24
その日、ステファナは悩ましげな顔で机の上を見つめていた。
「…何かお困りでしょうか」
「あら、アニタ」
手紙を書いているのはアニタにも一目瞭然だったものの、常ならば嬉しそうに筆を走らせているところだ。いや、正しくはつい先程まで普段通りであった。ステファナが悩み始めたのは、筆を置いてからである。封筒に入れる訳でもなく、書き終えた文面と睨めっこしていたら、アニタでなくとも不審に思うだろう。
「届ける方法を考えていなくて…どうしたものかと悩んでいました」
「?」
アニタは首を傾げる。祖国の家族宛に書く手紙はゼナスが預かっているはずだ。「私が送る書類に誤って混ざるだけだ」とは彼の弁だが、ステファナが嬉々として預けているのをアニタも幾度か目撃している。そうなると、宛先は家族ではないのだろう。
「どなたにお出しになるのですか?」
「シェケツ村の皆さんです。雪解けも終わりそうですし、今ならお返事が出せると思い立ったものの…肝心な事を失念していました」
「いつもと同じくゼナス殿下にお渡しすれば解決するのでは?」
「それはそうだと思うのですが…」
ステファナははにかみつつも、言葉を濁した。確かにゼナスにお願いすれば、頼まれてくれるだろう。けれどシェケツ村へ送る手紙は公的な書簡でもなければ、彼の書類に混ざったという言い分が通るものでもない。完全に私的な手紙である。
「最近、特に忙しそうにされていますし、私用で殿下の手を煩わせるのも如何なものかと」
言われてみれば近頃のゼナスは、忙しそうに動き回っている気がした。皇帝の使い走りにでもされているのだろうか。何にせよ、ステファナが二の足を踏む気持ちも分かる。そこでアニタはある提案を申し出るのだった。
「…僭越ながらわたくしがお預かりしましょうか」
「アニタが?ありがたいのですけど、かなりの遠出になってしまいますよ」
「わたくしは配達人を手配するだけです。街へ行けば依頼できますから、半日もかからず戻ってこられます」
「そうなんです?では…お願いしても良いですか?」
「はい」
「ありがとうございます!アニタ。折角ですからアニタとイバンも書きませんか。二人もお手紙を貰っていましたよね?」
「…そうですね。お礼の書状は必要です。彼も呼んできます」
それから三人であれこれ言い合いながら書き上げた手紙は、アニタが責任を持って預かることになった。ステファナは配達人に支払う依頼料を用意し、ブランカに乗って行くようアニタに勧めた。
「しばしの間、大切な愛馬をお借りします。なるべく早く戻りますので」
「焦って怪我をしてはだめですからね。ブランカ、アニタの言う事をちゃんと聞くのよ?」
ブランカは小さく鳴いた。アニタが跨っても大人しくて利口だ。どうしてゼナスにだけ噛み付いたのかは未だに謎である。
気をつけて、とアニタを見送ったのは午前の話だ。そろそろ腹の虫が鳴きそうな頃合いである。
「もうすぐお昼ですね。俺、食事もらってきますよ」
「はい。お願いします」
「なるべく多めにとってきますからね!」
「イバン、盗んではいけませんよ」
イバンは忠告を最後まで聞かずに行ってしまった。だが彼の発言は笑わせるための冗談であると知っているので、ステファナも軽く釘を刺すだけに留めた。
食事が届くのを待つ間に、散らかった机の上を片付けよう。そう思った彼女は一人で整頓をし始める。しかし作業は扉を叩く音で中断された。
「はい。どうぞ」
「失礼致します。ステファナ妃殿下」
扉を開けた先に立っていたのは侍女長のクロエだった。彼女絡みで散々あったため、どうしても警戒してしまう。
「…何でしょうか」
「お言葉通り、不義申し立てに参りました」
そう告げたかと思えば突然、クロエは腕を振りかぶり、ステファナを殴りつけてきた。それも平手ではない。拳だ。
ステファナは咄嗟に両腕を前に突き出して庇ったが、直撃を免れるのがやっとであった。そのまま体勢を崩し、床に倒れこんでしまう。
しかしクロエの追撃が止まらない。今度は横腹に向かって蹴りが飛んでくる。ステファナは身を捩ったが間に合わず、痛い所にクロエの爪先がめり込んだ。目の前がちかちかと明滅して、立ち上がるのが困難になる。
「余所者の癖に良い気にならいでくださいまし。少しちやほやされただけで、つけ上がるのも大概にしていただきませんと、目障りで仕方がありません」
