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一晩中待っても、皇太子ゼナスは離宮に来なかった。来るとも来ないとも知らされなかったステファナは、うつらうつらとしながら彼の訪れを待つ羽目になった。結婚式で疲れきった体を横たえることも叶わず、疲労が大きくなっただけであった。
朝だけはステファナの目覚めを確認するために、見知らぬ侍女が離宮に入ってきた。早々に身なりを整えて、朝食の席へ急げとの事だった。朝日の眩しさに眩暈を覚えながら外へ出たところで、アニタが待っているのが見えた。今日も彼女は暗い色の髪を一つに纏めており、表情もやはり固かった。
支度部屋へ行ったものの、室内にいるのはステファナとアニタの二人だけだった。昨日は婚礼用の特別な衣装だったので数人がかりで着付けたが、普段は侍女ひとりで事足りるのだろう。アニタは黙々と着替えを手伝い、室内は衣擦れの音しかしなかった。何となく退屈で、ステファナは明るい声色で話題を振ってみた。
「今日は青い衣装なんですね。海の色のようで綺麗です」
「…お気に召されてよろしゅうございました」
「昨日伝えそびれたのだけど、わたしのことは名前で呼んでもらえないかしら。両親から贈られたこの名前が好きなんです」
「……ステファナ様のご指示であれば」
「ふふっ、ありがとうございます」
用意されていた衣装を纏い、食事の席に向かったのだが部屋に入ってすぐ、ステファナはまんまと嵌められた事を悟った。
ウイン帝国では皇帝一家にのみ、黄金色の衣装の着用が許されている。現に皇帝と皇太子のは見事な刺繍の施された金の衣装を着ていた。皇妃は既に亡くなっているが、もしこの場にいたら皇帝と揃いの衣装を纏っていたに違いない。
ステファナだとて皇太子妃なのだから当然、黄金色の衣服を着ることができる。しかし彼女だけが青い衣装を着せられ、誰の目にも明らかな仲間外れにされたのだ。事外に「お前を皇族とは認めない」と言われたも同然だった。
アニタは何か知っていたかもしれないが、彼女が一から画策したとは思えない。彼女は衣装箱に入っていたものを着付けてくれただけだ。箱の中身を見たアニタがほんの一瞬、硬直したのをステファナは目撃している。予め知っていたら、驚く必要はないだろう。演技をしているようにも見えなかった。
皇太子は沈黙を貫き、傍観に徹するつもりのようだ。片や皇帝は片方の口角を上げて、真っ青な格好で現れたステファナを眺めている。成程これは皇帝の差し金であったか。ならばここで恥じらっては相手の思う壺。ステファナは何事もなかったかのように、皇太子の横に座った。
やがて食事が運ばれてきたがそこでもまた、あからさまな格差をつけられた。主菜が乗っているはずの皿が空だったのだ。故にステファナは、他の者達が主菜を楽しんでいる時、空の皿を前にただじっと座っていなければならなかった。しかし給仕役の使用人から失笑されても、彼女は凛として俯かなかった。
空腹は満たされないまま、食事の時間が終わる。ステファナは入室した時と同様に、堂々と退室していった。廊下にはアニタとイバンが待機していて、一人だけ違う色を纏う主人に、何と声をかけて良いか考えあぐねているようだった。だからステファナは敢えて「似合っていますか?」と笑いながら尋ねる。屈託ない面持ちのステファナに、イバンの懸念は晴れたらしく途端に饒舌になった。
「よくお似合いですよ!お世辞抜きに!ここだけの話にしてほしいんですけど、頭も金で服も金ってのは、どうにも視界がちかちかして目が悪くなると常々思ってたんですよ」
「ふふっ。じゃあこれはイバンの目に優しい装いということですね」
