3
皇族の結婚式は大聖堂で執り行われる。当日は朝から非常に慌しかった。衣装を整えて、定刻までに移動しなければならず、全員が早朝から動き回っていた。だが支度も終わりの段階で問題が発生した。
婚礼衣装の着付けが終わり、あとは小物で身を飾るのみとなった時。ヴェールと一緒に仕舞ってあるはずの冠が失くなっていた事が発覚したのだ。金と宝石でできた冠は貴重品であるため、鍵付きの箱に保管されていたのだが、いざ開けてみたら忽然と姿を消していた。部屋中を探したものの発見には至らず、時間をいたずらに消費しただけだった。
冠が紛失したのは侍女アニタの落ち度であると、侍女長は糾弾を始めた。
「貴重品の管理を怠ったお前の責任だ!」
そう怒鳴りながら侍女長は思い切りアニタの頬を打った。痛々しい音が室内に響く。間をあけずステファナは「何をするのです!?」と叫び、侍女を背に庇った。ステファナはアニタが蚊の鳴くような声で、無実を主張するのを聞いたからだ。
「おどきくださいませ。その者は罰を受けねばなりません」
「決め付けるのは早計というものです。アニタを叩いても、冠が戻ってくるわけではありません」
「痛め付ければ自白するでしょう」
「そのようなやり方は間違っています」
毅然と反論すれば、侍女長のクロエはあからさまに嘆息した。
「では冠が無いまま、式に出席なさるのですか?」
「…無いものは作れば良いだけです」
「はい?」
侍女長の怪訝そうな声には反応せず、ステファナはアニタに「立てますか」と尋ねてから、支度部屋を出て行った。
ステファナとアニタは早足で廊下を移動する。
「頬は大丈夫ですか?」
「…平気です。それよりどちらへ…?」
「中庭に行こうかと」
「宮殿には庭どころか、花壇すらございません」
「あら…草花はどこにもありませんか?」
「洗濯場の隅とかなら、雑草くらい生えていますが…」
「では案内をお願いします」
アニタは釈然としない表情を見せたものの、黙って案内してくれた。
道中でイバンとも合流し、野草なら使用人が使う井戸の近くに自生しているとの情報を貰ったので、三人でそこへ向かうのだった。
もしも季節が春だったなら、可愛らしい草花が咲いていたかもしれない。だが、井戸の周りに生い茂っているのは、アニタに言わせれば雑草でしかない単なる緑色の草だった。
でもステファナはそれを優しく手折っていき、素早く編み込んで草の冠を作った。
「ま、まさか…それを結婚式に身につけるおつもりですか?」
「やめたほうがいいですよっ。恥をかくだけですって」
アニタは信じられないといった様子だ。イバンも同様らしく汗を飛ばしながら何とか思い留まらせようとしてくる。
「そうかもしれません。でもわたしは民が飢えて苦しんでいる時に、自分を豪華に飾るほうが恥ずかしいと思います。心苦しく感じていたところですし、わたしは自然が好きなので、丁度よかったです」
強がりで言っている訳ではないことは、ステファナの自然な微笑みと声色から明らかであった。堂々としたステファナを前に、二人は何も言えなくなってしまった。
全ての階級の貴族が揃い踏みともなれば、広々とした大聖堂でも息が詰まる感じがした。しかし、人の多さだけが理由ではなかろう。誇り高きウイン帝国の皇太子が仇国からきた王女を娶ることに、反感を抱く者が周囲を囲んでいるからだ。
そんなひどく息苦しい空間を、ステファナは楚々と歩く。
草の冠を頭に乗せた皇太子妃を見たある者は顔を顰め、またある者は滑稽だと嘲笑した。誉れ高き帝国を馬鹿にしていると憤慨する者もいた。ただ一人、ステファナの姿について言及しなかった者がいる。その人物こそ彼女の夫となる皇太子、ゼナス・ウイン=ツェロルバークであった。彼は草で編んだ冠を見はしたものの、それだけだった。
式の最中にステファナがした事と言えば、参列者が見守る中で署名するくらいである。
