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クレヴァリー公が宮殿に滞在している間、彼だけでなくステファナも手厚い待遇を受けた。皇帝はその光景を視界の端にも入れたくないのか、ほんの僅かな時間しか内廷から出てこなかった。そのくせ、息子夫婦が仇国の使節に要らぬ事を吹き込まないよう、配下を使って監視はさせているのだからたちが悪い。
しかし洞察力に長けたクレヴァリー公には全て看破されていた。敵対心を燃やす皇帝と、和平を願う皇太子夫妻。その両者の事情を汲み、彼らが望む通りの振る舞いに徹したのである。流石はカルム国王の忠臣といったところか。
使節が帰国する日に、ステファナは書き上げた手紙をクレヴァリー公に手渡した。普通なら封蝋で閉じるところを、彼女の手紙は巻物みたいに紐で括られていた。やや太めの黄色の紐だった。
「これをお兄様にお渡しください」
「はい。確かに承りました」
ステファナが封蝋を使わなかったのには理由がある。括る紐の色で隠された伝言の意味が変わるのだ。これは彼女が嫁ぐ前に、国王である兄との間で密かに決めた約束事だった。
青色の紐は"取り立てて問題無し"。
黄色の紐は"引き続き予断を許さない状況"。
赤色の紐は"深刻な危険が及んでいる"。
検閲を警戒したステファナの兄は、手紙の中身は無難な話題に留めておく代わりに、兄妹にしか分からない伝達方法を考えた。ステファナは手紙を送る機会をうかがっていたが、ようやく準備していた色付きの紐を使う時が訪れたのである。願わくば青色の紐で括り、祖国にいる兄を安心させたかったが彼女の淡い期待は叶わなかった。
「他にも伝言はございませんか?」
「そうですね…では、心配は程々で大丈夫です。と伝えてください」
「かしこまりました」
心配しないでほしいと伝えても、それはできない相談であろう。だからステファナは「程々」にと告げた。此方のことを案じるあまり、身体を壊しでもしたら元も子もない。
伝言を預かったクレヴァリー公は、胸に手を当て跪く。
「…カルム王国の者は皆、貴女様の幸せを願っております。何卒、ご自愛くださいませ」
帰国したクレヴァリー公の報告は、要約すると以下の通りであった。
『オダリス皇帝陛下の敵愾心は激しく、ステファナ妃殿下のお立場は苦しいものと推察される。しかしながらゼナス皇太子殿下は我が国との和平に意欲的であり、妃殿下も御心を許しておられるご様子であった』
妹が変わらぬ笑顔を見せていたと知った兄は、玉座で安堵の息をついたという。
仇国の目が無くなれば当然、ステファナの生活は逆戻りである。皇帝は数日間で溜まりに溜まった鬱憤を、臣下にぶつけて晴らしているそうだ。ステファナは義父と極力顔を合わせないようにしているが、それでも時折大きな怒鳴り声が耳に入ってくるので、廷臣達を気の毒に思った。
息を潜めて日々を送る中、離宮で眠る時間が一番心の休まるひと時になりつつある。食事も以前のように減らされ、私室でひとり食べ進めるのも元通りになったのだが、ゼナスが離宮に来る事だけはそのままであった。仲の良いふりをするために始まった習慣なので、やめてしまっても支障は無いはずだ。だが彼は離宮に来るのをやめなかった。ステファナは再び面食らったものの、今度は何も言わずに受け入れた。彼の告げた「寝台が使われているか確認しにきた」という言葉を鵜呑みにすることにしたのだ。
それからゼナスは、前触れなく手紙を持ってくるようにもなった。彼の言葉を借りるなら「私の書類に混じっていた」そうだ。どういう手違いで皇太子の書類にステファナ宛の手紙が混ざるのか分からないが、祖国からの手紙を彼女は有り難く受け取った。彼が手紙を渡してくる頻度に規則性は無かったので、恐らく幾つかは処分されてしまっているのだろう。けれども、捨てられる前に人目を盗んで持ち出している彼の姿を想像しただけで、ステファナは胸が温かくなった。