イバンは暗い雰囲気にならなかった事に安堵するのだった。下っ端の使用人とはいえ宮殿で働いていれば、仇敵の大国から嫁いでくる王女を敵視する者が大勢いるのは知っていた。雑用ばかり押し付けられてきた人間が、皇太子妃の侍従と侍女に選出されたのも、嫌がらせに他ならない。遠い所から嫁いでくるお姫様は耐えられないだろうとイバンは諦観していたのだ。ところが、いざやって来たステファナは見かけこそお姫様然としているが、彼女の芯の強さと言ったら驚かされるばかりである。
「今日は宮殿を少し散策したいのですが、もしかして出歩くことは禁じられていますか?」
「俺たちが行ける場所なら大抵大丈夫だと思いますけど。それでよければ案内しますよ」
「感謝します。ブランカがどう過ごしているか、見に行きたかったんです」
「へ?ブランカって…?」
「わたしの大切な愛馬です」
「ああ!あの白い馬ですね」
イバンとアニタは皇太子妃を馬屋にお連れする訳にはいかないと考えていた。だが肝心の本人が「走らせてあげられないのに馬屋から出されたら、期待してしまったブランカが可哀想です」なんて言い、自ら向かう気満々だ。説得は早々に諦め、二人は皇太子妃を馬屋へ連れて行くのであった。
馬屋にいる白馬はブランカだけではなかったが、愛馬と胸を張るだけあって、ステファナの足取りは迷いがなかった。まっすぐ親友のもとへ行き、満面の笑顔を浮かべながら手を伸ばす。
「会いたかったわ!ブランカ。元気にしてた?こっちの飼い葉は美味しい?お許しが貰えたら、一緒に走りましょうね」
流暢なウイン語を操るステファナであるが、相棒に対しては母国語で話しかけた。イバン達は彼女が馬と何を喋っているか、さっぱり分からなかったものの、心底楽しそうにしているのは容易に見て取れた。心なしかブランカのほうも、甘えるような鳴き声を出している。
「あなたに紹介するわね。わたしの侍女のアニタと、侍従のイバンよ」
二人は自分達の名が呼ばれるのを聞き、目を瞬かせた。
「二人とも、嫌でなければ撫でてあげてください」
「良いんですか?」
「…わたくしは遠慮しておきます」
「アニタは動物が苦手でしたか?」
「いえ…そういう訳では」
「ブランカは賢くて優しいですから、噛みついたりしませんよ」
「………」
イバンのほうは「よろしくな、別嬪さん」と声をかけたりしてすぐに仲良くなっていたが、アニタは何やら葛藤があるらしい。けれども最終的にはステファナの笑顔に負け、そろそろと鼻面を撫でるのだった。
「二人とも馬には乗ります?」
「俺は一応、軍籍に入ってるんで乗る必要があれば乗りますよ。まあ下っ端なんで自分の馬は持ってませんけどね」
「…わたくしは父が軍人でしたので、嗜みとして習いました」
「それは良い事を聞きました。いつか三人で草原を駆けてみたいですね」
「おっ!いいですね。俺、こう見えてやればできる男なんで、結構飛ばしますよ!」
「イバンは凄いですね。わたしは早駆けがあまり得意ではないので、置いてきぼりにされてしまうと寂しいかもしれません」
「ステファナ様とご一緒する時は、合わせるに決まってるじゃないですか!」
お調子者のイバンはステファナを笑わせてくれた。しばらくその場所に留まり、彼女は牧歌的な談話を楽しんだ。
昼食の時間も再び笑い者にされるのかと思いきや、今度は食事の席に呼ばれもしなかった。正午を随分過ぎても呼ばれないので、訝しんだアニタが確認しにいくと、なんと昼食はとっくに終わった後だった。腹を空かせた主人の為にイバンが厨房まで走り、残り物を貰ってきてくれたので、どうにか空腹を紛らわすことができた。
もしや夕食も、と危ぶまれたが夕食時には声がかかった。呼ばれる方が良いのか、呼ばれない方が良かったのか判断しかねるが、何にせよ無視はいけない。ステファナは一人だけ装いが異なるのを承知で、食事の席に向かうのだった。
衣装もそうだが、主菜だけ手抜きにされるのも朝と変わらない。しかし此度は嘲笑に晒されるだけでは終わらなかった。
「カルムの王女よ。そなた、初夜を拒んだそうだな」
突如として皇帝がそんな事を言い出したのである。皇太子も、使用人達も居る面前で、だ。あまりに唐突な出来事で、ステファナは束の間呆気に取られてしまった。