クロエは冷ややかに見下ろしながらステファナの襟元を掴み、思い切り頬を打った。苦しげにえずいていたステファナには、もう避ける余裕が無い。ぱんっという乾いた音が室内に響いた。叩かれた衝撃で鼻の粘膜が傷付いたらしく、ステファナの衣装に転々と赤い血が落ちる。
そこへ畳み掛けるように、嫌な声が彼女の耳に飛び込んできた。
「野蛮なカルム人も血は赤いのか。余はてっきり汚泥と同じ色をしていると思うたが」
オダリスいつから居たのか知らないが、ステファナにとって最悪な状況になっている事だけは確かだった。
大方クロエがどんな暴挙に出ても、皇帝の力でお咎め無しにしてもらう魂胆なのであろう。この二人が手を組んでステファナを攻撃しに来たとあっては、立ち向かう術が無い。正当防衛を主張したところで、絶大な権力の前では反逆と見なされてステファナが悪者にされるだけだ。
「クロエ。そなたは辱めを受けたそうだな」
「そうなのです。陛下」
襟元を掴んだまま、クロエは得意の泣き真似を始める。
「妃殿下がゼナス殿下を図々しく引き留めたために、私はお役目を果たすことすら叶わず…陛下、お願いいたします。私が味わった辱めを、どうか晴らしてくださいませ」
「ふむ…では其奴を裸にし宮殿を一周させれば、そなたの気は晴れるか?」
「はい。陛下」
クロエはたちまち唇の端を持ち上げ、ステファナの衣服を剥ぎ取ろうとした。だがステファナとて、そんな事を聞いて大人しくされるがままになる訳にはいかない。痛みは無理やり忘れ、力を振り絞って抵抗した。人前で陵辱されるより、殴打されるほうがまだ耐えられる。
「触らないでくださいっ、わたしが肌を許すのはゼナス殿下だけです」
「未だ"お印"もないのに、口先だけは立派ですこと」
「こんな貧相な女どこに息子を籠絡させるような色香があるのか…我が息子ながら信じられんことだ」
だが彼女の捨て身の抵抗は、嘲笑されてお終いであった。
「何を手こずっておる。小刀を使え。多少、体に傷がつこうとも構わぬ。余も先だっての使節を見た時から胸のむかつきが治っておらぬのだ」
「承知いたしました。陛下」
小刀を鞘から抜き取ったクロエは、鈍く光る切先をステファナの胸もとへ向けるのだった。
「さあ、大人しくしてください。妃殿下」
「やめてください…っ」
「ところで妃殿下のお父君は"呪われた王子"と呼ばれ、忌み嫌われているそうですね。そのように穢れた身でゼナス殿下に擦り寄るなど以ての外でございますよ」
刹那、ステファナの動きがぴたりと止まった。ようやく諦めたかと、クロエがほくそ笑んだ直後───ステファナが自身に向けられていた小刀を掴んだ。柄はクロエが握っているので、刃先は当然ステファナの掌に食い込む。
押し戻されていく小刀にクロエは驚愕を隠せなかった。白魚のような指が、鋭い刃を躊躇なく掴むなんて誰が予想できただろうか。柔らかな皮膚が裂かれ、鮮血が流れていく様子をクロエは信じられない心地で眺めていた。
「わたしの父は完治することのない病と闘っています。それを呪いだ、穢れだと蔑まれるのは許せません。あなたは自分の大切な人が病気で苦しんでいる時、呪われていると言って見捨てるのですか」
流血させるまで痛めつけたというのに、ステファナの心を挫くことはできなかった。挫くどころか青い双眸にクロエが気圧される始末であった。非常に面白くないクロエは憎悪に駆られ、力づくで小刀を押しこんでやろうとした。
その時である。息を切らしたゼナスが飛び込んできたのは。
ゼナスの眼が血に塗れたステファナを捉えたと同時に、彼の全身から怒気が迸る。そして一足飛びに突進していった先は、ステファナに刃を突き立てようとしている女のところであった。
ゼナスに凄まれたクロエは拘束もされていないのに、一切の身動きがとれなくなっていた。彼に殺される未来を直感したからである。
「余を失望させるな、ゼナスよ」
しかしクロエの命が刈り取られることはなかった。オダリスの発した億劫そうな声が、場を膠着させたのだ。ただしゼナスが纏う、いっそ禍々しいほどの殺気は放たれたままだった。一言も発していない事が怖さを助長させている。
「それにしてもクロエ、話が違うのではないか?」
