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刃が風を切る音が聞こえ、ステファナは反射的に目を瞑っていた。壮絶な痛みを覚悟してのことであったが、一向に痛みは訪れなかった。もしや一撃で絶命できたのかと、そんな考えさえ頭を過る。
だが程なくして、金属の塊が地面に落ちるような音がした。その大きな音におっかなびっくりし、ステファナは目を開けたのだった。
開けた視界に飛び込んできたのは、喉元を槍で貫かれた処刑人の死体。開眼したまま息絶えている姿に、ステファナは声も無く後ずさった。鉄錆の匂いが鼻を突き、そこに死が横たわっていることをまざまざと伝えてくる。
風を切ったのは処刑人の斧ではなく、何処からか投擲された槍だったらしい。
何が…起きたというのだろう。
呆然と座り込んでいたステファナは、何の気なしに視線を遠くのほうへ向けた。つい先程まで整然と並んでいたはずの騎馬隊が逃げ惑い、散り散りになっている。彼女がいる場所からでも、衛兵達の緊迫が見てとれた。
ステファナは遠くの景色に釘付けになっていた。その所為で背後から急速に近付いてくる足音に気が付かなかった。気が付いたのは、逞しい腕に引かれた後だ。
我に返った時には、ゼナスの腕の中にいた。
「…….えっ…?」
「………」
大きな体躯の青年にぎゅうと抱き締められ、ステファナは身動ぐこともできなかった。それでも相手がゼナスだと分かったのは、雨に濡れてしっとりと垂れる金色の髪が見えたからだ。とびきり美しい黄金を持つひとを、ステファナは一人しか知らない。しかしながら目に映っている色が本物か偽物なのか、戸惑う彼女は区別ができずにいた。
オダリスが放った刺客はどうなったのか。もし怪我をしているなら、はやく手当てしなければ。
そもそも四日は戻らぬという話ではなかっただろうか。やはり己は死んで、都合の良い夢現を彷徨っているだけなのか。
ステファナの瞳が揺れた時、金色の髪から一粒の雨粒が滑り落ちて、弾けた。
「…すまない。君をこんな目に遭わせて…本当に、すまない」
「殿、下…?」
聞いている者の胸を刺す、切々とした声が降ってくる。
この声だ。この声がもう一度、聞きたくて堪らなかった。だから今際の際になるはずだった瞬間に、彼の名を呼んでいたのだ。
「私は君を失いたくない。君が、大切なんだ」
ステファナを囲う逞しい腕に力がこもる。
「誰よりも、何よりも大切に想っている。だから君のことも、君が大切にしているものも、私が守る。必ず守ると誓う」
ステファナの瞳に涙が浮かぶと同時に、それは堰切ったように溢れ出した。激しくも尊い想いを、言葉にするのはとても間に合わなかった。音にならない心の声はすべて涙に変わっていく。
怖かった。痛い思いをして死ななければならない事が、ものすごく怖かった。
辛かった。祖国にいる家族の心痛を考えるほど、辛くてたまらなかった。
本当は、嫌だった。このままゼナスと死に別れる事が、どうしても嫌だった。会えないならせめて、刺客に襲われた後の事だけでも聞いておきたいと願ったのに、それも叶わず死ぬのかと…。
心残りなんて言葉では括れない。彼のことをもっと知りたかった。語り合いたかった。彼と一緒にやってみたい事がいっぱいあった。天寿の終わりまで同じ時を生きたかった。己の中でゼナスが一番の心残りになっていた事、それを理解した瞬間の幸せと絶望は、筆舌に尽くし難い。
だけど、ほんのひと欠片でも本音を口に出してしまえば、決心が鈍ってしまう。恐怖に打ち勝つのが難しくなっただろう。最期の瞬間まで毅然と微笑んでいられるよう、消極的な考えが一秒でも頭に上ることさえステファナは許さなかった。
だというのに、ゼナスから贈られた言葉達は、ステファナの必死の自制をいとも簡単に瓦解させてしまった。笑顔を絶やすことのなかった彼女が、笑うことを忘れて咽び泣く。
