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 シェケツ村で枯死病が出た日から、もうすぐ一カ月が経過しようとしていた。

 雪掻きはされているとはいえ、歩きやすいとは言い難い道を跳ねるように走る少女が一人。彼女は勢いを落とすことなく、今は開放されたままになっている城へ転がり込むのだった。


「リュシーッ!!」


 疾走してくる少女をいの一番に見つけたのは、彼女の友人エレナである。大きな歓声を聞きつけ、もう一人の友人も走ってくる。


「良かった!良かったぁ!!」

「リュシーだぁ…!元気になってる!」

「心配かけてごめんね…っ」


 三人はひしっと抱き合い、歓喜と安堵の涙をぼたぼた流す。ノエルなんて洗い物の途中で駆け出してきたから、石鹸の泡が両手にべったり残っていた。でも三人にとってそんな事はどうでもよく、再びこの三人で集まれたのがひたすら嬉しいのだ。

 リュシーが倒れてからずっと、この日が来るのを待っていた。いつもの日常が戻ってくる事を信じて、恐怖を押し殺し、がむしゃらに頑張ってきたのだ。


「あっ…ステファナ様」


 騒ぎは勿論ステファナの耳にも届いており、少し遅れて彼女も様子を見に来ていた。だが三人が団子になっておいおい泣いているので、そっとしておいたのだ。

 離れた所で微笑んでいるステファナを見つけてたリュシーは、慌てて涙を拭いて彼女に近づいていった。しかし折角拭いても、また涙が溢れてきてしまう。


「元気そうで安心しました」

「本当に…っ、本当にありがとうございましたっ!妹も助けていただいて…もう何てお礼を言っていいのか…っ」

「ふふっ。リュシーの元気な姿が一番のお礼ですよ」


 リュシーはステファナの手を両手で握りしめながら嗚咽を漏らすのだった。


 恐れられていた奇病は脅威ではなくなり、ステファナ達の尽力によって撲滅されていった。ほんの一部の村人は「世間知らずのお妃サマに何が分かる」と貶し、「素人が作った薬なんぞ飲めるか」等と拒絶したらしいが、病の苦しみと死への恐怖から最終的には治療を受け入れたという。ただ、治療が遅れた分、回復も遅くなってしまった…これはブノワ医師から聞いた話だ。ステファナを見かければ怒り出す男達であったから、診察と治療はブノワひとりで当たっていたのである。

 こうして枯死病から開放されたシェケツ村では、立役者となったステファナに感謝を伝えようと、城を訪れる村人が後を絶たなくなった。時にはこの村の住人でない者が、お礼を言いに雪山を越えて来ることもある。だが皆、貧しくて返せるものがないため、掃除に洗濯、馬屋の整備や城の修繕などを手伝っていった。それらは日給を支払って救済措置にしようと始めた事だったのに、今では村人達による慈善活動になってしまった。ステファナが正当な対価として銅貨を渡そうとしても「それじゃお礼にならないですよ」と言われ、誰も受け取ってくれなかった。

 流石に石を投げてきた男達は、ばつが悪いのか姿を見せなかったけれど、普段通りの暮らしに戻ったという報告を聞けただけで、ステファナには充分であった。


 毎日、大勢の村人が訪れるおかげで、ステファナは手持ち無沙汰になってしまう。しかし、病み上がりの者を働かせて自分はのんびりできる性格ではないので、彼女はやむなく中断していた子供達への授業を再開させた。また教えて、とせがんでくる子供達が沢山いたという理由もある。親がこの城で働いている時間だけ預かっていた以前とは違い、今度は子供達だけでも来て良い事にした。すると初日から二十人を超える子供達が集合したので、城の中は大層賑やかになった。


