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 ステファナが負った傷は本人の見立て通り、数日の安静で治るものであった。

 あの後、用事を終えて外から戻ってきたアニタは、誰の姿も見当たらない部屋を見て慌てた。出かけていたアニタに言伝を残せる状況ではなかったなどと、知るはずもない彼女はステファナを探し回ることとなった。ようやく見つけたと安心しかけたのも束の間、包帯だらけの主人がいたのだからアニタが愕然としたのは言うまでもない。

 留守中に起きた出来事を同僚から聞き終えたアニタは青ざめた。そして側に居なかった事を、繰り返し詫びるのだった。アニタがあんまり気に病むので、ステファナは手紙を預けたことを少しだけ悔やんだ。


「わたしの頼みで出かけていたんですもの。アニタは悪くないですよ」

「そうだぞ。むしろ居たら居たで、侍女長から酷い目に遭わされたぞ絶対」


 恐らくだがクロエは侍女が出掛けるのを確認し、侍従が離れる時を狙っていたはずである。ステファナの周囲を見張っていなければ、すぐにイバンを足止めし、皇帝と共に乗り込んでくることはできないだろう。無計画ではあそこまで迅速に動けない。

 しかし無抵抗でやられるのが関の山であっても、自ら隙を作り出してしまったのは痛恨だった。生真面目なアニタが項垂れるのも仕方がなかろう。

 大丈夫、大丈夫ではない、というどこまでも平行線な応酬をしていたら、少し前に出て行ったゼナスが帰ってきた。彼の第一声は己の従者の名前だった。


「…ミリアム」

「はい。僕は何をすれば良いですか」


 出て行った際の顰めっ面のままであったので、叱られたイバンなどは分かりやすく目を逸らす。だがこの渋面に慣れ切っているミリアムは、平常通りに言葉を交わしていた。


「彼女がここで過ごせるよう、部屋を整えてくれ」

「えっ!?」

「かしこまりました」


 ミリアムが承知するより早く、ステファナが驚きの声を上げていた。ゼナスが言う「ここ」とは現在、皆が集まっている彼の私室。つまりゼナスは、己の私室にステファナを住まわせようとしているのだ。


「そこの使用人ふたり」

「ひぇ…あ、はい!」

「はい」

「お前達は必要な日用品をここへ運び込め」


 早くしろと睨まれたイバンとアニタは、すぐさま作業を開始する。ぐずぐずしていたら皇太子の顰めっ面が悪化する事が簡単に予想できたのだ。

 ひとり取り残されているのはステファナであった。状況についていけず、目を白黒させている。三人が指示に従って動き、眼前を行ったり来たりするのを、彼女はぽかんと眺めていた。しかし、それまで頑なに彼女の方を見なかったゼナスが、漸く一瞥を寄越した。彼の怖い顔は実際のところ怒りではなく、怒ってしまった気まずさから来るものであったが、見慣れた者でなければ区別できなかろう。


「…君の安全のために辛抱してくれ」

「辛抱だなんてとんでもないです。わたしのためにここまでしてくださって、感謝しかありません」


 ゼナスの気まずさを包んでしまうくらい優しい笑みが彼女の唇に浮かぶ。


「でも殿下のお部屋が狭くなってしまいますね」

「…大して変わらないだろう」


 ゼナスの私室はふた部屋続きになっている。室内にも扉が一つあり、そこを境にして執務室と寝室とに別れていた。一応、内廷にも十五になるまで過ごした部屋は残されているのだが、父との折り合いも悪いし、内廷を側女達が我が物顔で彷徨いているのが嫌だった。父が囲っている側女達は入れ替わり立ち替わりでやって来る。皇帝の子を孕めば、空席のままとなっている皇妃の座を手に入れられるとあって、内廷の殺伐さは尋常ではない。故にゼナスは執務室の一つを貰い、そこで寝起きできるように改装したのだ。


