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 シェケツ村で迎える初めての朝。

 三日間に及ぶ馬車旅で疲れていたはずなのに、ステファナは早くに目が覚めてしまった。室内が冷え込んでいたからかもしれない。彼女は持ってきた荷物の中から上着を探して羽織る。それでもまだ少し寒かった。自分の衣擦れの音しか聞こえないので、イバンとアニタはまだ眠っているのだろう。ステファナは足音を立てないよう、城の外へ出た。

 上着の合わせ目を手で押さえながら空を見上げる。今朝は少し雲があった。朝日が山の頂から顔を出せば、雲が幻想的な色彩に変わるだろう。それまで眺めていたかったが、如何せん寒い。ステファナは朝焼けを諦めて中へ戻っていった。


 少し遅れてイバン達も起きたので、ステファナは一緒に朝食の支度をしようと張り切った。ところが二人から座っていてくださいと止められてしまう。それはそうだ。何せステファナが持っていたのは、戸棚に入っていた鍋だったからである。皇太子妃が鍋を手にしているなんて、とんでもない絵面だ。


「わたし、簡単な料理なら作れるんですよ。カルム王国にいる時に特訓しましたので。料理だけでなく、掃除に洗濯…あとは外で寝られるようにも体を慣らしておきました」


 イバンとアニタはお仕えする主人が何を言っているのかわからなかった。


「嫁ぎ先が決まった日から、最悪ひとりでも生活できるよう己を訓練しなければと思ったのです。その成果を見せる時が来て、ちょっとわくわくしています」


 ステファナの母は結婚当初、訳あって野宿を経験したという。詳細は教えてくれなかったものの当時を振り返った母は、己は使用人について行くのが精一杯で大した協力ができなかった、とだけ呟いていた。

 その記憶が残っていたステファナは、嫁いだ後の最悪を想定し、最低限の生活力を磨こうと思い至った。そこから彼女の行動は素早かった。ある日は厨房に突撃し、またある日は洗濯場に乱入し…終いには毛布を一枚だけ持って夜中に寝室を抜け出し、庭で野宿の練習をした事もある。けれど他の弟妹に見られていて結局、皆で毛布に包まり星空を眺めることになったのは大切な思い出の一つだ。


「あまり手の込んだ料理はできませんが、火のおこし方も覚えましたし、パンだって捏ねますよ!」


 得意げに笑うステファナは、ひたすら眩しく見えた。

 そう言われてみれば宮殿の私室が泥で汚された時、ステファナは特にまごつくことなく掃除に取り掛かっていた。皇太子妃に選ばれる位にいる女人が、身に付ける芸事ではなかろう。


「…じゃあ俺、食事する所の掃除してきます。俺は料理がからきしなので」

「はい。お願いしますね、イバン。アニタはわたしと一緒に朝食の準備をしましょうか」

「…かしこまりました。お手伝いいたします」


 特訓したと胸を張っても本職の料理人には到底及ばず、辿々しい手付きになる場面もあった。しかしながらステファナは終始楽しげで、少しくらいの失敗なんて笑顔に変わった。

 手持ちの材料ではパンとスープを作るのがやっとで、皇太子妃も使用人も同じ食事である。けれども埃っぽい食卓は和やかだった。


「この後はどうします?」


 暖炉の火を調節しながら、イバンは本日の予定を尋ねた。


「そうですね…掃除もしたいですが、この村の長へご挨拶に伺うのが先決でしょうか」


 ステファナは白湯を一口飲んでから、のんびりとした口調で返す。


「通達は届いてるのに、わざわざこちらから出向くんですか?」

「通達と挨拶は別物ですよ。ここに住まわせていただくのに失礼があってはいけません」

「住まわせていただくっていうか、強制的に押し込まれただけ…」

「口が過ぎるわ。ステファナ様に口答えするなんて、何様のつもりなの」


 イバンが不平を漏らすとすかさず、アニタが鋭い叱責を飛ばした。

 二人のやりとりを見ていたステファナは「アニタの雰囲気が少し変わった気がします」と指摘する。いつも淡々と役割をこなすといった感じだったアニタが、露骨な言葉遣いをするのは何だか新鮮だ。仕事上控えているだけで彼女は存外、毒舌なのかもしれない。