そして手紙を離宮に持ち込んで読んでいると、ステファナが読み終わるまで灯りを消さずに待っていてくれる事も殊更に嬉しかった。そういう訳でゼナスと一緒に過ごしている時は自然と笑顔がはみ出ており、ステファナは度々「何がそんなに可笑しいんだ」と不審がられてしまうのだった。
互いを見つめる瞳に優しい思慕が宿っている事は、やがてオダリスも気付くところとなった。皇帝は義娘の幸せそうな笑顔なんぞ見たくもなかったし、それを享受している息子にも怒りが湧いた。
二人が一線を越える前に手を打たねばなるまい。そう考えたオダリスは侍女長のクロエを呼んだ。
「お呼びでございましょうか。皇帝陛下」
侍女長は皇帝陛下のお気に入り、というのは宮殿で働く者ならば皆が知っている事だ。クロエの実家は過去に皇帝の花嫁を出した、皇族の遠縁である。故に、彼女が年齢や経験にそぐわない立場で大きな顔をしていても、誰も文句は言えなかった。それを良い事にクロエは宮殿内でやりたい放題なのである。オダリスとしても侍女長は使い勝手の良い手駒だった。
「今宵、存分に着飾って離宮へ行き、皇太子と一夜を共にいたせ」
「私で宜しいのですか?」
などと言葉では謙遜しつつ、クロエの顔は欲望に塗れていた。
「余が許可する。子を孕めばいずれ皇太子妃にしてやろう。それまでは側女で我慢せい」
「仰せのままに致します。陛下、約束でございますよ?懐妊した暁には私を皇太子妃にしてくださいましね?」
恍惚としてしなだれるクロエに、皇帝は下卑た笑みを見せるのだった。
陽が落ち、寝支度を始めていたステファナのところへ叩扉があった。アニタが対応しに出て行ったが、扉の向こうにいたクロエに押し退けられる。
「夜分に失礼いたします。妃殿下」
「何かご用でしょうか」
侍女のお仕着せではなく上等な衣を纏うクロエを怪訝に思うが、ステファナは平静を装った。
「今宵の夜伽には私が呼ばれておりますゆえ、妃殿下は私室にて休息なさいますよう、お伝えに参りました」
「…初耳です」
「ですから今、お伝え申し上げました。妃殿下は隣国からお越しのためご存知ないかもしれませんが、御子に恵まれない妃に代わり側女が世継ぎを生む事は、我が国において珍しくございませんよ」
それくらいステファナも知識として頭に入っている。カルム王国でも愛妾を側に置くことはあった。ステファナの父は母一筋だが、亡き祖父は途切れることなく愛妾を侍らせていたと聞く。
ただ祖国と違うのは、ウイン帝国では側女が産んだ子でも帝位継承権がある点だ。極端な話、この国では平民の女人であっても皇子を産めば国母になれる可能性があるのだ。
「それは存じております。しかし、本当にゼナス殿下が…あなたをお呼びになったのですか?」
ステファナは声こそ震えていなかったが、無意識に服を握りしめていた。ステファナが見据える先で、クロエは勝ち誇った表情をするのだった。
「ええ。左様でございます」
「…そうですか」
「妃殿下に代わり私が精一杯、ゼナス殿下をお悦び差し上げますのでご安心を」
扉が閉まる直前まで見下すような目を向けられていたが、ステファナは一貫して静かであった。
邪魔者が消えるとすぐ、アニタが駆け寄ってきた。
「わたくしが急ぎ事実確認をして参りますので、しばしお待ちを」
「大丈夫ですよ、アニタ。寝支度をして休みましょう」
「しかし…」
「大丈夫ですから」
相思相愛で子宝にも恵まれた両親の娘だからといって、己も同じようになれる保証はどこにも無い。そんな事も分からないステファナではなかった。しきたりの異なる他国へ嫁いだからには、受け入れ難く感じる事は必ず出てくる。予め覚悟していたことだ。
