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形勢の不利を悟った時、オダリスが逃亡を図るのは考えられる事だった。宮殿には脱出用の隠し通路が造られている。オダリスの脱出を許し、迎撃態勢を整えられては面倒である。故にルイーズは抜け道の出口にも兵を置いてきた。逃げたところでオダリスの詰みは見えていたが、逃亡の報せはまだ届いていない。だから皇帝陣営はまだ宮殿内にいるはずだ。
ゼナス達は馬を降りて宮殿の中を進む。宮殿内は人の気配が減っていた。向かってくる衛兵は倒され、使用人は避難しているからだろう。
「せめて最後くらいは皇帝らしく、堂々と迎え撃っていただきたいものだな」
退路を全て絶ったルイーズは、尚も交戦的な口調であった。片やゼナスは無言で玉座の間へ急いでいた。隠し通路の入り口がそこにあるからだ。
案の定、オダリスと彼に従う廷臣数名は、玉座の間で揉めていた。入り口を開けろ、開かないの押し問答をしている最中だった。通路が造られたのは、この宮殿が建てられたのと同時期である。鍵が錆びついて使い物にならなくなっていても不思議ではない。
ゼナス達が大扉を壊して突入するや、廷臣達は脂汗を滝のように流し始めた。
「剣を抜いた者から殺す。死にたくなければ動くな」
敵が動く前にゼナスは死の忠告を発する。すると廷臣達は床に縫い止められたように動かなくなった。ゼナスはステファナを大扉の近くに留め、静まり返った玉座の間を進んでいく。
父の前に立ったゼナスは平坦な声色で、最後の戦いを挑むのだった。
「帝落の時です、父上。戦いで物事を解決するのは、我々で最後にしましょう」
「とうとう気が触れたようだな!死にたいなら一人で死ねい!」
双方の剣が抜かれる。ゼナスの重たい一撃は、受け止められて弾かれた。オダリスとて腐っても皇族の男という事か。だがゼナスの横顔に焦りの色は見られない。
「皇太子だからと優遇してやったというのに、この恩知らずめ!」
「優遇しろと頼んだ覚えはない」
「減らず口を叩くな!余は栄えあるウイン帝国の皇帝ぞ!」
「父上がしたのは自国を衰退させることだけだ」
激しい剣のぶつかり合いが続く。ここに来るまで戦い通しだったゼナスより、オダリスのほうが息が上がっている。ぜえぜえと荒い呼吸をしていたオダリスは、棒立ちのままになっている廷臣達を怒鳴りつけた。
「何をしているか!!今日、処刑されるのはカルムの王女であったはずだろう!とっとと殺せ!たかが小娘ひとりにどこまで手を焼かせるつもりだ!!」
皇帝の怒声を聞き、動かざるを得なかった廷臣達はステファナに兵を差し向けた。しかし、誰も彼女を傷付けることはなかった。向かってくる凶刃は、ルイーズとアニタ達がたちまち一掃したからである。
僅かに残っていた兵が蹴散らされたのと同時に、父と息子の戦いも決着する。オダリスがステファナを殺せと叫んだ直後。ゼナスは渾身の一撃で父の剣を砕き、片腕を斬り落としていたのだった。
血飛沫を上げながら膝をついたオダリスは、断末魔の代わりに恨み言を吐き続ける。
「余に反逆する愚か者どもが!!役立たずの屑め!!皆殺しにしてやる!!一人も生かしておかぬ!!特にゼナスッ!お前は絶対に殺す!!お前の大事な妃と仲良く生首を並べてやろうぞ!!」
「それは聞き捨てならないな。目の前で奪われるのは二度と御免だ」
見届け人として沈黙を保っていたルイーズが、ここで進み出てくる。彼女を見たオダリスは初め、実の娘であると分からなかったようだ。
「弟と義妹は殺させない。私の命にかえても」
「そなた…ルイーズ、か?」
「おや?お分かりになるか。私の顔などとっくに忘れていると思ったが」
「今更何なのだ!」
「今更なものか。父上が弱い者をいたぶって愉しんでおられた間、私も父上を葬る準備をしていたのだ」
「やってみるが良い!余には帝国の万軍がついておる!そなたの小賢しい企みなどすぐに潰してくれるわ!」
「万軍とは、カルム王国進軍のためにこそこそと再編した軍隊のことか?ならば残念極まりない。彼らの八割強が私の配下だ。皇帝の首と引き換えに招集した、な」
「八割…っ!?そ、そんな馬鹿なっ!あり得ぬ!!」
