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ウイン帝国に本格的な冬が到来した。シェケツ村の雪は帝都より深く積もる。だが悪い事ばかりでもなかった。
ステファナの呼びかけに応じ、城まで手伝いにやって来る村人は、四十人近くにまで増加している。おかげで五、六名の輪番制が機能するようになった。更には子供がいる母親達も時折姿を見せる。母親達が働いている間、子供達を預かるのはステファナだ。弟妹がいたステファナにとって幼な子と遊ぶのは得意分野であったが、彼女は遊び相手になるだけでは終わらなかった。
シェケツ村に限らず、平民の殆どは読み書きができない。学舎に通わせる金も時間も無い故だ。そこでステファナは子供達に、帝国語を指導することにしたのである。これがかなり好評で、大人達も休憩時間を削って教わりに来る程だった。皆、紙や筆を買い揃えるのは勿体ないからと、木板や炭の欠片を代用にした。ステファナは自身の手も黒く汚しながら、一人ひとり丁寧に根気強く教えるので、たちまち子供達の人気者となったのだった。
未だ村人の半数以上は懐疑的な姿勢を崩さないが、ステファナと関わり始め、彼女の人柄を知るようになった者達は皆、親しみを込めて「ステファナ様」と呼ぶ。そして名で呼ばれるたび、ステファナは笑顔で振り向くのだ。
このところ冷え込みが特に厳しくなってきた。無理して来ることはないと伝えても、善意に溢れた村人達は雪を掻き分けて城まで来てくれる。だからステファナは起きてすぐ、城にある暖炉すべてに火を入れることを日課にしていた。村人達が到着する頃までに、城の中を暖かくしておきたいからだ。
「このお城がどんどん賑やかになって嬉しいです」
「宮殿よりのびのびできて、俺は気に入ってますよ。あとは寒いのだけ何とかなれば、言うこと無しなんですけどね」
「冬なんだから寒いのはどこでも一緒よ。貴方は雪かきが面倒くさいだけでしょう」
「外気より同僚が冷たい…」
「ふふっ」
いつものように笑顔で始まった冬の朝。いつものように終わっていくと、この時点では誰も疑わなかった。
エレナは時間通りに戸を叩いた。充分に暖まった城内へ入ってもらおうと、ステファナは少し早足になって出迎えにいく。
ありったけの防寒具を着けたエレナは、鼻の先を赤くして戸口に立っていた。それは見慣れた姿であったが、今朝は彼女の姿しかなかった。エレナが一人で訪れるのは随分前のことに感じてしまう。
「どうしました?なんだか浮かないお顔をしているように見えます」
人手が少ない事は別に構わないのだ。そもそもこれは、村人を救済する措置として考案したものである。ステファナの駒使いが欲しかった訳ではない。日銭を稼ぐ手立てが他にあるなら、それで良い。けれどもエレナの表情を見るに、物事が好転したとは到底思えなかった。
「中へどうぞ。そこにいては冷えてしまいます」
「いいえ、ここで大丈夫です。すぐ帰りますから」
「エレナ…?」
「ステファナ様…ごめんなさい。みんなもしばらく来れないと思います」
「いつも話していますが、わたしではなくご自身のことを優先して構わないのですよ」
エレナは「そうじゃないんです」と悲しげに首を横に振る。
「この辺では冬になると変な病気が流行するんです。昨日、シェケツ村でも病人が出てしまって…どこで感染るかわからないから、ステファナ様とは会わない方が良いって、みんなと話したんです」
「…エレナ。中で詳しい話を聞かせてください」
「えっ、でも…」
「お願いします」
ステファナにしては少し強引に、躊躇うエレナを引っ張っていった。
顔色を悪くしながら怯えるエレナを宥め、根気強く話を聞き出したところ…奇妙な病が流行し始めたのは、ここ数年のことらしい。
大抵の場合、子供が病に倒れて感染が発覚する。その後、必ずと言ってよい程、同居している家族全員に感染するそうだ。主な症状は意識が朦朧とするくらいの高熱と、下痢や嘔吐といった胃腸障害である。当初は胃腸風邪が疑われたが、ひとたび発症すれば悪化するばかりで快方せず、一家全滅していくのは不可解であった。長年の困窮が祟り、病気に打ち勝つ体力が無かったにせよ、生還した者が一人もいないというのは単なる胃腸風邪や食中毒とは違っていた。
何より絶望的なのは、予防の対策も治療薬も無い事であるとエレナは言う。
