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 服喪の期間が終わるまで戴冠式は控えるのが通例だ。しかし此度は少々事情が違った。オダリスの骨は飛散するままにされ、葬儀も執り行わなかった。よって、すぐにでも戴冠式が行われる運びとなったのである。

 宮殿内が落ち着きを取り戻していない事を考慮し、ゼナスは廷臣達の処遇を一旦保留として、まずは戴冠を済ませようと決めた。とはいえ、ステファナに危害を加えた者には容赦せず、即位したその日に身分を剥奪して追い出していた。侍女長のクロエはその筆頭であった。


「陛下。衣装の新調に関する予算ですが、ご確認をお願いします」

「必要ない。今ある物を仕立て直せば良い」

「皇妃陛下の衣装も同様で宜しいですか?」

「…いや、ちょっと待て」


 後処理に追われるゼナスは書類を片手にミリアムへ返答する。即位してからずっと、多忙に拍車がかかっていた。

 戴冠式が終わればステファナを邪険に扱ってきた者は即刻、朝廷への出入りを禁じられるかもしれぬ。それを察知した廷臣達がゼナスの顔色を窺い、あからさまに媚びてくるのだ。余計な事に時間を割かれるのが鬱陶しくてならない。今更、忠臣の顔をされても笑止千万である。

 そうやってゼナスが微塵も取り合わないため、必然的に彼らの標的はステファナへと移った。皇帝の寵妃に賄賂を握らせ、今の立場を守ろうという魂胆だ。だが、ゼナスがそんな事を見過ごすはずもなく、彼女にはルイーズと行動を共にするよう伝えてあった。賄賂を渡そうと目論む輩は斬って捨ててやる、そう宣言しているルイーズに近付ける猛者はいないだろう。


 さて、十五年ぶりに宮殿へ戻ることができたルイーズ皇女は、新皇帝の手助けができればと此処で暮らし始めた。それに彼女は義妹に興味津々であったので、弟の頼みは願ったり叶ったりだった。ステファナのほうは助力できないことを憂いていたが、ルイーズは義妹と話ができて楽しそうである。


「あの…ルイーズ殿下。やはりわたし達もお手伝いに…」

「いい、いい。手伝いが必要なら弟のほうから言ってくるさ。それより殿下なんて堅苦しいのはやめてほしいな。私は姉と呼ばれたい」


 頬杖をつきながら微笑むルイーズは余裕綽々だ。可憐なステファナとは対照的な女傑だが、二人はとても気が合った。


「ふふっ、わかりました。お義姉様。ではわたしのこともぜひステファナと」

「ああ良いな。とても良い気分だ。ステファナ。私には妹もできるはずだったのだが、名を贈る間もなく亡くなってしまったのでな。姉と呼んでもらう悲願が叶って嬉しいよ」


 ところで、とルイーズは改めて話の口火を切る。


「ステファナにまだ明かしていない事がある」

「まあ…何でしょう」

「いや…謝らなければいけない事、かな」


 含みのある台詞を吐いた後、ルイーズは手招きする仕草をした。動きを見せたのはアニタであった。その顔は暗く沈んでいる。


「アニタ?」

「………」

「私から話そうか?」

「…いえ。わたくしが自分でお話しします」


 話が見えてこず、ステファナは小首を傾げるばかりだ。静かに主人の隣まで来たアニタは唐突に膝をついた。そして項垂れたまま懺悔をするのであった。


「ステファナ様…わたくしはルイーズ殿下の間者として宮殿に潜入しておりました。今の今までステファナ様を騙して申し訳ございません…っ」


 アニタが宮殿勤めを始めたのは、内情をルイーズへ流すためだった。ルイーズの命令を秘密裏に遂行する間者として雇われていたのだ。皇太子妃付きの侍女に抜擢されたのは、単なる偶然にすぎない。

 他にも数名、間者が潜入しているのは聞いていたが、互いに顔も名前も知らなかった。間者達に共通していたのは、宮殿で見たもの聞いたこと、それらを何でもルイーズに報告する役割である。必要な情報かどうかの判断はルイーズがする。だからアニタも侍女の仕事をこなす傍ら、些細なことでも逐一報告していたのだ。ステファナの専属侍女になっても、役割は変わらなかった。