「ステファナさま、ありがと!」

「またおしえてください!」

「さようならー!」


 吐息を白くさせながら帰っていく子供達に、ステファナは笑顔で手を振る。子供達を見送ると、今日も一日平和に終わったという感じがした。


「ステファナ様は先生も向いてるんじゃないですか?」

「先生ですか。考えたこともなかったですね。でもイバンだって遊び相手になるのがとても上手ですよ」

「それについては『子供の気分が抜けてないからでしょう』って、アニタに言われましたけどね。ん?…どこかに行かれるんですか?」


 話しながら外套と洋灯を手にするステファナに、イバンは問いかけた。


「はい。ブランカのところに」

「そりゃあ喜びますよ。ここのところ、俺ばっかり乗せていましたからね」

「ステファナ様、じきに日が暮れますから、襟巻きと手袋もおつけください」


 すかさずアニタが持ってきた防寒具をありがたく身につけ、ステファナは馬屋へ向かうのだった。




 この城の所有者であったルイーズ皇女は、相当な馬主でもあったようだ。皇女が一人で暮らしていた割に大きな馬屋があるし、馬を走らせる場所もある。尤も今は馬場が深い雪に覆われているので、ブランカはがらんと広い馬屋で過ごすしかない。


「ブランカ」


 ステファナが呼びかけるとすぐ、ブランカが柵の向こうから顔を出した。甘えるように擦り寄ってくるので、ブランカのしたいようにさせる。


「ブランカもたくさん走ってくれたわね。ありがとう。とっても助かったわ」


 ブランカとのお喋りもご無沙汰になっていた。戯れているうちに、ブランカが外に出してほしいという仕草をし始める。


「走りたいのかしら?でももう薄暗いわ。それに走れるところも無いわよ?」


 ステファナがそう諭して撫でても、ブランカは出してと訴えてきた。久しぶりのおねだりだったので、叶えてあげたいと思ったステファナは、壁に掛けてある手綱を持ってきて装着した。乗るつもりはなかったので鞍は不要だろう。

 しかし、柵を外そうとしたところでステファナは首を傾げた。柵がびくともしなかったのだ。


「…夜も近いのに脱走でもする気か」

「!?」


 突然、ぶっきらぼうな低音が耳朶を打ったので、ステファナはびっくりして手綱を取り落としそうになった。恐る恐る仰ぎ見れば、星が浮かび始めた空を背景に立つゼナスがいたのである。ステファナは驚きのあまり声も出なかった。


「こんな時間にどこへ行く」

「………」

「おい。聞こえているのか」


 聞こえてはいるのだが、思考の処理が追いつかない。ステファナは固まったまま動けなかった。これでは埒があかぬと思ったゼナスは、彼女が握っていた手綱を取り上げた。その直後である。ブランカがゼナスの肩に噛み付いたのだ。

 立て続けにびっくり仰天させられたステファナであるが、流石にここは動かずにいられなかった。おたおたしながらブランカを窘める。


「だめよブランカッ!殿下になんて事をするの!」


 叱られた事が不満なのか、ブランカは意地になって離そうとしない。ステファナはすごく焦っているのに、ゼナスときたら「どこが穏やかで賢いんだ。とんだじゃじゃ馬だ」なんて悪口を吐くから、ブランカはますます不機嫌になってしまった。


「殿下…わたしがした話を、覚えてくださったのですか?」

「今、それはどうでも良いだろう。はやくこのじゃじゃ馬を大人しくさせろ」


 馬といがみ合うゼナスを見ていたら、ステファナは笑いが込み上げてきた。笑っている場合ではない事は理解しているのだけど我慢できない。堪えきれずに小さく吹き出してしまうと案の定、顰めっ面をしたゼナスに睨まれた。


「ふ…ふふっ…申し訳ありません」


 ステファナはどうにか笑いをおさめ、ブランカの鼻面を撫でた。


「ブランカ。人を傷つけてはいけないわ」


 静かに言い聞かせると、ようやくブランカはゼナスを噛むのを止めた。すぐにステファナは噛み跡を確認しようとしたが、ゼナス本人に拒まれてしまう。


「服の上からだし、そこまで強く噛まれていない」

「申し訳ありませんでした。今まで人に噛み付いたことなど一度も無かったのですが…」


 ブランカは穏やかで賢いと話したのは、決して嘘や誇張ではない。子供時代から共に過ごしているが、ブランカが他の馬と喧嘩しているところすら見た事がなかった。幼くて加減を知らない子供に纏わりつかれても苛々したりせず、乗り手が変わっても素直に従う良い子なのに。何故いきなりゼナスに噛み付いたのか、ステファナも不思議だった。