「そなたの役目は世継ぎを生むことであろう。それを拒むか」
「…恐れながら申し上げます、オダリス陛下。わたしは指示された通り離宮に向かいました」
「では余の息子に非があるとでも言うつもりか」
「ゼナス殿下を咎めているのではなく、ただ事実を…」
「余の言葉を否定するのか!!」
オダリスが急に怒声を出したかと思えば、机を叩いて大きな音を立てた。彼の顔は苛立ちで歪んでいる。
ウイン帝国を統べる皇帝オダリスは、ひどく気の短い事で知られていた。皇帝の発言は絶対であり、臣下が一言でも反対意見を述べようものなら、烈火の如く怒り出す。であるからして皇帝の怒りを買いたくない廷臣達は、朝廷において首を縦に動かすだけの人形だ。会議とは名ばかりの独裁政治が、ウイン帝国の日常だった。
オダリスを怒鳴らせたが最後、誰もが床に両手をついて必死に許しを乞うた。理不尽な理由を並べ立てられ、内心では不服に思っていても皆、結局は自分が可愛いのだ。
しかしステファナは違う。何者にも屈せず、正しい事は正しい、間違いは間違いだと言い切る胆力が備わっていた。
「わたしは指示に従ったまでです。それで夜伽を拒否したとお叱りを受けるのは遺憾でございます」
残念ながら彼女の果敢さは、オダリスの怒りを更に燃え上がらせたようだった。まだ食事の途中にも関わらず、ステファナは強制的に退室させられた。
そんな出来事があっても夫であるゼナスは我関せずの態度を貫き、妃に目を向けることさえしなかった。ステファナが出て行く間際に盗み見た彼の横顔は、眉間に僅かなしわが寄っていた。
ステファナが真っ当な主張をした事は、よほど皇帝の機嫌を損ねてしまったらしく、それから十日は食事の席に呼ばれなかった。朝昼晩すべてである。もちろん食事が運ばれてくる事もなく、イバンが食べられそうな残飯を漁ってくるのが精々だった。
十日後、ようやくお呼びがかかったのだが、連れて行かれた先は食事ではなく会議の場であった。宮殿に仕える女人は大勢いるものの、親政を行う場に集える女人はかなり限定される。例外を除けば皇太后か皇妃くらいだ。だからステファナが呼ばれるというのは稀なことであった。
そこで何をされたかと言えば、碌な教育を受けていないから皇帝に反抗的な態度をとるだの、女は世継ぎを生むのが役目だの、夫をその気にさせられないお前が悪いだの、臣下が並ぶ前でねちっこく罵倒されただけだ。弁解しようにも、発言は許していないと怒鳴られ、閉口せざるをえなかった。そのまま昼食を摂る流れになったは良いが、散々罵られた直後だというのに、ステファナは食事中も嫌味な言葉を吐かれ続けた。
もはや苦行でしかない食事の席から解放されたステファナは、流石に少し疲れた表情を覗かせる。それを見つけたイバンは、部屋で休みましょうと提案するのだった。
「少し休んだら、馬屋まで散歩に行くのはどうです?」
「良いですね。ブランカと会えるのは嬉しいです」
「決まりですね!まずはひと休みといきましょう!」
そんな話をしながら私室に戻り、扉を開けた直後のことである。やや大袈裟に明るく振る舞っていたイバンが突如、顔色を失くして絶句した。
あろうことか室内が泥で汚されていたのだ。それも絨毯に泥水がぶち撒けられていた程度の規模ではない。壁のみならず天井からも黒い水が滴り、机や椅子には泥がべったり付着し、足の踏み場がないくらいのひどい汚れ方だった。ご丁寧にも衣装棚の中まで泥水が撒かれ、着れる服は残っていない状態である。
しばし呆然としていたステファナだが、彼女はすぐに気持ちを切り替えた。
「これは掃除のしがいがありそうですね。すみませんが二人とも、手を貸してもらえますか」
ひと休みどころではなくなった三人は、掃除に時間を費やす羽目になった。最初のうちステファナが掃除に加わる事に難色を示したアニタとイバンも、二人より三人のほうが捗ると押し切られ、あとはひたすら手を動かした。衣類は何度か洗濯してどうにか汚れを落とすことができたが、絨毯や長椅子についた黒い滲みは残ってしまった。
