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ウイン帝国にも春が訪れた。寒い時期が長いぶん、待望の季節である。ステファナにとっては帝国で迎える初めての春だった。
様々な花が咲く春が好きなステファナは、毎日飽きずに外の景色を眺めている。彼女の好みを知るイバンとアニタは、制限の多い生活をしているステファナのために、花を見つけては摘んできた。花と言っても宮殿には庭園どころか花壇すら無いので、無造作に生えている草花になってしまうのだが、それでもステファナは頬を紅潮させて喜んだ。小ぶりの花瓶に活けた草花を見つめる彼女は、いつも眩しいほどの笑顔である。
「ステファナ様、どうぞ。今日のお花です」
「俺が見つけたんですよ」
「まあ可愛い!ヘビイチゴの花ですね。二人とも、ありがとうございます」
手のひらに収まってしまうような、花束と呼ぶのも憚られる小さな花だ。そんな物ではしゃぐ女人をこれまで見た事がなかったので、ゼナスはついじっと観察しまう。完全に書類を書く手が止まった彼を、ミリアムが肘で小突いた。
「羨ましいなら殿下も真似したらいかがです」
「だっ…れが羨ましいなどと言った」
動揺して大きな声が出かかったが、寸前で堪える。ステファナ達は少し離れた場所にいるとはいえ、普通の話し声なら聞こえてしまう距離だ。ゼナスは唸るような声で喋りながら、油断ならない側仕えを睥睨するのだった。
ステファナと共同生活を始めてはや、ひと月ほどになる。
彼女にとっては窮屈な暮らしかもしれないが、時間の流れは非常に穏やかであった。ひと月前までの執務室にあったのは静けさばかりだったのに、ステファナ達が賑やかであるゆえにここは明るい場所になった。賑やかといっても決して耳障りではなく、それこそ春の草花みたいに気持ちを和ませてくれる光景だ。
ステファナと共に過ごす時間を、ゼナスはよく「気が抜ける」と表現した。けれど「気が抜ける」という事が即ち「落ち着ける」という事であると、彼はもう気付いていた。心安らぐ相手とも言えるかもしれない。
しかし、いつまでこの平穏な光景をゼナスひとりで守れるのか。彼の胸中には常に漠然とした不安が燻っていた。とはいえゼナスはそれを表に出すことはしなかった。
「シェケツ村もやっと雪が全部なくなったと、ブノワ先生のお手紙に書いてありました」
「そりゃあ良かった。雪掻き仲間も両手を挙げて喜んでますよ」
「ふふっ、雪掻き仲間ですか。イバンは毎日重労働でしたね。そういえばアニタのお掃除仲間から、お返事が来ていましたよ」
「本当ですか?返事は不要ですと伝えたはずなのですが…」
「とか言いつつ嬉しそう…痛っ!足を踏むなよっ!あ、俺には無かったですか?」
「えぇと…イバン宛てのお手紙は今回無かったですね」
小鳥のさえずりに耳を傾けているような気分になりながら、ゼナスは順調に書類の山を整理していく。皇帝が見向きしなかった書類は全てゼナスへ流れてくる。その殆どが金の絡まないものか、或いは気に入らない貴族からの手紙だ。雑用を押し付けられているのと同じで良い気はしない。ため息を吐かずに読み進められるのは、ステファナ達の会話の妨げになる音を微かでも出すのが嫌だったからだ。
「…ん?」
また一枚、書類を片付けて次の書類を取ろうとしたゼナスは動きを止めた。書類の間に隠すようにして紛れる、小さな手紙を発見したのだ。
「どうしましたか」
「いや…」
ミリアムが目敏く声を掛けてきたが、気にするなという仕草をすれば元の作業に戻っていった。
誰の視線も無いことを再確認してから、ゼナスは手紙の封を切る。差出人の名前は封筒ではなく、手紙の末尾に記してあった。その名を目にした時、それまで無表情であったゼナスの瞳が僅かに見開かれる。密書を紛れ込ませたのは…久しく会っていないゼナスの姉であったのだ。
姉ルイーズが宮殿を追い出されて、そろそろ十五年になろうか。
母が亡くなってすぐだったゆえ、彼の覚えている姉は十一歳の姿のままである。遠い記憶に残る姉は、大胆不敵な人だった。幾度も父に反抗しようとし、幾度も母に止められていた。周りの大人は姉を怖いもの知らずだと呆れたが、母と弟には優しかったように思う。だからゼナスも姉に対して特に悪感情は持っていない。
実のところ手紙が届くのは今日が初めてではないのだ。宮殿を出て行った姉は一年に一度、弟の誕生日にだけ祝いの手紙を寄越してくれた。毎年届くそれが、姉の安否を知る唯一の手掛かりだった。だからこそ誕生日でもない日に「会いに来てくれないか」等と聞かれるのは、只事ではないと言える。
手紙にはゼナスが単身で出てくるように強調されていた。その指示に従えばステファナは宮殿に残していかねばならない。落ち合うために指定された地点は往復四日もかかる。それでは何のためにステファナを皇太子の執務室に閉じ込めているのか、本末転倒もいいところだ。
どうして今なのだ。この十五年、一度として「顔が見たい」とも言わなかったのになぜ今更。結婚する前なら何の懸念も無く外出できた。いや、姉は宮殿を出て久しい。此方で起きている事など知りようもないだろう。
姉には心の中で申し訳ないと謝った。ゼナスには、ステファナと他の人間を天秤にかける事がどうあっても無理だったのだ。
