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ゼナスの目の下に浮かぶ隈が日に日に濃くなっていく事を、ステファナは案じていた。即位してからというもの、彼はステファナより遅く眠り、早く起きている。ステファナが目覚める頃にはもう彼の姿は見当たらないのだ。国民が新しい皇帝に大きな期待を寄せているため、ゼナスも応えんと必死なのだろう。けれどもそんな毎日を繰り返していたら、隈だって酷くなるに決まっている。
君主が変わった直後は慌ただしくなるものである。ステファナも祖国で兄の戴冠を見届けたから、よく分かっているつもりだ。しかし兄の場合は入念な準備があってからの即位だったが、ゼナスはそうではなかった。父親を退けてすぐ皇帝となった。宮殿の混乱を収めるだけでも容易ではないに違いない。その上で貴族を取り纏め、国民の救済も進めなければいけないのだから、睡眠時間を削るしかないのだろう。
ルイーズやミリアムも心配しているようだが、休めと言っても聞かないらしい。困り果てたミリアムは、とうとうステファナに助けを求めた。ルイーズに頼むと殴って気絶させる強行手段に出てしまいそうなので、選択肢から除外せざるをえなかった。
「僕達の言葉は届きませんが、皇妃様のお願いでしたら陛下は断りません」
「そうでしょうか…わたしも二度ほどお休みするよう申し上げたのですが、あまり効果はなく…」
「僕も援護しますので、どうかお願いいたします。仮眠でも何でも即刻休んでいただかないと、陛下は倒れてしまいます」
こうも熱心に頭を下げられては断ることはできなかった。それに、ゼナスを心配する気持ちはステファナも同じ…否、人一倍である。彼女は物は試しに、ゼナスを息抜きに誘うことを決意した。美しい景色を彼と一緒に見たいと溢したのをステファナは覚えており、今日がその好機だとも思った。
「ゼナス様。今日は気持ちの良い天気ですし、少しだけお出掛けしませんか?」
昼食が並べられるのを待つ間、ステファナはそっと尋ねてみた。
「行きたい場所があるのか?」
「はい。戴冠式の日に行った草原なのですけど、とても綺麗でしたのでまた見たいと思いまして」
ここですかさずミリアムが助勢に入ってくれる。
「ああ、あそこでしたら近いですし、もう少し進めば湖もありますよね」
「まあ!湖があるのです?」
「はい。小さいですが景観は美しいですよ」
「ステファナは湖が好きか。私が連れて行っても良いが、弟と行きたいのならば今回は譲ろう」
さり気なくルイーズも会話に混ざり、ゼナスを焚き付けていた。当の本人はというと、意外にもあっさり聞き入れていたのだった。ゼナスも皆に心配をかけている事が薄々分かっていたのかもしれない。
昼食を済ませてすぐ、ステファナは乗馬用の服に着替えた。折角だからブランカものびのび走らせてあげたかったのだ。
ゼナスは先に支度を終えて待っていた。
「お待たせしました」
「いや、大丈夫だ。それでは行こうか」
「はい」
ルイーズが宮殿に残り、雑務は片付けてくれるとの事だった。これで三、四時間くらいはゆっくりできるだろう。
愛馬に跨り、爽やかな草原を駆けるのはとても清々しかった。並走しながらステファナは「あの辺りで花冠を編みました」とか「蝶が増えた気がします」など、他愛のないことを喋った。ゼナスは短い相槌を返すばかりだったが、彼女が息継ぎがてら口を噤むと「…それで?」なんて言って続きを促してきた。だからステファナも嬉しくなって、湖が見えてくるまで話し続けてしまった。
「近くにこんな素敵な湖があったのですね!」
湖に着くとステファナは声を弾ませて喜んだ。青い瞳の輝きは、湖面の煌めきにも劣らなかった。実際ゼナスは、透き通った湖の色が彼女の瞳の色に似ている、なんてこっそり考えていた。
「一周するか?」
「はい!」
湖の外周はさほど長くない。木々の合間を縫っていかなくてはならないので速度は出せないが、仮に早駆けできたなら十分足らずで一周できるだろう。
二人は湖畔を歩くために馬を降りた。愛馬の世話は護衛として同行してきたミリアム達に任せる。
「………」
「ありがとうございます」
ブランカの手綱がアニタに渡ったのを見計らい、ゼナスは無言で手を差し出した。ステファナは勿論、笑顔で手を重ねるのだった。
風の音と、鳥の囀りだけが聞こえる湖畔は長閑だ。自然と二人の話し声も穏やかなものになる。