「部屋の物は好きに使って構わないが、部屋の外へ行きたい時は私に言え。私が同行する」

「それは…恐れ多いです」

「今日のように私の知らないところで被害に遭うと、どうしても手間取る。だったら私がいたほうが早い。それに抑止力にもなるだろう」


 正論だが、やはり申し訳ない気持ちが先に来る。ステファナは己が外出したいと言わなければ良い話かと内心で考えた。しかし彼女の思考を見透かしたかの如く、ゼナスが「出たくなくても私の気分転換に付き合ってもらうからな」なんて言ってきたので、思わず肩が跳ねたのだった。




 ステファナが大事にしている私物は、父が用意した裁縫箱とエレナ達からの贈り物くらいである。そのため、就寝する時刻より随分余裕を持って日用品の移動は完了した。


「では本日よりお邪魔いたします」

「ああ」


 改めてゼナスに挨拶すれば、ぶっきらぼうな返事があった。

 二人で夜を過ごすようになったきっかけは使節の来訪だったが、あの時から慣れておいて良かったとしみじみ思う。そうでなければ毎日ずっと一緒に過ごすなんて、想像するだけで落ち着かない心地になったであろう。


「君は先に隣へ行け。いろいろ支度があるのだろう」

「はい。お気遣い感謝します」


 ステファナはアニタを伴って、先に寝室へ入った。余計な物が一切無いというか、本当に寝るためだけに整頓したという感じだ。とてもゼナスらしい。


「お怪我は痛みませんか」

「痛み止めが効いているので大丈夫ですよ」


 恐ろしい目に遭った後でも、平時と何ら変わらない笑顔を見ていると、アニタは感心を通り越して心配になってきた。だからといって我慢ばかりするなと口出しできる立場でもない。彼女も結局、いつも通り淡々と仕事をこなすしかなかった。

 アニタが退室してからややあって、ゼナスが入って来る。待っている間に着替えたらしく、彼の格好は夜間着に変わっていた。無言のまま寝台に転がった彼へ、ステファナは声を掛ける。


「ゼナス殿下」

「何だ」

「ありがとうございました」

「礼はもう聞き飽きた」

「受けた被害なんて霞むくらい、嬉しかったのです」


 無慈悲に閉ざされた扉の向こうから、ゼナスが現れた瞬間。ステファナの胸には窮地を脱したという確信と、大きな安心感が宿った。呼吸が乱れるほど急いで駆けつけてくれた事が嬉しかった。誰よりも怒りを露わにしてくれた事に思わず目頭が熱くなったのだ。

 ゼナスは照れたように笑う顔を凝視したものの、すぐにそっぽを向いてしまった。だが少ししてから、くぐもった声が聞こえ始める。


「…助けが必要な時はいつでも私を呼べ」

「ゼナス殿下…」

「いいな」


 念押しする声はどことなく優しい響きがあった。それを感じ取ったステファナは胸を高鳴らせながら「はい」と嬉しそうに頷くのだった。


 翌朝、ステファナが目を覚ますと隣はもぬけの殻であった。でも声は聞こえるので、執務室にいるのだろう。ステファナは昨夜アニタが置いていった小ぶりの鐘を鳴らした。起きたら合図を下さいと頼まれていたのだ。


「ただいま参ります」


 という声がしてから一分足らずで、洗顔の用意を手に持ったアニタが来た。


「おはようございます。よく眠れましたでしょうか」

「おはようございます、アニタ。ぐっすりでしたよ」

「それは何よりです」


 朝の身支度を手際よく終わらせて寝室を出る。執務室の机には温かな食事が並んでいた。豪華で美味しそうな朝食にステファナは喜んだが、彼女以外は微妙な顔つきである。皇太子妃が普通の食事を有り難がるのを見て、悲しい気持ちになったのだ。


