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ステファナがゼナスに会う時は、いつも不意打ちばかりだった。故に、いざ正面からまともに顔を合わせる時が来たら、妙な違和感を覚えてしまった。その可笑しさを仕舞いつつ、ステファナは馬車の到着に合わせて迎えに出て来たゼナスへ跪く。
「ただいまシェケツ村より戻りました。不肖のわたしをお許しくださいますか?」
皇太子の怒りを買って追放された妃は、許しを請わなくてはならない。ゼナスもステファナも、お互いに相手から憎悪を向けられているなんて思っていないが、衆目がある以上は必要な儀式であった。言ってしまえば単なる茶番である。
「…許そう」
「寛大なお心に感謝申し上げます」
粛々としたやり取りを交わすゼナスだったが、内心は穏やかでなかった。非のないはずのステファナを跪かせて、謝罪させているという現実に業腹だったのだ。そして彼女を父に近付かせたくなかった事も、焦燥に拍車をかける。ゼナスの顔は無表情を通り越して、剣呑になっていた。
「父上が待っている。行くぞ」
「はい」
帰ってきたのに宮殿の主に挨拶もしないのは無礼だ。皇帝とてステファナの面なんぞ、視界の端にも入れたくなかろうが避けては通れない。
案の定、オダリスは玉座から心底不愉快そうにステファナを見下ろした。そして挨拶の言葉も碌に聞かないまま、息子を怒鳴りつけるのだった。
「其奴の事は全てお前が責任を持つのだ!余は一切の関与をせんぞ!」
「仰せのままに」
虫を払うような仕草で謁見の間を追い出されたステファナは、無言で歩くゼナスの後ろをついていく。
「わたしの巻き添えで殿下がお叱りを受けることになってしまい申し訳ございません」
「君からの謝罪は要らない」
「ですが怒声を耳にしたくないと以前に…」
「…それはもう忘れろ」
ゼナスはそれきり話さなくなったので、ステファナも口を噤むのだった。彼はステファナを部屋まで送り届けると、姿を消してしまった。
宮殿に設けられた私室に入っても特に感慨は覚えなかったが、ジルとティムに再会した時は帰って来た事を実感した。二人の待遇に変わりはなく、細々と料理人の下っ端をやっているそうだ。二人だけが諸手を挙げてステファナの帰りを喜んでくれた。
「お発ちになったきり、噂の一つも聞こえてこないから心配で…」
「お元気そうで良かったです。お帰りなさいませ」
「ありがとうございます。こちらも変わりはなかったでしょうか?」
「はい。変わり映えしない毎日でした」
「ステファナ様がいらっしゃると、ほっとします」
二人と談話していたら、何処かへ行ったはずのゼナスが突如舞い戻った。ステファナは幾分か慣れつつあるが、下っ端料理人の二人の驚きようは可哀想になる程だ。大慌てで退室していく二人の横顔は蒼白だった。
「…誰だ今のは」
「厨房の料理人ですよ。ところで、殿下はどうなさったのですか?」
「届け物がある」
ゼナスの合図で荷物が運ばれてくる。荷物の多さにステファナは目を白黒させた。どうやら使節が来る際に着る衣装のようだ。それらに合わせた靴や小物まで揃っている。
「これは…殿下が用意してくださったのですか」
「私は指示を出しただけだ」
「そうだとしても嬉しい事に変わりはありません。感謝いたします」
ステファナが所有していた衣装は誰かに盗まれ減ったきりになっていた。残された衣装でも事足りるのだが見栄えという点では心許なく、ゼナスの気遣いは有り難かった。
「使節の到着は来週末になるそうだ」
「承知しました。両国の関係にひびが入らないよう精一杯努めます」
「………」
ふわりと笑う彼女にかける適切な言葉を、ゼナスはとうとう見つけられなかった。
ステファナの祖国から使節が来るのは来週末と聞いたはずだが、その日から彼女の生活ががらりと変わった。
まずは衣装。ゼナスが届けてくれた数々の衣装は、当日に着用するものだと思っていたら違った。今後の普段着にも使って良いらしい。式典用の正装だけでなく普段用まであるのだから、やたら枚数が多いのも納得だ。
次に食事。私室で摂るのは変わらないものの、出される量が明らかに増えた。ステファナは手違いで運ばれてきたのかと確認してもらったくらいである。だが今まで一度も見ていなかっただけで、それが皇族に提供される標準の食事だった。
そしてステファナを最も狼狽させたが、離宮で過ごす夜である。
彼女は今晩からまた、ひと気のない離宮で静かな夜を迎えると思っていた。というより、此処へ他の誰が入ってくる想定をしていなかったのだ。離宮の意義から逸れた考えだが、彼女の場合、長らく放ったらかしにされて感覚が麻痺していた。
そういう訳で離宮にゼナスが入ってきた瞬間の、ステファナの心境は名状し難い。彼は実に不意打ちが巧みである。長椅子で寝入りかけていた眠気は綺麗に消し飛んだ。
「…わたし、来る場所を間違えましたか?」
「君は何を言っているんだ」
大きな眼を更に見開くステファナと、彼女の発言の意図が汲めず眉根を寄せるゼナス。珍妙な雰囲気が二人の間を漂う中、心拍だけが段々と速くなっていく。
「君の祖国に不仲だと知られたくはないだろう」
「そ、それはそうですね…」
彼の言う事は妥当なのだが、ステファナにも心の準備というものがある。結婚に際して覚悟はしてきたのだが、如何せん、ちょっと頭から抜け落ちていた。思い出す時間が欲しい。