本人が大丈夫と言っている以上、アニタは強く出られなかった。だがアニタの不満はそれだけではなかったのだ。クロエが纏っていた衣装、あれは確かにステファナの持ち物の一つだった。一度も袖を通すことなく盗まれたからステファナは知らないかもしれないが、物品の管理をしていたアニタはすぐに気が付いた。自ら盗んでおきながら此方に罪を擦りつけるだけでは飽き足らず、それを着て皇太子を誘惑しに行くなど厚顔無恥も甚だしい。よくもまあここまでステファナを虚仮にできるものだ。
「…何かございましたら、すぐにお呼びください」
「ありがとうございます、アニタ」
アニタは遣る瀬なさを噛み締めることしかできなかった。
一人きりになったステファナは程なくして寝台に上がった。此処は彼女に宛てがわれた私室だ。長椅子で待つ必要も無い。最近になってそれは禁じられたけれど、どうせもう意味を持たなくなるだろう。私室にある寝台は離宮にあるものより小さいはずだが、嫌に広々しているように感じた。
ゼナスが側女を持つ事を聞いて、ステファナの心は軋んでいた。狼狽えないよう己を律してはいたが、それが限界だった。仕方がないのは分かっている。本人に側女をとる意思がなくても、世継ぎを理由に皇帝から命令されれば否とは言えぬだろう。世継ぎの重要性は皇太子である彼のほうがよく理解しているはずだ。
しかし全部分かってはいても、思考に感情がついてきてくれない。屋根の上でステファナを力強く支えてくれた腕が今頃、違う女人を抱いているのを想像すると息が苦しかった。無理やりにでも眠ってしまおうと思ったステファナは、体を丸めて固く目を閉じるのだった。
眠りたい時ほど目が冴える現象に嫌気が差したが、時計の針が進むごとにゆっくり眠気はやってきた。あと少しで眠りに落ちる…その間際のことであった。
横向きに丸まっていたステファナの身体が、不自然に後ろへ傾いた。
寝台に誰かが乗ってきたのだと理解した瞬間、ステファナは飛び起きて助けを呼ぼうとした。しかし、あえなく阻止されてしまう。起こしかけた身体は、強い力で再び寝台へと押し倒された。暗闇のなか口元まで塞がれて、ステファナは錯乱する寸前だった。
「…静かに。私だ」
「…!!」
「驚かせてすまない」
耳朶を打ったのは、控えめな低い声。すっかり耳に馴染んだその音は、身体の緊張を解くのに充分であった。慮外者ではないと安心したことが相手にも伝わったようで、ステファナの口を覆っていた手が外される。
ようやく暗闇に慣れてきた眼が、ゼナスの輪郭をぼんやりと映し出すのだった。
「ゼナス殿下…っ!」
ステファナは急いで起き上がり、寝台の上に座り込んだ。驚きで跳ねた心臓がまだ少し暴れている。
「ど…どうなさったのです?」
「…突然で悪いが、今夜はここで休ませてもらう」
「え…?今夜は殿下をお待ちの方がいるのでは…」
気を抜けば上擦りそうに声をどうにか抑えて、ステファナは彼に説明を求めた。夜伽の件はクロエがご丁寧に教えに来たし、ゼナスが知らないはずはないだろう。仮に知らなくても離宮へ行けば分かる事だ。
ステファナが不思議に思っていたら、ゼナスから不機嫌な声が聞こえてくる。
「…どこの誰ともわからない赤の他人と一夜を明かす趣味はない」
「彼女は侍女長ですよ…?」
「どうでもいい」
「そ、そうですか…」
落ち着き始めていたステファナの心臓が再び鼓動を速めようとする。だってゼナスの発言は裏を返すと、ステファナとなら共寝しても良い、という意味にならないだろうか。彼の懐に入ることを許されていると思うと、ステファナは顔が急速に熱くなってきた。
