23
皇帝の口添えもあり、隅々までめかしこんで皇太子を誘ったのに結果はどうだ。毛ほども相手にされぬまま、離宮に置き去りにされたクロエは怒り心頭であった。
朝から侍女長が荒れている原因を知る者は、ごく僅かだ。当事者を除くとアニタだけであろう。昨夜のこともあり、アニタはいつもの時間より早くステファナの私室へ向かった。そこでゼナスの姿を見つける羽目になったのである。離宮にいるはずの皇太子がいたのだから、アニタは心臓が口から出るかと思うくらい驚いた。本人が受けた衝撃は凄かったもののそれが表情に出る事はなく、目を見開いた程度の変化しかなかった。
ともかく大変驚きはしたが流石は冷静な侍女である。状況を飲み込み次第、こっそり皇太子を帰す手伝いに加わっていた。以上の経緯により、アニタは偶然にも昨夜の真相を知ることとなった訳だ。
「…良かったですね」
言葉少なに朝の身支度をしていたステファナへ、アニタがそっと声をかけると、はにかみと共に小さな頷きが返ってきたのだった。
同じ頃、ゼナスは父に呼ばれ昨夜のことに関して執拗に叱責されていた。父の意図を無視した挙句、よりにもよって父がいま一番憎んでいる相手のもとへ行ったからだ。しかし父の長たらしい説教が心に響くはずもない。ただただ耳に障る煩い声だとしか感じなかった。
父の怒声はゼナスがこの世で最も嫌う音である。耳障りな音を聞かないで済むよう、面倒事は徹底して避ける生き方を学んだ。大人しく操り人形になっている間だけは静かに暮らせることを、ゼナスは思い知ったからだ。嫌というほど分かっていたはずのに、父に背く決意が生じる日が来ようとは。ゼナスは己の中で起きた真逆の変化を意外に思う。だが、もはや戸惑いは覚えなかった。
「父上。金輪際、私に側女は必要ありません」
ゼナスはそれだけ告げると踵を返すのだった。
この一件以降、ゼナスは毎夜訪れていた離宮に寄り付かなくなった。そして今回はステファナも一緒である。と言っても、ゼナスが彼女の私室で休むようになったので、必然的にステファナも行かなくなっただけだ。もう隠しても意味がないため、彼は堂々とやって来る。イバンとアニタは当惑より安心の気持ちのほうが強かったようで、案外すんなり順応していた。
ついでに盗まれていた衣服や小物も戻ってきた。ステファナはゼナスが探し出してくれたと思って喜んでいるが、正確には少し違う。どうにも納得のいかなかったアニタが、ゼナスに密告したのが発端だった。
結局というか矢張りというか、窃盗犯はクロエであった。告発したところで皇帝の力で揉み消されるのが見えていたので、物品の返却のみで手打ちとした。アニタはそれでも不服そうだったが、喜ぶステファナの姿に溜飲を下げたみたいだ。
「盗人が着た服など嫌ではないのか」
「新品同然でしたし、気になりませんよ」
寝台で横になるなりゼナスがそんな事を聞いてきたので、ステファナはあっけらかんと返答した。
「それに一着の服を完成させるため、多くの方の労力が使われているのです。着られる間は大切にしたいと思います」
「そうか…君が気にしていないならいい」
寝る前に一言か二言、言葉を交わすのがいつの間にか習慣になっていた。殆どの場合、ステファナが話題を持ち出すのだが、今夜は珍しくゼナスから切り出してきた。言葉少なである分、ゼナスは回りくどい言い方を避ける。そういうところにも彼の実直さが現れているようで、ステファナは好きだった。
「お休みなさいませ」
「ああ。おやすみ」
そうして平穏に静まった夜に思えた。
ところが、それから二時間もしないうちにステファナは目を覚ました。閉じていた瞼の向こう側で、閃光が走った気がしたのだ。寝ぼけ眼を薄く開けた直後に、雷鳴が闇をつんざいた。