 同僚の暗躍にイバンも驚きを隠せず、目を丸くして彼女を凝視する。


「わたくしがお側を離れなかったのは、それがルイーズ殿下の指示だったからです。ステファナ様と行動を共にし、定期的に報告を送るようにと…貴女様への忠誠心からした事では…なかったのです」


 初めの頃は良かった。ただ淡々と指示された事をこなせば済んだ。けれどステファナに出会い、接していくうちにアニタの心には葛藤が生まれ始めたのだ。何事にも真摯に向き合うステファナを見ていると、侍女の間者という二つの顔がある己を後ろめたく感じた。

 そもそもどうしてアニタは間者を引き受けたのか。それを語るには彼女の生い立ちが関係していた。


 アニタの生家はラント家という貴族だった。しかしウイン帝国の困窮は末席の貴族にも多大な影響を与え、ラント家は年々衰退していった。当主だった父が突然亡くなった事が決定打となり、ついにラント家は没落してしまう。

 アニタはまだ十代半ばにして路頭に迷うことになった。家にはアニタの弟と母が残っていた。従軍していた父から剣の手解きを受けていたので、アニタも軍人を志望しようと思えばできた。ルイーズが誘いをかけてきたのは、そんな折だった。見習いから始まる従軍より、皇女の間者をやる方が断然、実入りが良かった。当時のアニタには迷う余地も無かったのである。


「わたくしはお金欲しさに己を捨てた、浅はかな人間です。ステファナ様に感謝されるたび、わたくしは罪悪感に押し潰されそうでした…」


 母はアニタに言った。いつか弟を当主に据えてラント家を復興させるべく、金を蓄えてくれと…没落した家のためにアニタひとりが犠牲になれと言われたも同然だった。アニタには姉もいるのだが、姉は既に結婚して家を出ていたので頼れない。弟は働きに出られる年齢ではなかった。だからアニタが何とかするしかなかったのだ。

 家族が生きていくために金を稼がなくてはならないのは理解していた。でも、姉は結婚して人並みの幸せを得た。弟は当主になる者として大切にされている。ではアニタはどうなる?生活費を稼ぎ、弟が学舎へ行く金を用意するだけの存在なのか。母も弟もそうするのが当然だとでも言わんばかりの態度で、ありがとうもごめんなさいも無かった。アニタの意思は置き場すら用意されていなかったのだ。

 だけど歯噛みしても、嘆いても、アニタが置かれた状況は変わらない。だから無心になって金を得る事だけを考えた。命令を淡々とこなし、黙々と金を稼いだ。情報を売っているのに、やましい気持ちなんか生まれなかった。そうやって捨て鉢になっていたアニタの目を覚ましてくれたのが、ステファナだったのだ。

 ステファナも祖国のため、家族のために己を犠牲にしていた。捻くれた見方をすれば和平のために利用され、生贄として差し出されたようなものだった。それなのにステファナはいつも笑顔で、己を見失うことなく、何事にも一生懸命であった。裏表の無い眩しいくらいの健気さは、死にかけていたアニタの心を動かすに至ったのである。


「本当に…申し訳ありませんでした」

「アニタ…どんな理由があったにせよ、わたしと一緒にいてくれた事実は変わりません。それにアニタがお義姉様と繋がりを持っていたおかげで、助けられたことが多々あるのですから」

「いいえ。それは結果に過ぎません。侍女として二心を持って仕えるなど言語道断です」


 生真面目なアニタは間者をしながら仕えていた事が、どうしても許せないらしい。頑なに己を責める様子に、ステファナも困ってしまった。

 何せステファナは真相を明かされても、怒りの気持ちなんて欠片も湧いてこなかったし、むしろ苦しい思いに気付いてあげられなくて申し訳ないくらいだった。許す、許さない以前の問題である。