「冷めないうちに食べよう」

「そうですね」


 ステファナが喜んだのは朝食だけでなく、食事が二人分用意されていた事もであった。食事はやはり親しい人と一緒が良い。


「とても美味しいです」

「そうか」


 宮殿に来てから初めて食事が楽しいと感じたかもしれない。そう考えていたのはステファナだけではなかったが、それを知るのはゼナス本人のみである。




 部屋の外へ出るにはゼナスの同行が条件である故に、ステファナは執務室の隅で遠慮がちに座っていた。忙しなく書類を作成する彼の手助けでもと思い、申し出たは良いが素気無く却下されてしまった。曰く「手を借りるような仕事ではない」らしい。その証拠にミリアムも手伝いではなく別の用事をしている。本でも読んでいろと勧められ、怪我が治るまでは言われた通りにしていたが、本を開いても気が散ってしまう。ゼナスを働かせる傍らで悠々と読書なんてできるはずもない。

 悶々とするステファナを見兼ねたのか、ミリアムが「お手隙でしたら、こちらを手伝っていただけますか」と声を掛けてくれた。当然、彼女は嬉々として立ち上がる。


「はい、勿論です。何でも言ってください」

「助かります。この戸棚を空けたいので、いま入っている物を向こうへ移動させたいのです。重たいものは僕が動かしますので、妃殿下は書籍類をお願いいたします」

「分かりました」

「…おい。怪我人に触らせるな。効率が落ちる」


 ミリアムは背中に刺さる何か言いたげな視線に気付いたものの、敢えて無視していた。けれど、黙っていられなかったらしい主人に、うっかり吹き出してしまうところだった。しかも手厳しい言葉を使って照れ隠ししているのが、ミリアムには見え見えなので余計に可笑しい。


「傷口はもう塞がっています。頼りないように見えるかもしれませんが、わたしは土を耕すのが得意だったんですよ。多少の力仕事くらいどうという事はありません」


 そうステファナが得意げに語るので、ゼナスは押し黙った。言いたい事が伝わらないどころか全く歯が立っていない力関係を目の当たりにして、ミリアムは我慢できずに肩を震わせていた。それを見逃さなかったゼナスの人相が悪くなったのは言わずもがなである。


 分かってはいたがゼナスから言わない限り、彼女はずっと執務室で大人しくしているつもりであろう。彼女が遠慮がちに行きたい所があると言ってきたのは、たった一回だけだ。しかも行き先は厨房で、助けを呼ぶため走ってくれた兄弟に感謝を伝えたいという動機だった。兄弟に会ったら満足してしまったらしく、それきり彼女は外出を希望する素振りすら見せない。

 埒があかないので、ゼナスは気分転換と称してステファナを乗馬に連れ出した。誘われたステファナは勿論大喜びで、踊るような足取りでついてくるのだった。そんなに嬉しいのならいつでも言ってくれれば良いのに、とゼナスは思う。でも彼女のそういう慎み深い一面も美徳だと感じるので、結局ゼナスは思った事を口に出せずにいる。


「あのじゃじゃ馬はちゃんと躾けたんだろうな」

「ブランカはもとから利口ですよ」

「利口な馬はいきなり人を噛んだりしない」

「本当に賢い子ですのに…でも、分かりました。きちんと言い聞かせます」

「是非そうしてくれ」

「ふふっ」


 二人は仲良く連れ立って馬場へ向かっていた。ゼナスは皮肉を語るが、そのくせ口調は柔らかいので、台詞と声音がちぐはぐになっている。可笑しな矛盾に本人も気付いておらず、ステファナもまたそれが自然な事のように受け止めていたのである。


 しかしながら優しい雰囲気に包まれる二人を、軽蔑の眼差しで見下ろす者がひとりいた。


「操り人形のままでおれば生かしてやったものを…事もあろうにカルムの王女に絆されるとは嘆かわしい。実に愚かな息子だ」


 オダリスの独り言は誰の耳に入ることもないまま消えていくのであった。

【補足①】

ゼナスの母が亡くなって十五年は経ちますが、それから誰も皇帝の子を孕む側女はいません。


【補足②】

ステファナがジルとティムに会いに行った際。当然ゼナスも一緒にいたので、兄弟は縮み上がってしまいました。ステファナの後ろから睨んでくる瞳が怖かったのです。

でもゼナスは悪意があって睨んでいたのではなく、二人のことをあまり知らないので、どんな人物か見定めようとしていただけです。後で「よく報せてくれた」とぶっきらぼうに褒めています。


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