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 ゼナスが皇帝に即位した後も、寝起きする場所は変わらず彼の執務室だった。理由は単純で、皇帝の私生活の場である内廷を改装しているからだ。オダリスが女を連れ込んでいた場所をそのまま使う気になどなれない。

 余談になるが、ルイーズは内廷にまで間者を潜り込ませていたそうだ。オダリスに姉弟以外の子が生まれなかったのは、実のところルイーズが仕組んだ事だった。ゼナスの他に皇子が生まれでもしたら不都合な事が多くなる。何より、継承権争いは醜悪だ。


「次から次へと内廷に囲われる女をいちいち不妊にさせるのは効率が悪い。だったら男を不能すれば良い話だ。なに、微弱な薬を混ぜた程度だよ。死ぬのは子種だけ、現に父上は憎たらしいくらいぴんぴんしていただろう?皇族は無駄に頑丈な人間が多いな」


 とはルイーズの弁だったが、すらすらと語られた内容にゼナスは薄ら寒いものを背筋に感じた。


「私が皇妃と認めたのは、母とステファナだけだ。他の者に皇妃は名乗らせないさ」


 際どい手段であったものの、根底にある願いは姉も弟も同じなのだ。

 正しい道を歩む人間が、正しく報われる国へ。もう誰も恐怖の音に慄くことが無いように───




 戴冠式が明日に迫った夜、ステファナはゼナスから頼みがあると切り出された。彼女が否と言うはずもなく、何でも仰ってくださいと期待の眼差しまで向けている。

 きらきらした瞳に見つめられ、ゼナスは落ち着かない心地になった。しかし此方から言い出した癖に、だんまりを決め込むことはできない。


「…君に、明日使う冠を作ってほしいのだが」

「戴冠式で使う王冠をですか?」


 小さな声で告げられた内容にステファナは驚いた。それから、ちょっと悔しそうに謝るのだった。


「申し訳ありません。わたし、鍛冶の訓練はしていなくて…」

「…ん?」

「今から鍛冶屋で修行しても一夜漬けになってしまいますし、戴冠式に見合う物を作る自信がありません」

「違う。そういう事ではない」


 話がどんどん明後日の方へ逸れているので、ゼナスは焦った。己が言葉足らずだという自覚はあるが、彼女の勘違いも中々である。明日までに金を加工して冠を作ってこいなどと、依頼するほうがおかしいだろう。


「冠というのは、結婚式で君が作っていたような冠のことだ」


 足りない言葉は補われたが、ステファナの驚きは余計に増した。結婚式での冠といえば、その辺に生えていた草で急遽編んだものである。最悪、ステファナの冠は無くても式は成り立っただろう。しかし戴冠式となれば、そうもいくまい。大前提として皇帝が戴冠式でかぶるのは、皇族に代々伝わってきた王冠と決まっている。


「それでは伝統的な慣習を破ることになってしまいます」

「構わない。皆にも伝えてある」


 ゼナスは賛同を得たとは言わなかった。事実、廷臣達には軒並み渋い顔をされた。反発の声はゼナスが睨みつけて黙らせただけである。


「ですがやはり…」

「君は良くて、私が駄目という事はないだろう」


 そうは言っても結婚式と戴冠式では、冠の重要性が全然違う。比較にもならない。ステファナのように冠が紛失したという理由でもなさそうだし、彼が花冠に拘る事情がわからなかった。ゼナスの頼みなら是非とも応じたいが、これは彼の評判に直結する事だ。ステファナは疑問を残したまま、返事をすることはできなかった。


「………」

「すまない。困らせるつもりはなかった」


 困り果てて何も言えなくなってしまった彼女を見て、ゼナスは謝罪を口にする。その寂しげな表情に、ステファナの胸が小さく痛んだ。


「皇帝になるならば君の手で、と思ったんだ。他の者には頼みたくない」

「わたしが陛下を…?」

「一つ聞くが、君は結婚式での装いを恥だと思っていたのか」


 ステファナは「いいえ」と首を横に振る。苦しむ民のことも考えず豪華に着飾るより余程良い。本心からそう思っていたから恥ずかしさなんて感じなかった。


「私もだ。君の装いを恥ずかしいとは思わなかった。凛と佇む君は、綺麗だった。良き君主になるために必要なのは、身を金で飾る事ではない。大切なことを体現してくれた、君を見習いたいのだ」