 主人の指摘は的を得ていたのか、アニタはばつが悪そうに視線を逸らすのだった。


「俺は無表情でいるよりか、今のほうが良いと思う」

「ふふっ、同感です。いずれはわたしとも遠慮なくお喋りしてくださいね、アニタ」

「………確約はできかねます」


 無表情でいる事が殆どだった侍女が、少しずつ素の自分を曝け出せるようになったのなら何よりである。ステファナは優しい顔つきで、二人を眺めていた。




 シェケツ村から出てはならぬと厳命されていたが、ステファナは命令を逆手にとり、村の中なら自由にして良いと解釈した。という事で、空腹が少し紛れた三人は早速、村長の住む家へ向かうのだった。


「おはようございます。昨夜よりこちらに参りました、ステファナ・ウイン=ツェロルバークと申します」


 シェケツ村の村長は深々と頭を下げるステファナを見ても「はあ…これはどうも」なんて、気のない返事をする。


「いつまで滞在できるか未定ですが、何卒よろしくお願いいたします」

「…何もない小さな村です。我々では妃殿下のお力になれないでしょうが、お怒りにならないでくださいませ」


 村長はぼそぼそとそれだけ話して、戸口へ引っ込んでしまった。厄介者扱いされたようにしか思えず、イバンとアニタは内心穏やかではなかった。声には出さなかったが、不満の気持ちが眉間の皺として表れていたかもしれない。しかしステファナだけは違った。


「挨拶も済んだことですし、戻りましょうか」


 二人のほうを振り返ったステファナは、いつも通りであった。平時と変わらない朗らかな表情と声。屈辱を耐えているのか、本気で何とも思っていないのか判別できない。

 毒気を抜かれたイバンとアニタは主人に倣って踵を返した。ところが城に戻る道中で村人と思しき男が四人、ステファナの行く手を阻んだ。


「お、俺達に何か用ですかね…?」


 男達が道を塞いだのを見たイバンは、すぐに一歩前に出てステファナを背中に隠す。護衛を兼ねた侍従であり、軍籍も持つ彼しか、皇太子妃を守る人間がいないのだ。柄でもない事をしている自覚がイバン自身にもあったし、何なら思いきり吃りもしたけれど、ここで逃げ出すような腰抜けでなはい。


「あなたが皇太子妃サマですか」

「はい。ステファナと申します」


 明らかな憎しみが相手からひしひし感じられるというのに、ステファナは動じていなかった。それどころか、こんな場面でも微笑みながら腰を折る始末である。だがしかし、今回ばかりは逆効果となったようだ。男達は一斉に詰り始めた。


「よくもまあ、呑気に笑えるものだ。オレ達の暮らしを滅茶苦茶にしておいて…!あなたのせいでね!我々は兵役を解かれ、仕事が無くなっちまったんですよ!」

「無給でどうやって家族を養うのか教えてくださいよ!お育ちが良いなら分かりますよね?市場に行くたび、値札の数字は増える一方なのに、なけなしの給金は奪われた…!あなたは強奪者だ!我々のような弱者から搾取する極悪人だ!!」

「あなたのおかげで食い物にありつけるようになった、なんて有り難がる連中もいますけどね。オレ達は騙されませんよ。ほら、何か仰ってはどうです?」


 婚姻に際してカルム王国が提示した条件の一つに、帝国軍の縮小が含まれていた。となれば軍隊から離籍せざるを得ない者が出るのは必至である。


「…皆さんの窮状についてわたしの認識が甘かった事は、大いに反省したく存じます」


 ステファナは微笑みを仕舞い、誠実に謝罪した。でも、彼女の言葉はそこで終わらなかった。


「しかしながら軍の縮小はウイン帝国とカルム王国、双方の合意のもとで実現したことです。これは和平が目的であって、強奪が目的だったのではありません」


 うら若き女人に毅然と正論を説かれた事は、男達の矜持を傷つけた。怒りが頂点に達したらしい一人の男は、足元にあった石ころを掴み、その手を大きく振り上げる。

 このままでは投石される、と焦ったのはイバンである。彼は反射的に腰に帯びていた剣へと手を伸ばす。


「イバンッ!やめて…」


 やめてください、そう言って制止したかったのだろう。ステファナは剣が鞘から抜かれぬよう夢中で手を伸ばした。だが、後ろから身を乗り出すような体勢になったのがいけなかった。上半身がイバンより前に出たため、投擲された石がステファナの額に当たってしまったのだ。固い衝撃をまともに受け、彼女の声が途切れた。