「君が花を好むことは知っていたが、湖も好きだとは知らなかった」
「海も好きですよ。お母様は海がお好きで、家族でよく見に行きました」
「そうか」
「でも湖のほうが懐かしい思い出が詰まっている気がします」
「と言うと?」
「六歳くらいまで王宮の外で暮らしていたのですが、そのお城が湖のほとりにあったんです。正面から見るとお城が湖に浮かんでいるようでした」
ステファナは湖へ視線を向ける。その瞳には懐古が滲んでいた。
「…王宮から離れていたからでしょう。わたしたち兄弟は何のしがらみも感じることなく育ちました。泥まみれになってはしゃいで…そうやって世間の目を気にせずのびのび過ごせるよう、両親が注力してくれたのだと今なら分かります」
「………」
「わたしにとって湖とは、幼少期の幸せを象徴するものなのです」
「そうか」
不意に彼女はゼナスを見上げた。それから、ぱっと破顔するのであった。
「ですが今日、幼少期だけの思い出ではなくなりました。ゼナス様と一緒に散策できて幸せです」
「…っ、それは良かった」
「はい。とても素敵な思い出になります」
一周し終えた後は、木陰に腰を下ろして足を休めた。ミリアム達の姿は見えなかったが、気を利かせて二人きりにしてくれたに違いない。
「今度は昼食を持ってきても良いかもしれませんね。ゼナス様はお外で食事をなさった事がありますか?」
「いや…無いな」
「屋外での食事はひと味違う感じがしますよ」
「では今度、試してみよう」
「はい。是非お試しください」
「その時は君が作ってくれるのか?」
「わたしが作るより、本職の料理人にお願いしたほうが美味しいですよ」
「いつもと違う場所なら、いつもと違うものを食べても良いだろう」
「ふふっ、それもそうかもしれませんね。ゼナス様のお口に合うものが作れるよう、腕を磨いておかなくては」
心地よい陽気に加え、隣からは耳に優しい澄んだ声がするので、ゼナスは眠気を覚え始めた。目を瞑ったらすぐにでも眠ってしまいそうだった。折角ステファナと来ているのに眠るのは勿体ない。そうは思えど抗いがたい猛烈な眠気に、彼の眉間には皺が寄る。ステファナは彼の葛藤を見逃さなかった。
「ゼナス様」
「…なんだ?」
「膝をお貸ししますから、どうぞ横になってお休みくださいませ」
束の間、ゼナスの目が少しだけ冴えた。似たような事が春雷の夜にもあった気がする。霞がかった頭でゼナスはぼんやり思い返した。
「横たわったほうがお身体も楽ですよ」
「………」
いやしかし膝枕なんて母にもしてもらった覚えがない。ゼナスは抵抗を感じたが、あまりの眠たさに思考力が低下していたみたいだ。最終的には吸い寄せられるように、彼女の太腿に頭をのせていた。
「…すまない」
「いいえ。お気になさらず眠ってください」
ステファナの言葉を聞き終えるより先に、ゼナスは瞼を閉じていた。最後まで届いていたかも怪しい。けれども彼女がそっと髪を撫でてくれたのは、落ちゆく意識の中でも感じとっていた。温かな手のひらが快く、思わず縋りたくなる。いやとっくに縋っているなと思い至る頃には、眠りに落ちていたのだった。
次にゼナスが目を開けた時、太陽の位置は大きく変わっていた。恐らく二時間以上は眠っていたと思われる。目覚めたものの彼の意識は覚醒しきっておらず、ぼんやり何処かを見ていた。
「…ゼナス様?もう起きられますか?」
「…うん」
ステファナの膝を借りている事も忘れているらしい。少し崩れた金の髪と、ぽかんと小さく開いた口が、とても無防備だった。
彼が滅多に見せない隙だらけな姿に、ステファナの口角は緩む。大の男に対して使う表現ではないが、可愛いと思ってしまう。
「…ステファナ」
「はい」
「…君の一番は今でもあのじゃじゃ馬か」
「…はい?」
突拍子もない問いかけに、ステファナは首を傾げた。はてさて何のことだろうかと、思案を巡らせる。しかし彼女がまだ考えている途中なのに、ゼナスは勝手に早合点したらしい。
「…私は君にしか抱かない感情があるのに、君は違うのだな」
ゼナスは己が何を口走っているか、ちゃんと理解していないのだろう。心に浮かんだ想いをそのまま口に出しているような稚拙な感じがする。だが、それはつまり彼の剥き出しの本心という事にならないか。そうであるなら、ステファナはひと欠片も取り零したくなかった。