 静かな声音とは裏腹に、ステファナを見つめる瞳には熱意がこもっていた。その真剣な態度は彼女の心にまっすぐ届いたのだった。


「…そのように言ってくださってありがとうございます」

「では、頼まれてくれるだろうか」


 ステファナははにかむような笑顔を浮かべながら頷く。


「はい。精一杯、務めさせていただきます。戴冠式に見合う、立派は花冠をお作りしますね。腕が鳴ります」

「ありがとう。楽しみにしている」


 折よく季節は春である。花冠を編むにはうってつけの時期だった。どの花を使うか、算段をつけるだけでも胸が弾んでくる。ステファナは途端に嬉々として構想を練り始めた。

 彼女の邪気の無い横顔を眺めるゼナスも、いつとはなしに表情を緩めていたのだった。




 次の日、ステファナは朝早くから宮殿の外へ出掛けていった。戴冠式までに余裕を持って帰らなければいけないので、花冠を作るのは近場の草原を選んだ。

 侍従と侍女を伴って愛馬で駆ける最中に、ステファナは弾むような声で言った。


「三人で草原を駆けてみたいと話していた事が叶いました。折角ですからイバンの早駆けを見てみたいです」

「いやいやステファナ様を置いて先に行ったら、陛下から厳罰が下りますよ…」

「どうせ大した事ないのに、良い格好をしたかっただけでしょう。大口を叩くのはみっともないわ」

「大した事ないってなんだよ!?」

「だって貴方、わたくしより遅いじゃない」

「それはアニタを一人にしないっていう俺の優しさだよ」

「余計なお世話ね」

「いっそのこと三人で競争します?」


 ステファナの口調はどこまで本気かわからない、のんびりしたものだったが、二人を慌てさせるのには充分であった。万が一にでもステファナが怪我をしようものなら、ゼナスが容赦しないだろう。二人はそれが簡単に想像できてしまった。しかし間もなく目的地が見えてきたので、競争はおあずけになったのだった。


 草原には色とりどりの花が咲き乱れていた。庭園のように人の手で整えられた花畑も見事だが、自然のままに咲き誇る様もやはり美しい。心が洗われる景色につい見惚れてしまう。同時に、ゼナスの隣でこの景色を見られたらとも思った。


「ステファナ様からお誘いしてはいかがですか?」


 思い浮かんだ願望が、声に出ていたらしい。アニタに言われて気づいたステファナは、赤面しながら口元を隠したが遅すぎた。


「陛下もきっと喜ばれますよ」

「…でも陛下には退屈かもしれません」

「ステファナ様がお好きなものなら絶対に大丈夫です。わたくしが保証いたします」

「どうしてアニタは分かるのです?」

「お二人を見ていたら分かります」


 アニタはやけに自信満々であるが、ステファナにはその根拠が今ひとつ理解できなかった。不思議そうな面持ちのまま、花冠を編む作業に取り掛かるのだった。まだ頬に少し赤みが残っているのを知るのは、側で見守るイバンとアニタだけである。


「しかしすごいなぁ。俺、花冠って言ったら白詰草で作るものだとばかり…」

「集中されているのだから静かにして」


 いつしか作業に没頭していたステファナは、二人の会話が聞こえていないらしかった。休むことなく動き続ける手元を覗き込み、イバンが感嘆の声を漏らしたのも無理はない。ステファナは布と針金を駆使し、茎が折れやすい花でも巧みに編み込んでいた。白詰草を編むより、量感も彩りも華やかである。白色の花を土台にしつつ、調和が崩れないよう鮮やかな色の花も取り入れている。たかが花冠なんて馬鹿にできない程、立派な出来栄えだ。

 イバンとアニタは完成した花冠を見て、思わず拍手をしていた。


「なんとか思い描いた形にできました」

「いやはやこれは見事ですよ!陛下も大喜びですって!」

「萎れないうちに戻りましょう」

「そうですね。わたしも身支度がありますし、急ぎましょうか」


 折角の力作が萎れては元も子もない。花冠は持ってきた木箱に仕舞う。馬で駆ける際も形が崩れないよう気を遣わなければならなかった。ただ、帰りのほうが時間を取られるのは想定済みである。ステファナ達はさして焦ることなく、来た道を引き返したのだった。