しかし、いくらゼナスが目を背けようとしても、姉の手紙は途切れなかった。これはきっとゼナスが応じるまで届き続ける、そういう妙な確信が芽生えた。すると今度は、姉の身に何かあったのではと一抹の不安を覚え始める。助けが必要な状況をゼナスが無視したために、姉が命を落としでもしたら…生涯に及ぶ後悔を残すだろう。せめてゼナスから行けぬと返事を出せたら良かったのだが、姉の所在が分からなくてはどうしようもない。
けれど姉の元へ行けば、ステファナを守ることができない。父が手を出してこないのは、ひとえにゼナスの存在が傍にあるからだ。皇太子を喪うことは、次の皇帝を喪う事に繋がる。次代の担い手がいなくなるのは、連綿と続く皇族にとって大きな痛手である。故にいくら息子が邪魔でも、父は表立って攻撃するのが難しいのだ。
皇太子という立場がゼナスをある程度守ってくれる。反対にステファナには彼女を保護するだけの立場が無い。姉のルイーズも同様だ。言葉は悪いが二人の立場は替えが効く。だがその一般論はゼナスに通用しない。彼にはステファナを見捨てるなんて絶対にできなかった。いくら姉のためであってもだ。側女はいらぬとの宣言に偽りはない。己の妃は終生ステファナひとりだけと、とうに定めている。
姉か妃か。己の命と引き換えに二人が助かるなら、いっそそうしてくれとさえ願う。苦しい決断を迫られるゼナスは、気づけば自然と目でステファナを追いかけていた。彼女は今日も楽しげに花を飾り、小鳥が歌うかのように使用人達と談話している。この光景を壊したくない。どんな手を使ってでも守りたかった。
ふと、彼女ならばどうするのだろうという考えが過った。ゼナスが姉を見捨てたと知ったら、家族想いの彼女は幻滅するだろうか。軽蔑の目を向けるのだろうか。いや多分、ひどく悲しそうな顔をするのだろう。
そう思い至った時、ゼナスは重たい口を開いていたのだった。
「…ミリアム。出掛ける支度をしてくれ」
「え…外出なさるのですか?」
ミリアムの疑問は至極当然であった。今、ゼナスがここを離れては、オダリスに絶好の機会を与えてしまう。使用人では守ろうにも限界がある。
しかし逡巡したのも束の間のことで、ミリアムはすぐに思い直すのだった。ステファナの守護より優先しなくてはならない用事ができてしまい、ゼナスは体が足りない状況にある。ならばミリアムには全力を尽くして、主人の要望に応えるしかない。
「お戻りはいつになりますか」
「四日で戻る。お前は残り、彼女の側にいろ。目を離すな」
「承知しました」
この場にいる誰よりもゼナスが、いま外出するのはできるだけ避けたかっただろう。ミリアムは酷く難しい顔をする主人を見て察した。四日ならばぎりぎり死守できるはず、そう主人が判断したのならミリアムに異論は無い。
ゼナスは徐に椅子から立ち上がったかと思えば、ステファナのほうへ歩いていった。
「…随分楽しそうだな」
「あ、ゼナス殿下。すみません、騒がしかったですか」
「そうではない」
「…?」
じっと見下ろされるステファナは、不思議そうな顔をしている。あどけない表現はとても無防備であった。それだけ彼女はゼナスを信頼し、安心しきっているということだ。
彼女に悲しい顔はさせたくない。だから…だから四日の間だけで良い、その信頼を姉のために使わせてくれないか。告げられぬ切願をゼナスは飲み込んだ。助けが必要なら呼べと言った口で、姉を助けに行くとは伝えられなかった。
「…それを、貰っても良いだろうか」
「このミミナグサですか?」
ゼナスが「それ」と指差したのは、窓際に飾ってあった小さな花瓶だった。今朝またイバンとアニタが贈ってくれた白い小花が挿してある。
ステファナはイバン達を見遣った。すると二人は首を縦に振り、お好きなようにと手振り伝えてきた。そのためステファナは花瓶ごとゼナスに譲ろうとする。
「どうぞ構いません。どちらに飾りましょうか」
「いや、一輪でいい」
花瓶を差し出してくる細い手を優しく押し留め、ゼナスは一輪だけを抜き取った。それを手近な薄紙に挟んだので、ステファナは押し花でも作るのだろうかと考えた。
「…ありがとう」
「ふふっ、摘んできたのはわたしではありませんよ」
その後、四日のあいだ彼が留守にすると知ったステファナは、分かりやすく眉を下げていた。不安というよりかは寂しげだ。外出の理由は教えてもらえなかった。だが最後には「お帰りをお待ちしていますね」と彼女らしい微笑みを見せたのだった。
ゼナスは夜中に出発した。見送りも頑なに断り、ひっそりと宮殿を出た。こんな事をしても皇太子の外出はいずれ知られるだろうが、多少なりとも時間を稼ぎたかったのだ。ステファナは彼の無事を祈りながら、独り眠りにつく。
だがしかし、此度に限っては皇帝側が一枚上手であった。玉座でオダリスは歪んだ嘲笑を浮かべる。
「いつまであの王女に張り付いていられるかと思うておったが…存外短かったな」
息子の出立を聞いたオダリスは、寵臣を呼びつけてこう命じた。
「用意した刺客を放ち、ゼナスが二度と此処へは戻れぬようにしてやれ」
「御意。直ちに向かわせます」
「…ゼナスよ、守れるものなら守ってみよ。皇太子妃を殺す舞台は既に整っておるぞ」
預かり知らぬところで挑戦状を叩きつけられたゼナスは、闇の中を疾走している最中であった。