 微妙にすれ違う二人へ助け船を出したのは、ルイーズだった。


「…ふむ。間者だと判明しては解雇するしかないな。アニタ、今までご苦労だった。後のことは義妹に一任するが構わないな?」

「はい。どのような罰でも受ける所存です」

「こう言っているが、どうする?ステファナ」


 判断を委ねられたステファナはというと、アニタの手を握り微笑んでいた。


「それではアニタ。もう一度、わたしの侍女になってもらえますか」

「…っ!」


 「もう一度」つまり、今までもこれからも侍女は貴女だと、ステファナは告げていたのだ。優しい笑顔を向けられたアニタは堪えきれずに涙を流す。


「…寛大な処置に感謝申し上げます。もし、許されるのならわたくしは…っ、ステファナ様の侍女になりたいと、切望しておりました…!父から教わった剣技を貴女様のために用いることができたら、どんなに素晴らしいかと…っ」


 母に言われ、ルイーズに言われるがまま動いていたアニタは、やっと己の意思を取り戻したのだ。一時でも従軍を考えた人間ならば、心身を捧げてお仕えしたいと願う主人に出会える事がいかに幸運かよく知っている。己が剣となり盾となることも厭わない…そんな風に思わせてくれる主人には一生かけても巡り会えるものではない。


「今度こそステファナ様だけに忠誠を誓い、お仕え致します!」

「ありがとうございます。アニタ。今後も頼りにしていますね」

「はい!」


 涙を拭いたアニタは父が亡くなってから初めて笑う事ができた。久しぶりに口角を上げたため、少しぎこちなくはあったが、紛れもなく心からの笑顔だった。

 アニタの嬉しそうな表情を見て安心したのはステファナだけではなかった。


「重たそうなもの抱えてるなぁとは思ってたけど、そういう事情だったのか。でも水臭いなぁ。間者ってのは話せなくても、金が必要だって俺には言ってくれたら良かったのに」

「…貴方の家だってそれほど裕福でもないのに、言えるはずないでしょう」

「ぐうの音も出ないけど、俺の給料くらい全額譲ったよ。なんたってアニタは俺の婚約者なんだから」


 ここへきてイバンはとんでもない発言をした。ステファナはもとより、あのルイーズでさえも片眉を動かすほどの衝撃であった。


「まあ!二人は婚約していたのですか!」

「ステファナ様!誤解しないでください!わたくし達は元、婚約者というだけです!」

「俺は婚約を破棄したつもりないんだけど」

「えぇと…どういう事なのでしょう?」


 イバンとアニタの間で少々齟齬があるらしい。お互いに納得していない様子であったものの、一応は順を追って説明してくれた。

 イバンの実家は貴族ではなく、軍で細々と手柄を立てて成り上がった家らしい。没落が危惧されていたラント家に縁談を持ち掛ける貴族はおらず、イバンが候補に上がったという。


「八人も子供がいたのでさっさと結婚して食い扶持を減らすのが、俺の家の方針だったんですよ。それでアニタとの婚約もとんとん拍子で決まりました」

「ですがラント家が没落したので、婚約の話も流れたのです」


 アニタが苦境に立たされた事は先ほども聞いた。結婚どころではなかったのも想像がつく。だがイバンには解消されない不満があるらしい。


「俺は別に良いって何度も言ってるだろう?」

「婚約したのはアニタ・ラントであって、今のわたくしじゃない」

「じゃあなんで改めて結婚を申し込んでも、うんって言ってくれないんだよ!?」

「なんでって…貴方の言う『好き』は信用できないの」

「そ、そんな…俺は毎回、本気だったのに…」


 聞いている限り、イバンが求婚し直したのは一度や二度ではないようだ。


「ステファナ様の前で変な話をしないで」

「…すみません」


 挙げ句の果てには本気の求婚を「変な話」呼ばわりである。イバンはがっくりと項垂れた。


「二人は気を許し合っている雰囲気でしたけど、婚約者だったのですね。納得しました」

「元、婚約者です」

「食い気味に訂正しないでくれよ…俺が傷つかないと思ったら大間違いだぞ」

「結婚は二人で決める事ですから口出しはしませんが、真剣な気持ちには誠実に答えるのが礼儀だと思いますよ」

「そうだそうだ。アニタは俺に冷たすぎる」


 調子に乗ってステファナに便乗する彼に、アニタは苛立ちを覚えたみたいだが、主人がいる手前「…善処します」と言うに留めたのだった。




 蟠りが消えたアニタははきはきと喋るようになったし、感情を表に出すようにもなった。彼女の昔を知るイバンによれば、これが本来の性格らしい。彼はステファナにこっそり教えてくれた。