 結婚式と同様に、戴冠式は大聖堂で行われる。宮殿に戻ったステファナは、すぐさま用意されていた衣装に着替え、今度は馬車に乗り込んだ。式典へ参列する者は皇帝より先に大聖堂へ入り、全員並んで出迎えるのが礼儀である。ゼナスに花冠を披露している時間は無かった。というより、起床時に顔を見たきりだ。彼のほうが諸々の準備で忙しいのだ。

 ステファナが纏っているのはウイン帝国伝統の黄金の衣装だが、この衣装を巡って一悶着があったのは記憶に新しい。ゼナスは仕立て直した衣装を着るのに、ステファナには新品が渡されたからである。はっきり言って戴冠式における主役は皇帝のみで、他は脇役だ。それは皇妃であっても例外ではない。だというのに、主役を差し置いて脇役の衣装を新しく仕立てるとは何事か。ステファナが異議を唱えたのも道理である。

 しかし、主役たるゼナスもまた抗議した。彼こそ、ステファナに美麗な衣装を手配した張本人だった。今まで碌に着飾ることができなかったステファナを知っている彼は、美しい服を贈る機会を探していた。そして戴冠式という名目は彼にとってうってつけだった訳だ。それらしい理由をつけて彼女に服を渡せると思ったのである。

 ところがステファナは喜ばなかった。ゼナスとしては彼女が使用人から花を受け取った時みたく、笑顔で貰ってくれたらそれで満足だった。けれど上手くいかなかった。使用人にできる事が己にはできず、ゼナスは内心で落ち込んだ。彼から漂う哀愁の雰囲気は、ステファナにも何となく伝わった。


「陛下のお気持ちはとても嬉しいです。それだけに全力で喜べない事が、わたしは悲しく思えるのです」

「…配慮が足りず、すまなかった。今後は気をつけるから、今回だけ大目に見てくれないか」


 殊勝に謝られたら、すんなり許してしまうのがステファナであった。そもそも彼女は怒っていたのではなく悲しんでいたのだから、許すというのは適切ではないかもしれない。


「わたしこそ折角の贈り物にお礼も申し上げず、失礼いたしました。こんなにも美しいドレスをありがとうございます。ずっと大切に着ますね」

「ああ」


 ステファナに笑顔が戻ったので一件落着となった…という事があった。




 そして、戴冠式は定刻通りに始まった。

 先に到着したステファナは身廊の一番奥で整列していた。通路を挟んだ向こう側にはルイーズもいる。普段は軍服を好んで着用するルイーズだが、今日ばかりは皇族の正装だ。その堂々とした着こなしに圧巻される。剣を振るう姿も似合うが、重厚なドレス姿もよく似合っていた。彼女はステファナと目が合うと、お茶目に目配せしてきた。大聖堂の荘厳な雰囲気に呑まれ、緊張気味だったステファナは少し気がほぐれたのだった。

 大聖堂の扉が開く。重たい扉は軋む音を立てながらゆっくり動いた。

 陽光を背にして歩を進めるゼナスに、ステファナはごく小さな吐息を漏らした。彼が一歩、近づいてくるたび光輝く黄金の髪が靡き、真紅のマントが翻る。ステファナの瞳にはそれら全てが星のように煌めいて見えたのだ。

 身廊の突き当たりには、芸術的なステンドグラスが嵌る壁がある。皇帝が戴冠する位置には丁度、反射した光が差し込む設計になっていた。大聖堂の中で最も明るい場所で、ゼナスは戴冠するのだ。

 ところが所定の位置に立ったゼナスは、唐突にステファナの方を振り返った。それから彼女に向かって右手を差し伸べる。


「皇妃はこちらへ」


 ステファナは目を見張った。記憶にある段取りと違う。この後は司教から冠を授かる流れだったはずだ。皇妃が立ち入る場面などない。

 しかしこのまま狼狽えていても、ゼナスは手を下ろす事なく待っているのだろう。それでは彼の面目を潰してしまう。逡巡の末にステファナはしずしずと足を動かした。彼の前まで行き、差し伸べられていた手を取る。頭の中は疑問符でいっぱいだった。これで正解なのかステファナには分からない。優しく手を引かれたので大人しく従えば、彼女も光の絵が浮かぶ位置に立っていた。