「…申し訳ございません。足止め役がしくじったようです」
次第に廊下の方が騒がしくなってきた。ゼナスの全力疾走においていかれたミリアムとイバンが追いついた足音であった。二人が到着するとすぐ、今まで口をきかなかったゼナスは「彼女を連れて出ろ」と短く命令を出した。その声があまりにも低くて恐ろしく、長い付き合いのミリアムでさえ怯んだくらいだった。イバンなんて足が震えている。だが二人もステファナの姿を見たら、恐怖なんか激しい怒りに押しのけられた。
「妃殿下、立てますか」
「俺に掴まってください」
横腹を蹴られた衝撃がまだ残っているのか、立ち上がったステファナの足取りは少し覚束なかった。それでもどうにか二人の手を借り、其処から脱出する。その際、ほんの一瞬だけゼナスと目が合った。他人を震え慄かせるほど激していたはずなのに、ステファナには彼が泣きそうな顔をしているように見えたのだった。
ステファナを逃した後で、ゼナスは父に向き直った。
「…いかに父上とはいえ、私の妃に手を出す権利はありません」
「その様子ではよほど惚れ込んでいるようだな。やはりお前にあの王女をあてがったのは間違いであった」
「私が彼女にどんな感情を抱こうと、父上には関係ないでしょう」
「カルム人でなければな」
「まだそのような事を…!」
仇国の王女だから、たったそれだけの理由でどこまで彼女を痛めつければ気が済むのか。ゼナスは噛み締めた奥歯から軋む音を聞いた。
しかしオダリスはというと目をかっと見開き、更には大口を開けて怒鳴り出すのであった。
「そのような事とはなんだ!!我が帝国に剣を向けてきた愚か者が集う国ぞ!!」
「彼女がいなければ大勢の民が死んでいました。現に彼女は奇病から人々を救っている」
「だからどうした。弱い人間が死ぬのは道理だ。生き残ったところで無意味な存在でしかない。死に損ないを助けて有頂天になっているのか?馬鹿馬鹿しい!」
カルム王国のみならず、自国の民まで虫けら同然に扱う言い草だった。
ゼナスが初めてシェケツ村へ足を踏み入れた時。既に恐ろしい奇病が蔓延し、人々の瞳は絶望で濁っていた。すぐそこまで死が迫っているのが到着したばかりのゼナスにも感じられた。そんな中でステファナは奇病の正体を突き止め、村人を深い絶望から救い出したのだ。人々の瞳に活力が戻っていく様を、ゼナスはこの目で見た。そして素直に凄いと感銘を受けた。己を含め帝国の人間は誰も、民に希望を与えることができなかったのだから。
国の主であるはずの皇帝とは比べ物にならないほど、ステファナはウイン帝国の窮状に危機感を抱いている。一人でも多くの民を救いたいと切に願っている。父の言う「愚か者」に縋らなければ衰退していくだけだった我々こそ、真の愚者ではないのか。ゼナスは不甲斐なさを恥じたが、父は違うのだろう。
「余はあの王女を皇太子妃として認めておらぬ!あやつが何をしようと知った事ではない!」
オダリスには他人のどんな言葉も届かない、考えが変わることもない。これ以上の口論は徒労にしかならないのは明らかである。ここで無駄な時間を浪費するくらいなら、負傷したステファナの元へ行くほうが有意義だ。ゼナスは眼光鋭く睨んでいたが、もう父の顔など見ていたくなかった。
「カルム人に肩入れするつもりなら、息子だとて容赦せぬぞ!!」
父の怒号を背中に受けたが、ゼナスは一切聞こえぬふりをしてその場を後にするのであった。
血を流すステファナを見た時、ゼナスは感情の制御を失いかけた。否、恐らく理性の糸は切れていた。この二十年の生涯でも感じたことのない、激流のような怒りであった。
それでも辛うじて侍女長を殴殺せずにいられたのは、ステファナの視線を感じたからだ。我を忘れた獣のような姿を見られたくはなかった。彼女が居なかったら、それこそ己が何を仕出かしたか分からない。ステファナが裸にされて連れ回されるところだったと、彼が知らずにいたのは幸いだったのかもしれない。
煮え滾る腑を鎮める術もわからぬまま、ゼナスは走った。脇目も振らずに向かう先は彼の私室。ミリアムが避難させるとしたら其処しかないからだ。
ゼナスは加減も忘れて思い切り扉を開ける。
「…ゼナス殿下!」
