定的であったのに、表向きは皇帝に従い、震えながら平伏していた。オダリスの与える罰が恐ろしかったからだ。この国の人間は皆そうだ。唇は皇帝を讃えるが、その心には恐怖が常に根を張っている。

 だからゼナスは、もう誰の味方をするのが正しいのか分からなくなった。父の発する怒声をなるべく聞きたくないという思いが次第に生まれ、ゼナスは口を閉ざす選択をした。少なくとも父に逆らわないでいる間は、ゼナスに怒りの矛先が向くことはなかった。

 でも心の片隅には、亡き母の言葉がいつまでも消えずに残っているのだ。




 皇帝を否定する者はゼナスの周りから消えて静かになった。そう思っていたのだが、皇太子妃となるべくやってきたステファナは、皇帝にはっきり物申す女人であった。

 ゼナスが彼女に抱いた第一印象は「気楽そうな王女」だ。大切に育てられてきたことが見てとれた。苦痛とは無縁な生き方をしてきたのだろうとゼナスは思った。だが少女みたいに華奢なくせして、皇帝を前にしても決して屈しない強靭さを持っているのだから目を疑った。

 そもそもオダリスは条約に署名した後も、カルム王女との婚姻に反対していた。食糧問題が逼迫し、二進も三進もいかなくなって、本当に渋々カルム王国との条約に合意したのである。本心では死んでも合意したくなかったに違いない。当然、嫁いできた王女のことなんて、気に入るはずがなかった。

 オダリスは出会い頭から敵意を剥き出しにし、大国の王女を低頭させたままにした。以降もオダリスことある毎に、陰湿な嫌がらせを仕掛けたが、ステファナは微笑みながら受け流してしまう。それを横目で見ていたゼナスは「もうやめろ」と何度も言いそうになった。

 二十年も一緒に過ごしていれば、否が応でも父の性根くらい判ってくる。父は己が絶対的強者である事に拘る人間である。とにかく相手が怯えて蹲る様を見たいのだ。故にステファナも、か弱く泣いて縋りつけば父は気を良くするだろう。そこまでしても彼女の祖国のことがある為、嫌がらせは止まないかもしれないが、少なくとも著しく悪化するのは避けられたはずだ。

 しかしながら、彼女はオダリスの神経を逆撫でする態度ばかりとる。ゼナスとて、ステファナが悪者であると非難したい訳ではない。彼女は正論を言っているだけだ。皇帝の権威を振りかざし女人をいたぶる父が、人道に背いているのは百も承知である。だが、その常識はウイン帝国で通用しない事も、嫌というほど知っているから、彼女にははやく諦めてほしかった。ゼナスは母のように死んでいく人間を見るのも、父が激昂するところを見るのも、もう勘弁願いたかった。




 ゼナスは父から、離宮に行くなと命じられていた。夜伽を避けられることで、皇太子妃の肩身を狭くしてやろうとの魂胆が透けて見えるようだった。  

 大体、彼女が孕んだところで、オダリスは仇国の血が混ざった赤児を世継ぎとは認めないだろう。最悪、意図的に流産させられる可能性もあった。わざわざ命令されなくとも、ゼナスだとて彼女と積極的に関わるつもりはなかった。関わりをもった分だけ辛酸を嘗めるから、父の命令はゼナスとしても都合が良かった。

 そのつもりだったのに、ステファナと二人で日の出を眺めている己がいた。朝の乗馬に向かう道すがら、寝間着姿のステファナがふらふら歩いていたから不審に思わざるをえなかったとはいえ、奇妙な気分だった。彼女は相変わらずにこやかに微笑むばかりで、ゼナスがひどく素っ気ない態度をとっても、その笑顔は曇らなかった。それどころか、嬉しかったなどと返されてしまった。ゼナスを見て泣き出したり、何故庇ってくれないのかと怒ってくれたら、まだ対応のしようもあったのに。ああも朗らかに笑われるとどうして良いかさっぱり分からない。


 後になってよくよく考えてみると、陽が昇るのを外で待ったのも、それを誰かと眺めたのも生まれて初めてのことだった。

【補足】

ゼナスの母の名前はローズマリーです。本編に登場する予定は今のところありません。

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