時期的に春雷であろうか。微睡から抜け出せない頭でそう考えていたら、隣で身動ぎする気配を感じた。横に目を向けると、ゼナスが上半身を起こしていたのだった。
「…殿下?」
「…すまない。起こしたか」
「いえ、雷の光で…」
彼女が答えている間にも、雷鳴が一つ轟く。段々と近くなっているようだ。一人だけ横たわっているのは落ち着かず、ステファナも上体を起こした。
「…眠れませんか?」
ステファナがごく小さな声で問いかけるも、返事は無い。けれどそのままステファナも黙っていたら、やがて彼は徐に呟くのであった。
「…情けない話だが、昔から雷音が得意ではないんだ」
心から情けないと思っているのだろう。絞り出したような声が、彼の苦しい心情を言外に訴えてくる。
「情けなくなどありませんよ。誰にでも苦手なものはありますが、それを馬鹿にする権利は誰にも無いのですから」
窓の外でまた閃光の筋が走る。一瞬だけ照らされたゼナスは、えも言われぬ切ない顔をしていて、ステファナは息を呑んだ。
「……私は、他人に恐怖を与える音が大嫌いだ」
しめやかに紡がれた言葉。それは、誰にも打ち明けることのできないままになっていた、彼の痛嘆であった。
「雷鳴を聞くと、父上の恫喝に恐怖していた者達の顔が浮かぶ。何人も、何人も見てきた。私はいつも見ているだけだった。死人が出ても私は傍観者をやめなかった。泣いて助けを求める者達をただ眺めていたのだ。平然とな。そういう己に心底嫌気がさす。だから…雷は苦手なんだ」
母と死別し、姉とは離別させられたゼナスが、宮殿で生き抜いていくためには命令を機械的に遂行し、何を見ても黙するしか方法が無かった。反発する気持ちを言葉は勿論のこと、顔色にでも出したが最後、父の怒号の餌食になる。けれど感情を殺して宮殿に居残る意味は、もはや見出せなくなっていた。
皇太子としての務めを思い出すことができたのは、ゼナスの目の前でステファナ帝国を救わんと闘ってくれたからだ。彼女が此処へ来ていなければ、ゼナスは心の均衡を保つことまで辞めていたかもしれない。
そこまでじっと耳を傾けていたステファナであるが、不意に彼の名を呼んだ。
「ゼナス殿下」
「…?」
「平然と、ではないはずです」
彼女の眼差し、声色、仕草、それら全てがゼナスを慰撫していく。
「雷が鳴るたび胸が疼くのだとしたら、それは殿下が傷ついておられる証です。誰かのために心を痛め、その痛みをずっと内に留めておくのはとても苦しい事です。ご自分が傷つくことになっても、苦しみから目を逸らさなかった殿下は、本当に強くて優しい方だと思います」
ゼナスは喉の奥のほうがぐっと詰まるのを感じた。心臓のある辺りで何か大きなものが、つっかえている感覚だった。己が傷ついているとは思わなかった。もっと酷い傷を負わされた人は大勢いたからだ。だからゼナスは己が被害者面をするなんて、あってはならないと思い込むようにしていたのかもしれない。でも実際には彼女の言う通り、己は傷を受け続けていたのだろうか。苦しいと、言葉に出しても許されたのだろうか。
「辛い胸中を明かしてくださって、ありがとうございました」
「いや…君に聞いてもらえて良かった」
「今後は雷鳴が聞こえたら、わたしが殿下を雷から隠して差し上げます」
突然何を言い出したかと思いきや、ステファナは両手を広げ胸を貸す体勢をとる。
「お嫌でなければ、耳も塞いでおきますから」
「なっ…!」
さあどうぞ遠慮なくと言わんばかりの彼女を見て、感傷的になっていたはずのゼナスは泡を食った。ステファナの勧めは即ち、その柔らかな胸に抱かれるという事である。雷が苦手だからなんて子供じみた理由で、大の男が彼女の胸に顔を埋めることなどできようか。