彼女はゼナスの述べた台詞を反芻する。彼の言うじゃじゃ馬とはブランカの事だ。しかしステファナの一番とは、何と比較しての番付なのか。ブランカは紛れもなく親友だが、それだと前後の会話に齟齬が生じる。それに「今でも」という事は、以前にステファナが同じような台詞を言ったに違いない。
『ブランカったら…!わたしが一番好きなのはあなたなのだから、拗ねなくていいのよ』
ステファナは「あっ」と声を出した。ゼナスの愛馬を褒めたら、ブランカがいじけてしまった一幕を思い浮かんだのだ。もしかしてゼナスは、あの時の何気ない台詞にずっと不満を覚えていたのだろうか。先程から僅かに唇を尖らせているのは、そういう理由なのか。ステファナは心臓のあたりがむずむずした。
「…ふふっ」
「なぜ笑う」
何故だなんて決まっている。愛おしいという感情が芽吹いたからだ。ステファナは面映そうに微笑んだ。
「一番の親友はブランカでも、わたしがお慕いしているのはゼナス様だけですよ」
「………」
次の瞬間、ゼナスは飛び起きた。ようやっと眠気から覚醒することができたようだ。今し方の記憶もしっかり残っているみたいで、彼の顔はみるみるうちに赤みを帯びていく。ゼナスの照れ様は波紋のようにステファナにも拡がり、二人して赤面する羽目になった。
「………充分休んだから戻ろう」
「あっ…申し訳ありません。すぐには立てないです」
気持ちが浮ついて、どうにもじっとしていられなかったゼナスは、とにかく動こうとした。しかしながら、膝を貸したまま姿勢を変えられなかったステファナの足は痺れ、感覚を失っていた。手を借りれば立ち上がることはできるかもしれないが、こんな状態で乗馬するのは危険だった。そんな当たり前のことを失念するほど、ゼナスの判断力は鈍っていた。
「………すまなかった」
「大丈夫ですよ。わたしが言い出した事ですし、少ししたら治りますから」
「………」
「………」
沈黙がもどかしい。静かなのは嫌いではないはずなのに、今はてんで駄目だった。こういう時、ゼナスは口が達者ではない己が憎らしかった。
しかし、沈黙は彼が思ってもみない仕方で破られることとなる。
「わたしはゼナス様を、心からお慕い申し上げています」
それはあまりに唐突であった。直向きすぎる瞳を正面から向けられて、ゼナスは完全に面食らう。彼を見上げるステファナの唇に微笑は無く、熱誠のみが在った。
「わたしが初めて恋をし、最後まで愛するお相手は、ゼナス様です」
ゼナスの顔から引きつつあった火照りが、再熱してしまう。だがしかし、ゼナスは目を逸らさなかった。ステファナが一生懸命に想いを伝えてくれているのだから、同じだけの誠意を返したいと思った。恥ずかしいからといって閉口している場合ではない。
「…ステファナ」
「はい」
名を呼んだだけで、白い肌が色付く。ああ、なんて可憐で、健気で…愛らしいのだろうか。ゼナスの小難しい顔が晴れ、口元に笑みが刻まれる。口下手なはずの彼だが、不思議なことに清流の如く言葉は紡がれた。
「君が和平を願ってくれたから。私はステファナという最愛の存在に出会えた。この国を…私を選んでくれて、心から感謝している」
彼から「最愛」の言葉を贈られたステファナは、満開の笑顔を咲かせるのであった。
この日の晩は久しぶりに、夜が深まる前にゼナスが寝室に来た。今晩はゆっくり休んでもらえると、ステファナが安堵したのも束の間。彼は初めてステファナに夜伽を求めた。かなり控えめだったが、間違いなく「君がほしい」と望まれたのである。
以前、夜伽までは求めないと話していた手前、面と向かって告げるのはばつが悪い事だった。しかし、気恥ずかしさなぞ取るに足らぬと振り切れるほど、ゼナスの心は彼女を求めてやまなかったのだ。
受諾するか拒絶するか、選択の権利はステファナが握っていた。ゼナスは決して無理強いせず、静かに待つのみだった。でも彼の真剣な双眸には、初心なステファナにも分かるくらいの熱情があった。彼女はその熱に包まれたいという未知の期待に駆られた。
湧き上がった衝動に逆らうことなく、ステファナは素直に身を寄せる。己の全部を明け渡すことに、微塵の迷いも無かった。恥ずかしさや少しの恐怖はあれど、余す所なく差し上げたいと願う気持ちは真だった。
「…本当に良いんだな」
ステファナは「はい」と頷く。ゼナスは「大切に、する」と囁いて、真顔を崩した。それは嬉しいとも切ないともとれる、繊細な微笑であった。