「貴方の掌中にあるのは、精々この宮殿にいる衛兵くらいではないか?ははっ!随分と小さき国の皇帝だな。これは傑作」
「ルイーズ…貴様…っ!!余を愚弄するか!」
「父上の敗因は三つ。およそ十五年も私を自由にさせすぎた事。民の嘆きに耳を傾けなかった事。そして最大の要因は和平の道を選ばなかった事だ」
悠々と語って聞かせるルイーズに、オダリスの怒りは暴発寸前まで膨れ上がる。そして彼の目がステファナを捉えた時、その怒りは一気に爆ぜた。
「そなたはカルムの王女と共謀したのだな!!進軍させぬ為に!そうに決まってる!蛮国らしい姑息な手法だ!あの小娘は身に宿る呪いで人を誑かし、意のままに操る…」
目を血走らせたオダリスが、存分に嘲罵してやろうとした矢先の事だった。ステファナを罵るために開けていた大口へ突如、鋭い切先が差し込まれた。口を閉じることができなくなり、オダリスは強制的に黙らされたのである。少しでも舌を動かせば裂けてしまう。
剣を握るゼナスは、酷く恐ろしい眼をしていた。今にも剣を押し込んで殺してしまいそうな危うさがある。すんでのところで喉が貫かれていないのは、ルイーズが彼の手を押さえているからだ。
「父上。私は未だかつてないほど激怒している。すぐにでも殺してしまいたいのを我慢しているだけだ。これ以上、私を怒らせるな」
ゼナスの語勢は単調なのに、背筋が凍るような不気味さを孕んでいた。それだけ彼の憤りは計り知れないのだ。
「……ぐ…」
「民が滅びれば、国も滅ぶ。そんな簡単な事さえ分からぬ貴方を、皇帝の座に留めておくわけにはいかない。帝位を奪うのは私の意思だ」
「父上。貴方は他者の痛みを知らなければならない。貴方の娘に生まれた責任として、相応しい死に場は用意して差し上げよう。民の憤りをその身で受け止めながら逝かれよ」
ゼナスとルイーズがこの場でとどめを刺さなかった理由。それは父を公開の石打ち刑に処するためであった。石打ち刑とは字の如く、罪人に石を投げて殺す処刑方法だ。
民間人による義勇軍を募った折、ルイーズは彼らと一つの約束を交わしていた。その約束というのが「"帝落の血戦"で勝利を収めた暁には、皇帝の身柄を生きたまま義勇軍に引き渡す事」であった。長いこと抑圧されてきた民達は、直々に裁きの鉄槌を下すことを望み、ルイーズはそれに合意したのだ。
「オダリスを拘束し、義勇軍へ引渡す。その後の処遇は全て民衆の望むままに、手出しはするな」
ゼナスの命令が、玉座の間に重たく響いた。
ステファナを昔のやり方で斬首しようとしたオダリスには古来の方法が相応だった。圧政に苦しめられてきた民の怨念は、オダリスの癇癪なんぞより遥かに大きかろう。
「ゼナス。ここからはお前に任せるぞ」
「ああ」
「私は彼らと交わした約束を果たしに行ってくる」
「わかった」
縛り上げたオダリスを、ルイーズが引き摺っていく。これから待ち受ける壮絶な死を想像し、廷臣達は巻き添えを恐れて静まり返っていた。
玉座の間には皇帝の血痕だけが残された。ゼナスはようやっと剣を納め、ステファナのもとへ歩を進める。そして彼女の肩を抱くと、そのまま玉座の間を後にするのだった。
先ほど進んで来た道を無言で引き返す。ステファナも言葉を発しなかった。ただ黙ってゼナスの隣を歩いていた。
やがて階段の頂上まで戻ってくる。ゼナスはそこで足を止め、大きく息を吸い込んだ。
「全軍、直ちに戦いを止めろ!!」
寡黙な彼から出たとは思えない大音声が木霊する。眼下で戦闘を続けていた兵士達は皆、一様に驚いて階段の頂きに立つゼナスを仰ぎ見た。
「オダリスの治世はたったいま終わった!!"帝落の血戦"の勝者である私が、この時を以ってウイン帝国の皇帝となる!!」
新たな皇帝の即位は凄烈であった。
攻め入った兵士達は勝利に湧き、宮殿の衛兵は混乱の只中に置き去りだ。眼下の景色は混沌を極めていた。
「やった…!やったぞ!俺たちの勝ちだ!!」
「終わったんだ…やっと…っ、仇をとったぞみんな!!」
「うぅ…っ、ぐすっ…」
「おい泣くな!後ろの奴らにも伝えにいくぞ!」