手分けして作業をする最中に、ステファナは静かな声で二人に謝るのだった。
「わたしに仕えていなければ辛い目に遭うこともなかったのに、申し訳ないです」
「ここじゃあよくある事ですよ。アニタも俺も身分が低いのを理由に、ひと通りの嫌がらせは経験してますし」
彼はいったん言葉を区切り、次いで歯を見せてにっと笑った。
「でも頑張ってるステファナを見てると、こっちも頑張る力が湧くんですよね。なので、かわいそうだから解雇しますっていうのだけはやめてくださいよ?無給は勘弁願いたいです。アニタも同じ気持ちだろ?」
「…そうですね。そういったお気遣いは不要です」
「二人とも、本当にありがとうございます。一人ではないというのは、とても心強いことです。わたしこそ、今後も頼りにさせてくださいね」
結局、ステファナ達は夕食の直前まで部屋の清掃をしていた。体は空腹を訴えているが、夕食には参加できそうになかった。着ている服は掃除をする際に汚れてしまったし、着替えの服は全て洗濯し終えたところだ。泥まみれの格好で人前に出るのは恥という以前に、相手への無礼となる。
だが、ステファナを呼びに来た侍女長に行けない旨を説明したところ、にべもなく却下されてしまった。
「オダリス陛下のご命令です。妃殿下をお連れしなければ、私が罰を受けることになります」
「…わかりました。ではお手数ですが、替えの衣装を持ってきていただけませんか?」
「申し訳ございませんが、お召し替えをしている時間はありません」
どうやらオダリスは、徹底して仇国を貶めたいらしい。泥だらけの皇太子妃を笑い者にする魂胆を察したステファナはそれ以上、何か問う事はなかった。
案の定、夕食を摂りに現れたステファナは、嘲笑の的にされた。あれこれ言われたものの彼女は聞き流し、身嗜みに関する謝罪を述べた後は静かにしていた。
動じない彼女に皇帝は業を煮やし、嫌味ったらしくこう言った。
「そなたの祖国では風変わりな香水が流行しているようだ。見窄らしい泥の匂いが、いかにも粗野なカルム人らしい」
周囲の嘲笑も誘い、孤立するステファナにオダリスは束の間ご満悦であった。しかし彼女は、どれだけ惨めに嘲られても毅然とした態度を乱さない。
「美しい花を育むのは土です。ですからわたしは花の香りと同じくらい、土の香りも好ましく感じます」
ステファナが幼い時分などは、母の傍らで泥んこになりながら、植物達の世話をしたものである。芳しい花々の香りは勿論のこと、自然を感じる香りは何でも好きだ。
期待したような反応を全く見せないので、皇帝の苛立ちは積もる一方であった。
前向きで笑顔に溢れるステファナでも、疲れてしまうことはある。彼女とて生身の人間だ。容赦なく悪意を投げつけられれば、少しずつ心は削られていく。今夜がまさにそうだった。
訪いがあるかどうかも分からない皇太子を待つステファナは、長椅子で休息をとるのがどうにも慣れないでいた。しかし今夜ばかりはものの数分で寝入ってしまった。疲弊した時くらい寝台で大の字に寝転がりたい気持ちはあるものの、生来の律儀さゆえにステファナは礼儀を無視することはできなかった。
ゼナスが夜伽に現れない事に関して、ステファナは安堵も落胆もしていない。何故なら彼女の両親が、挙式から三年が過ぎるまで白い結婚だったからだ。結婚当時、十六歳であった母の身体が成熟するまで、父は行為に及ばなかったという。子を産まぬ妃が世間から冷たい目で見られると、知らなかったはずはない。それでも父は母を心から愛するが故に、辛抱したのだ。世間体なんかより、最愛のひとの命を重んじて守ったのである。
だからステファナも、己の体が貧相で子供みたいだから、ゼナスは躊躇してしまうのだろうと思うことにした。それが都合の良い解釈だという自覚はちゃんとある。相思相愛の両親と、自分達とが同じはずがない。でも何事も良い方に捉えるのがステファナの流儀だ。おかげで不必要に頭を悩ませることはなかった。