彼女がどぎまぎしている雰囲気は、暗がりでもゼナスに伝わったようだ。彼は短く嘆息した後、ぼそぼそと申し開きをするのだった。
「…今から慣れておいたほうが良いと思っただけだ。夜伽まで求めるつもりはない」
「………」
「夜も遅いから休もう」
「…はい」
彼に促されてやっと、ステファナは長椅子から立ち上がった。離宮で過ごした夜は少なくないが、寝台に横たわるのは今夜が初めてだ。
「…おやすみなさいませ」
「…ああ」
長椅子で眠ることに慣れてしまったからか、はたまた、兄弟以外の異性の隣で眠る緊張ゆえか、ステファナはなかなか寝付くことができなかった。
入眠までに時間を要したために、ステファナは翌朝少し寝坊した。既にゼナスの姿はなくなっており、昨夜の出来事は夢だった言われても信じてしまいそうだった。
色々な事が一気に変わりすぎて、軽い疲労を覚える。
朝の身支度もアニタが一人で行うか、日によってはステファナが自分で済ませてしまうこともあったのに、今朝は三人がかりで着替えが行われた。
朝食も豪勢だった。だが急に量を増やされても、食は進まなかった。三食まともに食べられる方が極めて稀、という暮らしを続けてきたのだから、ステファナの腹はすぐに限界がくるようになっていた。しかし飢えている民のことを考えると食事を残すのは忍びなくて、時間をかけて少しずつ食べ進めるしかなかった。祖国にいた頃は何の苦労もなく完食していた事を、ステファナはぼんやり思い出した。
「…昼食は軽いものにしてもらうよう、頼んで参りましょうか?」
「…そうですね。お願いできますか、アニタ」
辛そうな姿を見かねて、アニタが控えめに気遣うのも無理はなかった。
ただ、良い事もあった。以前は門前払いされた書庫に入る許可が貰えたのである。ステファナはさっそく書庫へ足を運び、気になった本を片っ端から読んでいった。つい、植物関連の本に手が伸びがちであったが、歴史書や法律書など満遍なく目を通すよう心掛けた。ステファナが読書に没頭している時間は、イバンとアニタも暇だろうと思い、各々好きに過ごすよう伝えてある。イバンはこれ幸いと休憩しているらしいが、アニタは時々席を外す程度で大抵はステファナの近くで待機してくれた。
読書に疲れたら馬屋へ行き、愛馬と戯れた。落馬して怪我をする恐れがあるので乗馬は控えるように、との指示が出ているためブランカに乗るのは断念せざるをえなかった。その代わり、柵の敷かれた馬場に馬を放つ程度は問題ない。ステファナが運動不足の解消を目的にブランカを馬場に連れていったところ、先客がいた。
「ゼナス殿下!」
愛馬で馬場を駆けるゼナスの姿を見つけるや、ステファナはぱっと顔を綻ばせる。柵の外から見物していたら、彼は無言のまま近付いてきた。
「奇遇ですね」
「…そうだな」
「セリオン、わたしのこと覚えています?」
彼の愛馬は勿論だと言わんばかりに嘶く。その仕草が可愛くて、ステファナは思わず撫でたくなったが、すんでのところで手を止めた。
「ゼナス殿下。セリオンに触れても大丈夫でしょうか」
「好きにしたらいい」
「ありがとうございます」
主人の許しを得たので、今度こそステファナは迷いなく手を伸ばした。
「艶々の毛並みで格好いいですね。たてがみも立派です」
セリオンは友好的な馬のようだ。ステファナのする事を全く嫌がらず、むしろ嬉しそうに受け入れている。
しかしブランカからしたら、大切な主人をとられたように見えたのだろう。ご機嫌斜めになって、セリオンに頭突きを繰り出したのだった。頭突きといってもそこまで攻撃的ではなく、軽い牽制みたいなものである。
「ブランカったら…!わたしが一番好きなのはあなたなのだから、拗ねなくていいのよ」
愛馬のいじらしい嫉妬を見て、ステファナは頬が緩んだ。
「相変わらずのじゃじゃ馬だな。甘やかしすぎじゃないのか」
ゼナスの皮肉に、ブランカの耳がぴくりと動く。また噛み付くのは見過ごせないので、ステファナはブランカの気を逸らすことにした。
「ブランカ、走ってきたらどう?ここなら思い切り走れるわ」
しかし馬場の中に入っても、ブランカは主人の傍らを離れようとしない。それどころか、鼻先をステファナにぐいぐい押し付けてくる。一緒に走れという意味だろうか。
「ごめんなさい。わたしはだめなのよ。イバンかアニタにお願いしてくるわね」
そう優しく言い聞かせても、ブランカは嫌がる素振りをみせる。困って眉を下げるステファナに助け船を出したのはゼナスであった。
「君が乗ってやればいい」
「しかし、わたしは…」
「乗馬が禁じられている訳ではないだろう。私が並走するから、万が一の時は手を貸す」
「!本当に宜しいのですか?」
「構わないと言っている」
「ありがとうございます!」
ドレス姿では横乗りしかできず速度も出せないが、並走するなら都合が良い。大喜びで愛馬に乗ったステファナは、満面の笑顔をゼナスに向ける。
「わたしは今、自分の予感が当たってとても嬉しく思っています」
「…?」
ゼナスは話し方がぶっきらぼうなだけで、心根には澄んだ優しさがある。ステファナはその事がはっきり分かるようになった。彼を見つめる己の眼が変わってきた事、その変化をステファナは望外の果報だと捉えて破顔するのだった。
【補足】
ゼナスの愛馬は他人に愛想を振りまかない性格のはずです。が、ペットは飼い主に似るとも言います。