「アニタはすごく負けん気が強くて、強情なんですよ。まあ俺はそういう所が好きなんですけどね。俺っていい加減なところがあるから、しっかり尻に敷かれるくらいが丁度良いと言いますか」

「ふふっ、わたしも二人はお似合いだと思いますよ。イバンの想いが通じると良いですね」

「あっ、でも気を回さなくて大丈夫ですから。自分の力で振り向かせてこそ、漢ってものです」

「分かりました。では陰ながら応援しています」

「…俺、ステファナ様にはすごく感謝してます」


 いつもの軽い調子で話していたイバンが、不意に真面目な声を出す。


「父親が亡くなってから、アニタは変わりました。覇気は無いし、ちょっとした事でも壊れてしまいそうな感じで…俺が好きだったアニタはどこにも居なくなってしまったんです。俺がふざけた事を喋ると、すぐに小言を並べてくるのが恒例だったのに…どんな言葉を掛けても駄目でした」


 極端に口数が減り、様子のおかしくなったアニタを心配し、イバンは所属していた軍を辞めて勤め先を宮殿に変えた。実家で「男は全員、軍人になれ」と言われて育った彼にしたら、大変な決断であった。それでもイバンは迷わず軍隊を抜けた。アニタを立ち直らせることはできなくても、せめてそばにいて心配くらいさせてほしかったのだ。当の本人にはかなり鬱陶しがられたけれど、イバンはずっと彼女を案じ続けた。

 ステファナと出会ってからのアニタは、少しずつ素の部分を見せるようになっていった。また彼女と口論できた時、イバンは内心泣きそうになるくらい喜んでいたのである。


「ステファナ様。アニタのことを救ってくださって、本当にありがとうございました」

「とりたてて何かをした覚えはないですし、救われたというならお互い様です」

「あははっ!ステファナ様らしいですね」


 ひとしきり笑った後で、イバンは照れくさそうに言葉を続けるのだった。


「最初はアニタが行くところに行くって考えでしたから、二心があったのは俺も同じなんでしょうね。でも今は俺、ステファナ様に精一杯お仕えしたいと思ってます。アニタの熱意には及ばないかもしれませんけど」

「イバンもアニタも出会った日からずっと、頑張ってくれていましたよ」


 それぞれの思惑を抱えながらではあったけれど、苦楽を共にしてきた思い出が覆る訳ではない。ステファナは二人に沢山支えてもらっていた。それだけは確かであり、ステファナにとってはそれだけで充分であった。

【補足①】

ラント家が没落する前、イバンとアニタはよく剣の手合わせをしていました。イバンが本気を出さないので、勝つのはいつもアニタでした。負けず嫌いなアニタはそれが気に食わないので「真剣勝負をしなさい」と怒ったのですが、イバンは「婚約者を傷つけるなんて男のやる事じゃないぜ」などと言って自らぼこぼこにされていました。


【補足②】

ステファナが追放されてシェケツ村にいた頃。13話にてアニタは「…わたくしもゼナス殿下には何もご報告しておりません」と言いましたが、ルイーズには報告したという事です。

ルイーズが換金の証人としてアニタを指名した時に、額の怪我の顛末を話しています。宮殿へ報告書を提出したのはルイーズですが、その際はダリアではなく知り合いの兵士の名前を借りています。

それからステファナの処刑が決まった後、アニタはゼナスを探すためにルイーズを頼ろうと出て行きました。そこに丁度、ゼナスもいた訳です。

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