「…っ、ご無事で良かった…酷いお怪我をされたのではと、ずっと心配で…っ」
「君は他人の心配しかできないのか」
だがそういうところに心惹かれるのだ、とゼナスは告白するのであった。
ステファナはゼナスの肩口に額を擦り付けて嗚咽を抑えていた。彼もまたステファナを抱きしめたままだったが、徐に体を離される。そして、次の瞬間にはゼナスが剣を構えていた。
再会に気を取られていたが、見渡せば至る所で兵士達が戦っている。先程から武器がぶつかる音と「敵襲!」の声が鳴り止まない。決死の雄叫びも四方八方から上がり、そこへ時折、絶命の叫喚が混じって聞こえた。宮殿の衛兵が戦っているのは、いったい何処の軍隊なのだろうか。土埃が舞っているせいでよく見えず、敵味方の判別ができない。
おずおずと顔を上げてみれば、高い所を見据えるゼナスの横顔があった。ステファナは控えめに彼の服を引いた。その僅かな動きに反応したゼナスは、すぐに険しい面持ちを解く。腕の中にいる彼女を見下ろす眼差しは、すこぶる優しい。
ゼナスは彼らしい簡潔な言葉で、この戦いの大義を語った。
「私は父上に"帝落の血戦"を仕掛けた」
「っ!」
「敵は皇帝オダリス。皇帝に与する者は全員敵とみなして斬る」
ウイン帝国の長い歴史を振り返れば、皇太子による皇帝殺しは珍しくない。とはいえ今の時世では前時代的な反逆である。文献では二百年前の血戦を最後に反逆は起きていないとされているからだ。
ステファナは食い入るように彼を見た。ゼナスの言葉が事実なら、彼はステファナを守るために肉親を討ち取る決心をした事になる。
「わたしが皇帝陛下の恨みを買ってばかりいたせいで、殿下が傷つく役回りを…」
「父上は皇帝に相応しくない。だから退いてもらう、それだけの事だ。私は君に救われたことはあれど、傷つけられた覚えは無い」
「ゼナス殿下…」
「君は最初から正しかった。堂々と胸を張っていれば良い」
ミリアムに預けられていた『わたしはゼナス殿下の妃になれた事を、少しも後悔しておりません』という伝言は、宮殿で合流するなりゼナスに伝わった。彼女が託した言葉を受け取ったゼナスは、唇を強く噛み締めていた。
ゼナスの妃になったがために何度も傷つけられ、果てには命まで落としかけて…反逆に出るのを後少し躊躇っていたら、何もかも手遅れになるところだった。ステファナに後悔は無くても、ゼナスには大いに有る。これ以上の後悔は必要無い。オダリスがいる限り、ウイン帝国にもステファナにも安寧は訪れないのは自明の理。だからこそ父を討つのだ。「抗っても虚しいだけ」などという情けない持論は、二度とゼナスの口に上ることはない。
「じきにここも激しい戦場になる。君は退避を…」
話している間にも喧騒は更に大きくなっていた。戦うことのできない非力なステファナは、足手纏いどころか邪魔でしかない。ゼナスの勧めは正しい。従うべきだ。
けれどもステファナの両手は、離れかけていた彼の腕を掴んでいた。
「…我儘を承知で申し上げます。今はまだ…殿下と離れたくないのです」
泣き腫らした瞳が潤む。
ゼナスを引き留める力は強くない。振り解くのは容易いことだった。でも、ゼナスはその簡単な事がどうしてもできなかった。守りながらの戦いは相手を有利にさせてしまう。心苦しくとも彼女を離脱させるのが最善である。頭では理解できているのに、ゼナスは己の腕に絡む細い手をそのままにさせていた。
「それほど健気に請われていながら断るのは男が廃るぞ」
青い瞳を前にして迷うゼナスを、凛々しい声が一刀両断する。声は正門がある方向から聞こえた。振り向けば、背後に大部隊を従えた女人が馬上で鷹揚に笑っているのだった。
「そうだろう?弟よ」
一陣の風が吹き、美しい金色の長髪が舞う。
この堂々たる女人こそゼナスの姉にしてウイン帝国の皇女───ルイーズ・ウイン=ツェロルバークであった。