しかし宣誓文が記された紙に署名した瞬間。祖国との繋がりを完全に断たれた孤立感がステファナを襲った。特段、意識していなかっただけで、己は祖国を背負う家名を心底大事に思っていたことに気付かされる。カルム王家の一員で在れたのは、本当に幸せだったのだと。引き返せなくなってから、一段と思い知る事になるとは。
ステファナ・ウイン=ツェロルバーク───今、この時をもって、それが彼女と名前となった。
婚礼の儀式が完了したら、あとは専ら周囲へのお披露目である。新郎が新婦の手を引き、客席を順番に回って参列者から祝福の言葉を貰うのだ。
ステファナ達も慣例に沿って、衆人の中を歩いたのだが、皆が声をかけるのは皇太子のゼナスにだけで、隣にいる皇太子妃には挨拶しなかった。本来ならば許されない不敬である。ところが皇帝が真っ先に皇太子妃を邪険にしたため、甚だしい不敬が罷り通ってしまったのだ。
ステファナはそこに居ない人間のように扱われても、微笑みを崩さなかった。皇太子の隣で終始にこやかに直立していた。皇太子と言えば、イバンから聞いていた通り背が高くて逞しく、黙然とした青年だった。後ろで三つ編みにしている髪も、確かに眩い黄金である。それにしても体格の違いがありすぎて、ステファナの一つ歳上とは思えない。
彼女は横目でそのくらいは見てとったが、ゼナスのほうはもう一瞥もくれなかった。
宮殿へ帰ってくる頃には、とっぷり陽が暮れていた。しかしまだ、ステファナは休むことが許されない。支度部屋に戻るなり婚礼衣装を剥ぎ取られ、湯浴みをさせられ、夜間着に着替えさせられた。この後には夜伽が控えているためである。
ウイン帝国の宮殿内には、公的な式典や謁見を行う外廷と、皇帝一家が過ごす私的な内廷、それから使用人達の居住区がある。このあたりの造りはステファナの祖国と大差ない。ただし帝国には、カルム王国にはなかった離宮が存在する。そこは十五を迎えた皇子が住む場所だった。
離宮が造られた背景には、ウイン帝国の風潮が色濃く表れている。この国は戦いの結果が全てだ。勝者は全てを手に入れ、敗者は全てを失う。強奪が正当化されてきた歴史があるのだ。時代によっては世代交代の際に"帝落の血戦"と呼ばれる戦いが必ず行われたとも言われている。
奪われるのは護る力の無い弱者が悪い。そういう思考が根底にあるので、皇子が皇帝を殺して玉座に就く、なんて話は珍しくなかった。よって、年頃になった皇子を離宮へ遠ざけるのは、皇帝が息子から我が身を護る処置だった。離宮は血生臭い時代の名残りなのである。
離宮に立ち入ることが許されるのは皇太子が指名した使用人と、皇太子妃のみだ。勿論、皇帝も立ち入りは可能だが離宮の所以が所以なので、余程の理由がない限り足を運ぶことはない。アニタはステファナを離宮の手前まで案内してくれたが「ここから先はお一人でお進みください」と言われてしまった。
「わかりました。案内に感謝します。アニタ、今日は一日お疲れ様でした」
アニタが一礼して去るのを見送ったステファナは、離宮の扉を開けて中へと入った。
室内には人の気配が無く、明かりもほとんど灯っていなかった。少々不行儀だったが、壁を伝いながら進むほかない。そろりと歩くステファナは「どなたかいらっしゃいませんか」と小声で呼びかけた。離宮とはいえ皇太子夫妻が過ごす場所ゆえ、衛兵は配置されているはずだし、お世話を任される使用人が待機していないとおかしい。 ところが驚くことに、ここにはステファナしかいないらしかった。一体全体どうなっているのだろうか。
アニタを呼び戻すことはもうできない。イバンは異性なので離宮で二人きりになるなど論外だった。仕方なくステファナは離宮を彷徨い、寝所らしき一室を見つけると、そこで皇太子を待つことにした。先に寝台へ上がるのは躊躇われて、彼女は部屋にあった長椅子に腰を下ろす。
しかし可哀想なことに、ステファナは長椅子に座ったまま朝陽を見ることになるのである。