かなり深く眠り込んでいたステファナであるが、肘置きから頭がずり落ちた拍子にハッと目を覚ました。寝ぼけ眼を窓へ向けると、外はうっすら明るくなっていた。間もなく日の出の時刻なのだろう。ステファナは上体を起こして、凝り固まった肩を軽くほぐした。もう一度眠るにしては中途半端な時間である。侍女が呼びに来るまで、まだ猶予がありそうだ。
折角なので日の出を眺めようと、彼女が思い立つのは早かった。どうせなら新鮮な空気を味わいながら見たかったので、離宮の外へ出た。衛兵すら配置されていない事が今朝は有り難かった。
空はあらゆる表情を見せてくれ、見上げる者を退屈させない。青空も星空も美しい。移り変わる雲の形も面白い。中でもステファナは、太陽が昇ってくる間際の空と、雨上がりの澄み渡る空が好きだった。素敵な始まりを予感させてくれるからだ。
期待に胸を膨らませながら日の出を待つステファナは、背後の気配にまるで気が付かなかった。
「…何をしている」
「っ!?」
突然、彼女の耳に飛び込んできた低い声に、大袈裟なくらい体が跳ねた。音がしそうなくらい勢いよく振り返れば、そこには皇太子ゼナスが立っていた。
「ゼナス殿下!?」
どうしてこちらに、と言いかけてステファナは口を押さえた。ここは皇太子のために造られた離宮だ。どうしても何もないだろう。彼女は続く言葉を咄嗟に、朝の挨拶へと切り替える。
「おはようございます」
「…何をしているかと聞いたはずだ」
ステファナを見下ろすゼナスには威圧感があった。二人の体格差では無理もないことかもしれない。加えてゼナスの眉根が不機嫌そうに寄せられているのも、仏頂面に拍車をかけていた。
しかしそこはステファナ、相手の人相に臆するような器ではない。寝起きの格好なのが気恥ずかしいだけで、彼の鋭い視線にはちっとも怯えていなかった。
「早くに目が覚めましたので、日の出を眺めようと思ったのです。殿下もお早いお目覚めですね。もしや、わたしと同じでしたか?」
「三日に一度は、早朝に乗馬すると決めている。それだけだ」
「そうなのですね。殿下も馬がお好きですか?」
「…何故そのような事を訊く」
「申し訳ございません。聞かれたくないことでしたか?」
「別に…」
事前に教えてもらった通り、ゼナスは寡黙な青年のようだ。口数は少ないし、語調もぶっきらぼうだった。でもそういうところが、どことなくステファナの伯父を想起させて、彼女は自ずと笑顔になった。
「わたしが連れてきた馬はブランカというんです。子供の頃から共に育った仲で、わたしの親友です。穏やかでとても賢い子なのです。殿下の愛馬は何というお名前でしょうか。差し支えなければ、教えていただきたいです」
「………」
えらく上機嫌な妃を見下ろすゼナスの瞳は、得体の知れない何かを見る目と同じであった。
「…君に教える道理はないだろう」
「そうですね。でもいつか教えくださると嬉しいです。あっ…日の出ですよ、殿下」
「………」
山々の向こうから朝日が昇る。日の光はどんな場所でも、誰にでも平等に降り注ぐ。果てしなく広がる美しい空は、ステファナの祖国とも繋がっている。この綺麗な夜明けを、祖国の家族も見上げているかもしれない。そんな想像をするだけでも、胸がじんわり温かくなるのだ。
「引き留めてしまってすみませんでした。ゼナス殿下と美しい景色を見ることができて嬉しかったです」
「…君は能天気な人間だな」
「ふふっ、よく言われます」
「………」
冷ややかな物言いをしても笑顔しか返ってこず、ゼナスは呆れてしまったらしい。ひとつ息を吐くと、そのまま静かに立ち去っていった。
残されたステファナはといえば、僅かでも会話できた事に喜び、ほくほくした気持ちで空を眺め続けていた。今日は素敵な一日になりそうだとさえ考えていたのだった。