 次いで、司教が二人の横にやって来た。司教は冠を置く台座を両手で持っていた。赤い布の上には今朝作った花冠が乗っている。


「戴冠の儀は皇妃陛下に委ねられておりまする」

「!?」


 司教の言葉を聞いたステファナは更に目を丸くした。声を上げなかったのは奇跡に等しい。

 これは皇帝の頭に冠を乗せるだけの単純な話ではない。皇妃とはいえ他国の女人が、皇帝を戴冠させる…ウイン帝国がカルム王国に決定権を委ねると同義だった。今、この場には二つの大国の縮図が出来上がってしまっている。そもそも何故、司教の手で戴冠するのか。理由は一つ。皇帝の冠は、神から統治権を授かった事の象徴だからである。神に仕える者が代理となることで、公正と神聖さを表しているのだ。

 確かにゼナスからは「君の手で」とお願いされたが、まさか戴冠まで任されるとは考えもしなかった。いや、普通は考えまい。帝国至上主義が根強い中でこんな事をして、反感を買うだけで済むのだろうか。

 ステファナは冠を手に取る事ができなかった。だがゼナスは、途方に暮れる彼女の眼前で躊躇することなく跪いた。金色の旋毛を見下ろすステファナの心境は、困惑一色だった。


「私のために作ってくれたのだろう」


 参列する者達には聞こえない声量で、そう告げられた。ゼナスはそれだけしか言わなかった。でもステファナには続きの言葉が聞こえた気がした。いつもの、少しぶっきらぼうな声で…


 ───ならば最後まで君が責任を持つべきだ。


 ゼナスは跪いた姿勢のまま待っている。ステファナが辞退すれば、司教が代わってくれるだろう。でも、そうするのを彼女の心が引き留めた。昨夜、ゼナスに請われた事が頭から離れなかったのだ。「他の者には頼みたくない」と彼は言った。彼の願いを反故にするのは、何を差し置いても嫌だと思った。

 結果は出た。ステファナは花冠を取り、慎重な手付きでゼナスの頭に載せる。金色の髪に映えるよう作った甲斐があった。無事、戴冠したゼナスは立ち上がると、ステファナに優しい微笑を贈った。彼が笑うところを見るのは初めてではない。だがしかし、心音が鼓膜の内側を叩くことで痛みを感じたのは初めての体験だった。


「ありがとう」


 やはりゼナスの唇が紡ぐ「ありがとう」は、ステファナの琴線に触れる。心の柔らかい部分を両手で包まれるような感覚がするのだ。他の人に同じ言葉を掛けられたとして、胸は温かくなるけれど、心臓を直接掴まれる心地になることはない。己にとって彼がいっとう特別であることを、改めて胸に深く刻まれる。ステファナは瞳を潤ませながら、微笑みを贈り返すのであった。




 従来の段取りに則るならば、戴冠式は五時間以上に渡る儀式である。しかしながら無駄を嫌ったゼナスが大幅に簡略化したため、過去に例を見ないほど短い時間で式は終了した。おかげで戴冠式にかかる莫大な費用を削減できた。

 ゼナスはステファナの手を取り、大聖堂の前庭へ出る。二人が歩く道には赤い絨毯が敷かれ、両側には護衛の兵士達が壁のようにずらりと並んでいた。前庭までなら一般人も出入りすることが許可されているので、護衛も厳重になる。

 集まった民衆が見たのは、黄金の冠ではなく花冠を被った皇帝だった。その奇妙な姿はすぐに、前例から後列へと伝えられて広まっていった。珍しいものを見ようとして、民衆は押し合いになる始末であった。


 後日、国民の間では“花冠の皇帝"という話で持ちきりとなった。そして、花冠が皇妃の手作りであり、皇帝が「君から贈られた冠に勝るものは存在しない」と告げていた事が拡まると今度は、花冠をこよなく愛する皇帝として語られるようになったそうだ。

【補足①】

ゼナスは花冠を枯らさずに保存しておく方法はないかと真剣に悩み、ミリアムを困らせました。


【補足②】

ステファナという名前は、冠または花冠を意味する単語に由来しています。

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