「一昨年、この病気が蔓延した時に村のみんなでお金をかき集めて、評判のお医者様を呼んだんです。でも病名が分からないから、治療もできないって言われました。仮に薬があっても、高くてあたし達には手が出せなかったと思いますけど…だから病人が出た家には近づかないようにする以外、どうすることもできないんです」
この正体不明の流行病を、村人達は"枯死病"と呼んだ。草木が枯れていくみたいに、ゆっくり痩せ衰えて亡くなる姿からそう名付けられた。
「枯死病が流行りだしたのは、一昨年からですか?」
「いえ…五年前だったかな…この村じゃなくて、山向こうの村で初めて死者が出たんです。それはもう凄まじかったらしいですよ。その村は枯死病のせいで村人の半分がいなくなっちゃったんですから。シェケツ村で同じ病気が出てから知ったんですけど」
「………」
「ステファナ様も村のほうには近付かないでください。離れていれば多分、大丈夫だと思います」
ステファナは口元に手を当て、思案げな顔つきをした。ステファナには母から教わった医学の知識がある。無論、医師を目指して履修した訳ではないので治療はできない。だが看護ならできる。特に薬草に関しての知識は本職の人間にも引けを取らないだろう。学んだ知識が役立つかもしれない。
だけど、本当にできるだろうか。母が父を助けたように、同じ事が己にできるのか。人命が懸っているのだ。生半可な気持ちで手を出してはいけない。ではこのまま黙って見過ごすのかと問われても、頷けなかった。
刹那、人知れず苦悩する彼女の脳裏に懐かしい記憶が蘇った。
『お母さまが毎日お薬をぬっても、お父さまの病気はなおらないんですか?』
『そうだね。でも心配しなくていい。治らないと分かっていても、諦めずに寄り添ってくれる人がいる。私はそれが嬉しくて、幸せな気持ちになるんだ』
幼かったステファナは、父の膝の上でその言葉を聞いていた。父の手は病変の度合いが酷かったけれど、いつも薬草の香りがほのかに漂っていた。ステファナはあの何とも言えぬ独特の香りが嫌いではなかった。
手の施しようのない病というのは残念ながら存在する。しかし重要なのは諦めない事、絶望したままでいない事。両親の優しい笑顔はそれを物語っていたはずだ。
ステファナが顔を上げ、口を開きかけた直後のこと。城の扉が突然、大きな音を立てた。何事かと思い駆け付ければ、雪まみれになったノエルが泣き崩れていたのだった。
「ノエル!?どうしたの!?顔が真っ青だよ!」
「うぅ…っ、大変なの、エレナ…ッ!リュシーが、リュシーが…!!」
「…ま…まさか…っ、枯死病に…!?」
「どうしよう…どうしたらいいの…リュシーが死んじゃう…!」
顔を覆って泣きじゃくるノエルを慰めるどころか、エレナも一緒になって泣いてしまう。親友が致死の病に罹ってしまった。助けてあげたくとも、何もできない。衰弱し、死へ向かう様子を、窓の外から眺めることしかできないなんて。三人はずっと一緒だったのに、こんな別れ方はあんまりではないか。涙が溢れて止まらなかった。
ステファナは声を上げて泣く二人のところへ歩み寄っていく。彼女の双眸にもう迷いは無かった。
「…わたしがリュシーを診ます。彼女の家の場所を教えてください」
泣いていた二人は途端に呆然となり、二の句が継げなくなった。代わりに割り込んだのは、イバンとアニタであった。
「ちょ、ちょっと待ってください!危険すぎますって!お優しいのも程々にしておかないと死んじゃいますよ!?」
「医者にも分からない病気が、わたくし達にどうこうできるはずがありません」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれません。とにかく今のリュシーの状態を知らなくては、判断のしようがありません。イバン達は待機していてください。わたし一人で彼女を診てきます」
エレナ達も加わり、四人がかりでステファナを説得しようとしたが、彼女が折れることはなかった。
「ノエル、道案内をお願いします」
外套を羽織ったステファナは、素早く雪靴に履き替えてしまった。彼女の本気を理解したエレナとノエルは、先程とは違う涙を目に溜める。彼女達の後ろで、アニタは決意を固めたらしかった。一歩進み出て「お供いたします」と小声で告げた。
「……はあぁ…俺も行きますよ。皇太子妃様を雪の中にお一人でほっぽり出す訳にいかないので」
盛大なため息を吐きながらではあったものの、イバンも雪道を歩く支度を始めるのだった。
「……リュシー。聞こえますか?リュシー」