真っ先にゼナスを呼んだのはステファナであった。彼女は部屋にある椅子に座り、自分で傷の手当をしていた。ゼナスを見つけてぱっと顔を明るくする様子にいつもなら気持ちが緩むところだが、今回ばかりは荒れ狂った感情が治まる気配も無い。
「助けてくださってありがとうございました」
「それはいい…怪我の具合は」
「ひと通り確かめてみましたが、程度としては軽症だと思います」
ステファナはそう言うものの、胸元には血が付着したままだったし、殴られた頬や腕は赤紫色に腫れ上がっている。唇も切れており、恐らく口の中も同様だろう。掌の切創が最も酷く、巻かれた包帯から既に血が滲んでいる。可哀想なほど痛々しい姿だった。
彼女の呑気な見立てを鵜呑みにできなかったゼナスは、ミリアムに「侍医はまだか」と尋ねる。
「妃殿下の侍従を呼びに行かせました。じきに来るかと」
「遅い。急がせろ」
ゼナスが刺々しい言い方でミリアムを部屋から追い立てたため、室内には二人だけが残された。
流石のステファナも見るからに不機嫌のどん底にいる彼に対し、普段と同じ調子で話しかけることはできなかった。
「腹をやられたのか」
「はい…でも骨に異常はなさそうです」
蹴られた横腹も痛みは引いており、打撲傷で済みそうな感じだ。骨や内臓を痛めてなくて良かったとステファナは思ったのだが、ゼナスの意見は違うらしい。彼の眉間にあった皺が余計に深くなったからだ。その理由は、満身創痍のくせに彼女が痛いと言わないためであるが、ゼナスが黙るのでステファナには伝わらず終いだった。
「殿下はどうしてわたしがあそこにいると分かったのですか?」
「…君と顔見知りだという料理人が助けを求めにきた」
ゼナスはそれだけしか説明してくれなかったが、後日詳しい話をイバンに聞いたところ。
昼食を貰いに厨房へ向かっていたイバンは、侍女長の手下に包囲されたという。引き返したくとも道を塞がれてしまい、強行突破するには人数的に不利だった。ステファナには話さなかったが、突破を試みようとしてイバンも何発か殴られている。ただ彼は一応、軍務についた経験のある人間なので攻撃を受け流すことができたのだ。
そうやって立ち往生していた場面を、偶然にもジルとティムが見つけたそうだ。兄弟はすぐにでも助けに行こうとしたが、二人の存在に気付いたイバンが唇の動きだけでステファナの危機を教えた。
イバンを囲んでいるのが侍女長の手下であるのはジル達も見て分かった。だとすれば二人でステファナを救出に向かっても太刀打ちできない。兄弟は助けを借りに行く事に切り替え、皇太子の私室へ急いだ。こうしてゼナスはステファナの窮地を知るに至ったのだ。
余談だがジルとティムは仕事を放り出して皇太子を探しに行ったため、こっ酷く叱られる羽目になってしまった。けれども二人は料理長に頭を下げながら、こっそり胸を撫で下ろしていたのである。
「…ゼナス殿下…大丈夫ですか?」
言葉数が少ないのはいつもの事だが、今の彼は輪をかけて無口だ。皇帝と交わした会話の内容を知らないステファナは、ゼナスの様相が気がかりであった。春雷の夜、父に対して苦しい胸中を吐露していた彼がまた傷付いていないか心配だった。
それはステファナらしい思い遣りであったが、この場においては芳しくなかった。ゼナスが猛然と食ってかかってきたのである。
「っ、私の心配をしている場合か?誰がどう見ても心配されるべきは君だろう!」
彼の大きな怒声なんて初めて耳にしたかもしれない。ステファナは怒られた事より、もの珍しさが勝ってしまった。
呆気にとられる彼女に何を思ったのか、ゼナスは顰めっ面を濃くし、勢いよく扉を開けて出て行こうとする。だが丁度その時、侍医を呼んできたイバン達が扉のすぐ近くにいた。特にイバンは危うく顔面を強打するところであった。
「うわっ!?」
「………」
驚くイバンをゼナスはひと睨みする。そのまま素通りするかと思われたが、彼はイバンに厳重注意をするのだった。
「主人の側を離れてふらふらするな。何のための侍従だ」
「はっはいぃ!申し訳ございませんっ!」
イバンだって反省しているが、護衛が足りないのは今更だし、立場の弱い人間が何人束になっても皇帝には敵わない。次々と言い訳は思い浮かんだものの、あまりに恐ろしい威圧感に体が竦んでしまい、イバンは平謝りすることしかできなかった。