「…もういい。動物のやる事だ。何か噛みたい衝動くらい持っているだろう」

「すみません…そういえば、殿下はどうしてこちらに?わたしにご用でしたか?」

「私が先に質問したぞ」


 素っ気なく突き返されてもステファナは平然としたもので、にこやかに経緯を語った。少しだけブランカを歩かせようとしていたと分かると、ゼナスはあっさり柵を外してくれた。それから手綱をステファナに差し出すのだった。


「私が持っているとじゃじゃ馬に噛まれるからな」


 そんな風に言うので、ステファナはまた笑ってしまった。


 ブランカの夜の散歩に、ゼナスも付いてきた。というより有無を言わせず同行している。ステファナは手綱を、ゼナスが洋灯を持っていた。星降る銀世界に、二人と一匹の足跡が伸びていく。


「わたし、ずっと殿下に感謝をお伝えしたかったのです」


 色々あったものの思いがけず好機が巡ってきたので、ステファナは一番伝えたかった言葉を声に乗せるのだった。


「宮殿で失神してしまった折に、殿下が手を差し伸べてくださった事。それから今回の事も感謝しております。助けてくださってありがとうございました」

「…君は私に何をされたか、覚えていないのか?」

「ですから、殿下には何度も助けていただいたと…」


 ステファナはそう言い直しかけてから、はっと口を押さえた。理不尽な言い掛かりで宮殿を追放されたことに対して、ステファナは半日も悲観しなかったし、最初から怒りの感情は抱いていない。そのため彼女は頓珍漢な発言を繰り出すのであった。


「そうでした!今のわたしは謹慎中という扱いですのに、反省の色もなく出歩くのは良くなかったですね」


 彼女が怒るどころか、一欠片も恨みの気持ちを持ち合わせていない事を知るや、ゼナスは盛大な溜め息を吐いた。


「………君と話していると気が抜ける」

「肩の力が抜けるのは悪いことではないと思いますよ」

「君は物事を何でも前向きに捉えすぎだろう」

「前を向いていなければ真っ直ぐ歩けませんもの」


 屈託なく笑うステファナに、ゼナスはふと目を奪われる。己の意思に反して視線が固定される、という現象に初めて見舞われたゼナスは酷く戸惑った。動揺が微塵も顔に出ていないゆえ、ステファナは呑気にも「ゼナス殿下の瞳に星が映り込んで宝石箱みたいですね」なんて追い討ちをかけてきた。そんな事を言われたらゼナスも、彼女の瞳を余計にまじまじ見てしまうではないか。


「……それは君も…」

「えっ?すみません、何でしょうか。風の音で聞き取れませんでした」


 何でもないと呟いて、ゼナスはどうにかこうにか彼女から視線を外した。ステファナに出会うまで、彼の身近には弾けるように笑う人間なんて存在しなかった。そもそも、ウイン帝国に幸せそうな笑顔を湛える人間などいやしない。薄汚い笑みを浮かべた一握りの権力者の足元で、数え切れないほどの民が呻き苦しんでいるのだから。

 だがステファナとて、踏み躙られた人間の一人だった。彼女が健気に耐えれば耐えるほど、ゼナスは苛まれた。こんな滅びかけた国に…あんな風に追い出す事でしか守ってやれない皇太子のところに嫁がなければ。そう苦々しく思ってきたのだが、彼女ときたら実にあっけらかんとしていた。本当に、気抜けさせるにも程がある。


「…私も君に、ありがとうと言いたかった」

「えっ…」

「民に希望を与えたくても、それは頭で願うだけではできない。尽力してもなお叶わない時もある。だが君は民を死の淵から救い、希望の光をもたらしたんだ。礼を言うのは当然だろう」


 慣れない台詞だったからか、いつにもましてぶっきらぼうな言い方になってしまった。まあこんな事で怒る人間ではなかろうと思い、ゼナスが隣を見てみれば、ステファナは夜目でも明らかなくらい赤面していた。これにはゼナスもぎょっとする。先程までの能天気さはどこへ行ってしまったのか。