ゼナスは目を吊り上げながら逆上せているが、結婚して半年以上が経過している夫婦が抱擁ごときに恥じらう必要は無い。しかしながら当人達は至って大真面目で、必死だった。
「君はっ、自分が何の言っている事を理解しているのか!?」
「同じことを妹達にもしてあげていましたよ?」
ステファナは彼を苦手なものからできるだけ遠ざけたいと一生懸命なのだ。間違っても小馬鹿にするためとか、誘惑するために提案したことではない。ゼナスもそれは分かっているので、素気無く突っぱねられずにいる。
「私を君の妹と同列に並べるなっ」
「あっ…そうですよね。せめて兄と申し上げるべきでした」
「私が言いたいのはそういう事ではない」
気の抜けるような会話をしているうちに、雷は遠のき始めていた。すっかり脱力したゼナスは彼女に背を向けて横たわる。雷の音なんかどうでもよくなってきたのである。ステファナも押し切ろうとはせず、彼に倣って眠る体勢になった。
まだ遠雷は聞こえていたものの、ゼナスの脳裏に過去の光景が浮かぶことはなかった。代わりに、ステファナの大真面目な顔だけが思い出される。
「…気持ちだけ貰っておこう」
隣で彼女が微笑んでいる事は、寝返りをうって確認するまでもなく分かった。
ステファナと過ごすひと時は平穏に満ちていた。ゼナスは彼女と話していると、嫌な事を考える隙が無かった。せっかくの穏やかな時間を、暗い思考で台無しにするほうが勿体なかったのだ。
それはステファナも同様だったのだが、彼がいない昼間は四六時中、皇帝の目を気にして過ごさなければならなかった。その上、侍女長を筆頭とする使用人からの嫌がらせが加速しており、苦行をひたすら辛抱する毎日が続いている。
不足している物品の補充を断られたり、すれ違いざまに服を汚される、わざとぶつかってくる、罵詈雑言を吐かれる等は日常茶飯事だった。ついこの間など履き物が壊されていたために、階段から転がり落ちそうになった。唯一、無事と言えるのは私室くらいである。ゼナスが出入りするため、室内を荒らしては悪事が明るみに出ると危惧しているのだろう。皇太子の影響力とは凄いものだ。
被害はイバンとアニタにも及んでいるらしく、お仕着せが破られたり紛失したりするのは、もう数え切れない程あったという。料理人の兄弟に事情を話して場所を間借りし、荷物を避難させて事なきを得たそうだ。
どんな事をされても絶対に仕返しをせず、毅然と受け流すステファナであるが、あくまでもそれは標的が自分自身に向いている場合だ。イバンとアニタが困っている事を知った際は、侍女長を呼びつけ「不義申し立てがあるのなら、彼らに見苦しい八つ当たりなどせず、わたしに言えば良いでしょう」と真っ向から説教していた。
反撃する力の無い弱者を庇うステファナの性分は、近くで何度も見てきたイバン達がよく知っている。だから嫌がらせをされても二人揃って隠蔽していたのだが、どこからか話が漏れてしまったようだ。案の定、ステファナは黙っていなかった。庇ってくれるのは勿論、感謝しかないのだが如何せん相手が悪い。以前もアニタを庇って謹慎させられたのに、面と向かって注意を受けた侍女長が後で何を仕出かしてくるか。イバンとアニタはひどく気を揉んだ。
ところが拍子抜けすることに侍女長はその後、目立った行動は起こさなかった。精々、睨んでくるか無視するくらいである。ステファナは考えもしなかっただろうが、皇太子の影響力は意外な場面でも効果を発揮したのかもしれない。
【補足】
ゼナスは父に反抗したことがありませんでした。母が死んだ時も、姉が追い出された時もです。黙って俯いていただけでした。