「…っ!」


 そこまで大きくはないが、小石と呼ぶには不適当な石である。額の皮膚を裂くには充分だった。傷口を押さえる白い指の間から鮮血が伝う。しかし傷つけられてもなお、ステファナの片手はまだ剣の柄に置かれたままだった。


「ステファナ様っ!!」

「大丈夫ですか!?」


 地面に落ちる血を見たイバンとアニタは、顔面蒼白になって悲鳴を上げた。アニタは急いで持っていたハンカチを使い、止血を試みる。


「さ、先に飛び出してきたのはそっちだからなっ」


 皇太子妃を流血させたことで男達の怒りは急激に下降し、今度は激しくうろたえ始めた。終いには情けない声で捨て台詞を吐き、せき立てられるようにして去っていった。

 逃げ帰る後ろ姿に、イバンは短く舌打ちをする。追いかけて成敗してやりたいが、今はステファナの怪我のほうが心配だった。医者を探してこようかと提案するも、ステファナ本人がそれを断った。


「皮膚が切れただけで、大事ありません。手当ても自分でできます」

「じゃあせめて駐屯兵に通報しに…」

「彼らを咎めないでください。わたしが言葉選びを誤りました」

「………」

「戻りましょう」


 受け答えも足取りもしっかりしているし、脳に影響は無さそうである。頭部の傷は総じて出血しやすいものだ。そうはいっても、皇太子妃が頭から血を流している姿を目の前で見せられては、気が気ではなかった。


 二人に付き添われながら城に戻ったステファナは、てきぱきと傷口の処置を始めた。血で汚れた顔を拭い鏡で確認したところ、思った通り傷自体は浅く、既に血も止まっている。傷口を清潔に保つことに注意しておけば、痕も残らず治るだろう。包帯が無かったので白布を裂いて代用する。アニタが巻いてくれると言うので、仕上げは任せることにした。


「……もう、やめませんか」


 背後に立って巻き終わりを処理していたアニタは、小声を絞り出したのだった。


「アニタ?」

「…権力とお金が物を言うこの国で、正義なんて守るだけ無駄です。たったおひとり、正しい行いを貫いて何が変わるというのですか。ステファナ様がどれだけ尽力なさろうと、こんな帝国の片隅で起きた事など誰の耳にも入りませんし、興味すらありません。ゼナス殿下も仰っていたではないですか、抗っても虚しいと…ぼろぼろに傷ついて終わるだけなのは目に見えています」


 アニタの訴えには切実な響きがあった。彼女はこれほど滔々と己の意見を主張できたのかと、ステファナは変なところに驚く。


「…心配してくださってありがとう、アニタ。でも、やめることはできません」

「ステファナ様…」

「アニタもイバンも、限界を感じたらいつでも離れてください。危険を共にする必要はありません。わたしは誰も道連れにしたくなくて、祖国をひとりで出たのです」


 危険は承知、傷付くのも想定内、死ぬことさえ覚悟の上だった。そして、それらを背合うのはステファナひとりである事も。


「ステファナ様はもっと自分を大切にしてくださいよ…」


 弱々しく忠告したのはイバンだ。彼が見ていると、ステファナは照れたような笑みを浮かべるのだった。


「自分を蔑ろにしているつもりはありませんよ?でもわたしの周りの人達が、少しの隙間も無いくらい大きな優しさで囲んでくれたので、自分に向ける分は少しで良いのです」


 彼女の笑顔は、愛らしくて癒しをもたらす野の花のようだ。綺麗な花を前にあれこれ御託を並べるのは無粋な気がして、つくづくこの主人に敵わないと思わされる。観念するしかなかった二人は、いつの間にか入っていた肩の力を抜くのだった。


「…ついてきたのは、紛れもなく俺達の意思ですから」

「…自分の行動には自分で責任を持ちます」


 たとえ口では勝てないのだとしても、これだけは念押ししておきたかった。

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