労っているのが音色でわかる。とても優しい声だった。
体が今にも発火しそうなくらい熱く感じるなか、リュシーは懸命に目蓋をこじ開けた。すると、こちらを見下ろすステファナと目が合う。口と鼻を布で覆っていたものの、優しさの宿る青い瞳の持ち主が誰かなんてすぐにわかった。
「……な…なん…で…?ここに…」
「リュシー、どうか頑張ってください。絶対に挫けないでください」
「はい……はい…っ」
己の眼が潤んでいるのは高熱のせいなのか、はたまた別の理由なのか。朦朧とするリュシーには区別できなかった。
「私より…妹が……さきにかかって…」
「分かりました。たくさん喋らせてごめんなさい」
リュシーが再び寝入るのを見届けてから、ステファナはそっと部屋を出た。今度はリュシーの母親から、娘達が倒れた経緯を尋ねてみる。
「特別変わったことはしていません…おととい急に下の子が酷くお腹を壊したかと思ったら、食べた物を全部吐いてしまって…そうしたら今日、あの子が…」
自身が発症する恐怖と闘いながら、段々と弱っていく娘達を看病する母親は見るからに憔悴していた。
「…あの子達に会ってくだすってありがとうございます。それだけで充分です…あなた様まで亡くなってしまっては、申し訳が立ちません…」
「…必ず助けるとお約束できない事を、心苦しく思います。ですが、死力を尽くすと誓います」
「っ、ありがとうございます…たかが村人ひとりのために…」
「たかが、などではないですよ。ウイン帝国を支える大切な国民です。わたしはいつも支えてもらってばかりですから、皆さんが大変な時こそ力にならなくては」
ステファナはそう伝えて微笑むのだった。
アニタ達は向かい側のエレナの家で待っていた。そうするよう、ステファナに言われたからだ。ステファナが戻ってくると親友を案じた二人が矢継ぎ早に質問してきた。
「どうでしたか?」
「リュシーは治りますか…?」
「現段階では何とも言えません。症状だけなら食あたりのようですが…妙な点が多すぎます。もっと情報が欲しいですね」
「妙な点…?」
ステファナは小さく頷く。
「一家という単位で発症する事に引っかかりを感じます。発症する家と、発症を免れる家とで何か法則があるような気がするのです」
「単純に悪いものを食べた、とか?」
「山向こうの村で調べたみたいですけど、亡くなった人達が決まって食べていた物は無かったらしいです」
イバンが首を捻るも、ノエルが即座にそれは違うと否定を述べた。
「胃腸風邪であるなら、しっかり対策をすればもう少し感染は防げたはずです。隔離をしても駄目だったと、先程リュシーのお母様からお聞きしました。そうなるとやはり、発症した一家には共通の要因があるのでしょう。アニタ。この枯死病という病気が、帝都付近で流行することは無かったのですか?」
「そうですね。聞いたことがありません」
「類似した病気も無いのですか?」
「はい。胃腸風邪がちらほら出る程度ならありましたが…」
「こんな恐ろしい病気が蔓延したら、いの一番に貴族連中が騒ぎますよ」
「…患者には地域差があり、そして冬季に限定される…積雪量に何らかの関連があるとも考えられます」
「!!」
「雪の少ない地域では患者が出ず、逆に雪が多い地域に患者が限定されるなら、解決の糸口に繋がるかもしれません」
冬になれば当たり前に降る雪が手掛かりになるかもしれないなんて、盲点も良いところである。自分達では思いも寄らなかった発想に、エレナ達は目を見張るばかりだ。
「それに五年前から急に、というのも気になります。シェケツ村の駐屯兵に調査を依頼しましょう。イバン、アニタ。付いてきてもらえますか」
「了解です」
「かしこまりました」
「あっ、あたし達にも何かお手伝いできることはないですか?」
できる事をしたいと願い出るエレナ達に、ステファナは発病者が出た家へ食事を持っていくよう指示を伝えた。食中毒様の症状が出ているため、病人がいる家の食材や貯水は使わずないほうが良いと考えたのだ。原因を特定できていない現状で、講じられる対策はそれくらいであった。
「城の厨房を自由に使ってください。作った食事は戸口の前に置くなどして、直接受け渡すことのないようにしてくださいね」
「わかりました!」
「気をつけます!」
「時は一刻を争います。わたし達もすぐさま向かいましょう」
ステファナ達とエレナ達とで二手に分かれ、この奇病に対する闘いが始まるのだった。