 彼に凝視されている事に気付くと、今度はステファナが慌てて目を逸らす番であった。


「…皆さんから沢山のありがとうを頂いたのですけど、ゼナス殿下のくださった言葉がいっとう胸に迫って、それで、あの…」


 緩んだ顔が戻らないのだとステファナは恥じらい、ブランカの陰に隠れてやり過ごそうとする。同時にゼナスも胸の内側をくすぐられるような心地がして、居た堪れなくなってきた。助けを求めようにも、銀世界には二人と一匹しかいない。


「…褒美は何がほしい」

「褒美、ですか?」


 やむを得ずゼナスは強引に会話を繋げることにした。沈黙を続けていたら、心臓が壊れてしまいそうだった。とはいえステファナに会いに来た目的は、現状を把握して不足の物資を届けさせる事であったので、軌道修正はできたのかもしれない。

 辺鄙な村で起きた奇病との闘いは一応、報告には上がるだろう。けれど、どうせ報告書は碌に読まれず捨てられて終わる。ステファナの手柄はオダリスによって握り潰されるに違いなかった。


「功労には褒美が付きものだ」

「褒美が欲しくてした事ではありません。口は出してもここから大して動いていないわたしより、褒美を受けるに相応しい方達は他にたくさん、」

「御託はいいから、早く望みを言え」


 とても褒美を与える側の態度とは思えぬ台詞である。ステファナは困ってしまった。


「えぇと…では、子供達の勉強用に紙と筆をいただけますか」

「それは必要物であって褒美ではない」


 彼女が悩んだ末に思い付いた物は、呆気なく却下される。これ以上、何を求めて良いか一つも頭に浮かばず、ステファナは途方に暮れるしかなかった。

 しかしゼナスもゼナスで、褒美をやると言われて困った顔をする人間に出会った事がなかったため、無表情の下で弱っていた。


「別に物でなくても構わないが」

「……!」


 ゼナスの苦し紛れの補足は功を奏した。ステファナは何事かを思い付いたらしく、ぱっと瞳を輝かせた。


「望みは何でも叶えてくださるのですね?」

「あ、ああ。あまりに荒唐無稽な望みでなければな」

「では申し上げます」

「………」

「殿下の愛馬のお名前を教えてください!」

「……は?」


 勿体ぶって咳払いまでするから無理難題でも飛び出すかと思いきや、ゼナスはすごい肩透かしを喰らった。


「どうしてそんな事が褒美になるんだ」

「そんな事ではありませんよ。ゼナス殿下はいつ教えてくださるのかしらと、心待ちにしていた事です」


 ステファナの願い事は、ゼナスの愛馬の名前を知ることだった。想定の枠内を超越しており、ゼナスは何度目かの脱力をした。こちらの気持ちも知らずに、ステファナは期待の眼差しを向けてくる。


「…セリオンだ」


 半ば自棄になりながら口を開いたはずなのに、ゼナスの声色は己も驚くほど柔らかな響きを伴っていた。




 追放した妃の元へ通っている事は、皇帝に知られてはならない。前回はミリアムが隠蔽工作してくれたが何度も通じる手ではなく、今回ゼナスは公務で訪れた街から抜け出し、早馬でシェケツ村に駆けつけていた。それ故、朝までには街へ戻らなければいけなかった。

 ブランカの散歩を終えたらすぐ、ゼナスはシェケツ村を発った。だが今回は慌ただしくも見送りをすることができた。


「道中お気をつけくださいませ」

「ああ」

「セリオン。初めまして。ゼナス殿下を安全にお連れして差し上げてね」

「私の馬は優秀だ。君に頼まれるまでもない」

「ふふっ、とても綺麗な青毛ですね。殿下が大切にされているのが分かります」


 憎まれ口を叩くゼナスとは対照的に、彼が跨る黒馬は褒められて機嫌が良さそうだった。セリオンは優しいステファナが気に入ったらしい。興味津々に顔を近づけようとしたところで、主人が手綱を引いた。


「…次回までにあのじゃじゃ馬をしっかり躾けておくように」


 以上が、彼が去り際に残した台詞である。しかしステファナは躾け云々より、次も会える約束ができた事を喜んでいたのだった。


 二人の再会は、思っていたよりも早く実現する。それは、この夜から二週間後の事であった。

【補足】

ブノワ先生は見聞を広めるためと言い、村の近くで簡易的な診療所を構えることにしました。ほとんど無償で村人を診てくれます。

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