「…私の部屋に押し掛けられても迷惑だから、君のところへ避難させてもらったが…邪魔なら別の場所を探す」
「邪魔なんてとんでもないです。窮屈かもしれませんが…ここに、いてください…」
思わずゼナスの袖を掴んでしまったが、話しているうちにますます恥ずかしくなってきた。暗いから顔色なんて見えないに違いないとはいえ、己の頬に紅が差している事だけはしっかり分かるので、ステファナは何だか居た堪れなかった。おかげで言葉尻が消え入るような音量になってしまった。
「…助かる」
「…いえ」
相手の顔色が見えないのは同じで、ゼナスのほうもちゃんと照れていた。
彼は父から何も知らされないまま離宮へ行ったのだ。そうしたら、己の妃ではない女が部屋の寝台で科を作っていたのだから目を疑った。それと同時に激しい嫌悪感で吐きそうになった。女は気色の悪い声を出しながら服を脱ごうとしたので、ゼナスは怒りに任せて「出て行け。痴れ者が」と言い放ったのである。だが女は皇帝の命令だとか世継ぎのためとか、言い訳を並べ立てるばかりで退こうとしなかった。呆れ果てたゼナスはさっさと離宮を出て行った。留まるだけ時間の無駄だった。ゼナスが離宮へ足を運んでいたのは、健気に待っている妃が其処にいるからであり、性欲を発散させるためではない。
騙し打ちのような真似をした父にも腹を立てながら、ゼナスは廊下をずんずん進んだ。私室に戻ろうかとも考えたが、あの痴れ者が追いかけてくる可能性も捨て切れない。皇帝が許したと言えば何でもやってくる事は読めた。あの女が絶対に入って来られない場所となると…ステファナの私室くらいしか思いつかなかったのだ。いかにも誇り高そうな女だったから、誘惑に失敗して恥をかいているところなど他の人間に見せたくなかろう。ましてや略奪しようとした相手の妃には死んでも目撃されたくないはずだ。
そういう事情があり、ゼナスはやむを得ずステファナの私室に忍び込んだのである。彼女には悪い事をしたと思う。いきなり忍び込まれて怖かっただろうし、本来は一人用の寝台に図体の大きな男が並んだら寝返りも満足に打てまい。
「…寝苦しくないか」
狭い上に、下手に距離を開けると隙間から風が入るため、互いの肩をくっつけて寝そべるほかなかった。寝台の半分以上を占領しているゼナスは、申し訳なさげに尋ねた。しかしステファナはというと、どこか楽しげに笑っていたのだった。
「平気ですよ。幼い頃は兄弟達とぎゅうぎゅうになって眠ったこともありますし、妹達は大きくなってもよく潜り込んできましたから。少しばかり窮屈なほうが慣れています」
「そうか」
己とはまるで逆だなと思ったが、ゼナスは口に出さなかった。だだっ広い部屋でぽつんと眠るのが当たり前で、他の人間と一緒に眠るなんて想像もできなかった。けれども実際、ステファナの隣で休むのは苦痛ではなかった。遠い昔に母の抱擁を受けた時の感覚とは少し違うが、人の温もりが本来心地よいものである事をステファナは思い出せてくれた。それはゼナスが長らく忘れていた温かさだった。
「…ゼナス殿下」
「…なんだ」
「ご命令に背いて、オダリス陛下のお怒りを買う事になりませんか…?」
「私は何の命令も受けていない。父上が勝手に企んだ事だ。君は気にしなくていい。早く眠らないと明日に響くぞ」
「…はい。お休みなさいませ」
ゼナスは目を閉じながら、己の指先が彼女の頬に触れた瞬間のことを思い返していた。
彼女が悲鳴を上げないよう咄嗟に口元を覆った際、柔らかな頬は濡れていなかった。泣いた形跡は無かったのである。その事に安堵しつつもほんの少しだけ、寂しがってくれたら等と考えてしまうのは薄情であろうか。
ゼナスは相反する気持ちを抱えたまま眠りにつくのであった。