悪帝の圧政から解放されたことを知り、勝ち鬨をあげる民間兵。ここまでの道程に思いを馳せ、涙を流す者もいた。目を凝らしてみれば、老兵やまだ少年のような兵もいたし、母親と思しき女性兵も混じっていた。夫か息子を無惨に亡くした寡婦かもしれない。
「な、なにがどうなっている!?」
「オダリス陛下は殺されたのか?」
「帝落の血戦だなんて…そんな…」
「我々はどうすればいいのだ?」
一方、奇襲を受けた衛兵達は未だ右往左往していた。突然攻め入られ、訳も分からず応戦している間に新たな皇帝が誕生していたのだ。思考を止めてしまうのも無理はない話である。
広がりつつあった騒乱を鎮めてみせたのは、何とステファナだった。彼女は半歩前に進み出て、ゼナスに劣らず声を張った。
「皇帝陛下の御前です!謹んで膝を折るように!」
それからゼナスへ向き直り、ステファナ自ら身を屈める。
「このたびの勝利、心よりお喜び申し上げます」
風雅な所作に人々は見惚れ、やがておのずから跪いていた。彼女はたった一度の教示と振る舞いのみで、散り散りだった人々の意識を纏めてみせたのである。
全員が平伏する中でゼナスは、ステファナだけを手ずから立たせた。小さな両手を優しく包み、「君は本当に凄いな」と淡い笑みを浮かべるのだった。
「ステファナ」
「はい」
柔らかな声で彼女の名を紡いだゼナスは、ほのかに色付いた頬にそっと右手を添えた。そしてゆっくり顔を近付け、優しく唇を重ねる。
「…『今は』などと言わず、ずっと私のそばにいてほしい」
初めての口付けを受けたステファナは口元を綻ばせ、溢れる笑顔と共に応えた。
「はい。ずっと、おそばにいます」
小雨を降らせていた雲は消え、青空には見事な虹がかかっていた。それはまるで、天までもが新たな若き皇帝を祝福しているかのようであった。
どこからともなく歓呼の声が上がり始める。それは次第に一つの大きな褒誉へと変わり、宮殿はかつてない興奮に包まれたのである。
廃位したオダリスは、義勇軍によって死なない程度に痛めつけられた後、帝都で一番大きい広場に放置された。片腕を失い、足の腱を斬られたオダリスはただ一方的に大衆から石を投げられ、痛罵を吐かれる事となった。
積年の怒りと憎しみに駆られた民は後を立たなかった。顔を憤怒に染め怒鳴る民、泣き叫びながら石を投げる民、肩が上がらなくなるまで投石する民もいた。彼らは昼でも夜でも、オダリスが動かなくなってもお構いなしであった。肉塊に蛆が集り始めても、火をつけて骨だけになっても尚、民は石を投げ続けた。
民衆がようやっと解散していったのは、骨が塵へ変わり、風に浚われた後であった。オダリスは民の痛みを知ることができたのか。塵と消えた後では分からない。
父の死に様について聞かされたゼナスは、静かに「そうか」とだけ言った。感情が揺れることはなかった。どれだけ惨たらしく死んでも、父に殺された人々はそれを知る事はできないのだ。だから、ただひたすら虚しかった。晴れる無念など存在しないようにさえ思った。残された者にできるのは、同じ過ちを二度と繰り返さない事であろう。
「…母上の言葉は正しかった」
ゼナスは亡き母の墓前に来ていた。
墓標のところには花が置かれている。きっとルイーズが一足先に訪れて、挨拶していったに違いない。ゼナスよりも母と接していた時間が長かった分、母に対する想いは誰よりも強かったはずだ。十五年という決して短くない歳月を復讐に費やしたルイーズもまた、傷つきながら生きてきた一人なのだろう。
「…お義母様は、何と仰っていたのですか?」
ゼナスと一緒に墓地へ赴いていたステファナは、彼が溢した独り言を拾った。
「『金で他人を支配する者は、金によって身を滅ぼす。暴力で他人を支配する者もまた、暴力によって身を滅ぼす』…と、諭された。暴力で死んでいった母上の言葉が正しいと証明される日は来るのか、私は疑問を抱き続けてきた。時間はかかってしまったが、ようやく胸のつかえが取れた気がする」
「素晴らしいお義母様だったのですね…」
「生きておられたら、間違いなく君を気に入っただろうな」
「本当ですか?そうだとしたら、とても光栄です」
頬を染めるステファナに、ゼナスも目元を和らげた。
二人の横を爽やかな春風が吹き抜けていく。新しい時代は始まったばかりであった。




