お山の龍は人でなし
「お腹が空きました」
国を見下ろす霊山の上で、女はペタリと地面に座り込んで言った。
「お供えを食べに行ってくればいいだろう」
「歩くの無理です」
「怠け者めが」
女を見下ろす男が「ふん」と鼻を鳴らすと、女は麓の村にいた。
男の術で、一瞬にして村まで送り届けられたのだ。
「もう、人でなし!」
小さく頬を膨らませて一言呟くと、女は元気に立ち上がってスタスタ歩き出す。
「姫様! おはようございます」
「姫様、ご機嫌いかがですか?」
村人の歓迎の声に笑顔で応え、女は村の奥にあるお堂に入った。
そこには、お供え物が山と積まれている。
お堂の管理人が、すぐにお茶を淹れ、果物をむいてくれた。
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。
龍神様のお陰で、今年も豊作でございます」
この国は、雲をついて聳え立つ霊山を中心にして興された。
霊山には大昔から龍神が住み、大地を潤し、肥沃な土壌を生み出し、生き物に恵みをもたらしていた。
ところがある時、様子がおかしくなった。土地は乾き、人々は飢え、野生動物と少ない食べ物を奪い合う、そんな時代になってしまった。
龍神が狂ったのかもしれぬ、と皇帝の姫君が霊山に赴いた。
やがて、再び大地は鎮まり、生き物たちは必要以上に争うことなく、平和な時代が戻ったのだった。
姫は、皿の上の果物を口にした。
甘い。豊穣の味だ。
「ごちそうさま」
「もう、召し上がらないのですか?」
「ええ、これだけ頂けば十分なの」
本当のところ、霊山で暮らすようになった姫には、空中のわずかな気を拾い上げて体内で循環させる能力が備わった。
食事をすれば味も感じるし、満腹にもなるが、食べなくても困ることはない。
我ながら、ずいぶん人間離れしてしまったものだと苦笑する。
「何か困っていることはないかしら?」
「少しずつ寒さが増しておりますので、年配の者が、関節が痛み出したと言っていました。それくらいでしょうか」
姫は頷き、山の上で摘んできた薬草を取り出すと、一瓶の薬を作った。
「お堂裏の泉の水を薬瓶に満たし、一滴だけ、この薬を垂らして、調子の悪い方に差し上げてください」
「ありがとうございます」
姫は泉に祈りを捧げ、お堂にやってきた者たちの話を聞いた。
空が茜に染まる頃、男が姫を迎えに来る。
「用事は済んだか?」
「はい」
「……帰るか?」
「はい!」
男は姫を抱き上げ、ふわりと浮き上がる。
そして、見る間に龍の姿になって、雲の上へと消えた。
「満腹になったか?」
己の背にしがみついている姫に、龍が尋ねた。
「いいえ、果物を少し頂いただけですもの」
「せっかく麓まで送ってやったのに」
「わたしの食べたいものは、麓の村には無いのですもの」
龍は黙ってしまう。
山頂についても、姫は龍から降りようとしなかった。
「降りなさい」
「嫌ですわ。もうしばらく、こうしていたいのです」
「ではこのまま、村に戻ろうか? 夕餉をもらって、泊まってくればいい」
「どうして、そんな意地悪を仰るの?」
「お前が我が儘を言うからだろう?」
「我が儘で、何がいけませんの?」
姫の目から涙がこぼれた。
こぼれた涙は珠になり、龍の金の鱗に当たり、シャラリと音を立てた。
龍を鎮めるために姫が遣わされた時、その護衛として都から百人の兵士がついて来た。しかし、麓に着くと、そこからは一人で行くと姫が宣言したのだ。
「強大な力を持っている龍神が一度暴れれば、武力など何の足しにもなりません。皆さんの力は、民を守るためにお使いください」
龍神を鎮められなければ、他の手立てが見つかるまで生き物同士の争いは続く。
無駄に命を散らすべきではない。
一日かけて姫は頂上まで登って行った。平地ならば途中で野生動物に襲われるだろうが、霊山には龍神がいる。その気に恐れをなして、熊や虎ですら山には入らない。
「何をしに来た?」
頂上には、まだ若く見える男が一人、ぼんやりと佇んでいた。
「龍神様にお会いしに」
「会ってどうする?」
「心をお鎮めいたします」
「……勝手にするがいい」
山を登る間に、姫には痛いほど感じ取れた。
この世界が出来てから、この霊山に龍神が降りてから、どれだけの時が経っているのか。
龍神はただ、ここに縛られて、他の生き物のために在るだけなのだ。
感謝されても、敬われても、その孤独は癒されない。
龍神は狂いそうなほどの孤独に苛まれながら、それに呑まれて地を荒らさぬよう、必死に耐えていた。
本当に狂ったら、この地は一瞬にして全ての生命を失い、無の世界となってしまうだろう。
孤独から来る哀しみの波動を抑えるのに精一杯の今は、地上に豊穣をもたらすことができない。
ただひたすら、一人で苦しんでいた。
大気を食む龍神は食物を必要としない。
姫は都から持って来た茶を淹れる。
龍神は黙ってそれを飲んでいたが、やがて茶葉が尽きた。
「この茶も悪くはないが、山に生えている霊草も茶にするとなかなかだ」
「まあ、飲んでみたいですわ」
姫は龍神に教わりながら、霊草を摘んで茶葉を作った。
「あら、本当、美味しいです」
姫が微笑むと、龍神は黙ってそっぽを向いた。
「あの」
「何だ」
「その長い御髪に櫛を入れても?」
「梳いても変わり映えはしないぞ」
「わたしが梳いてみたいのです」
龍神が黙って背を向け、石の上に座る。
「いつも、お餅や果物をありがとうございます」
髪を梳きながら、姫は礼を言う。
「私が用意したのではない」
姫が麓に残してきた百人の兵士のうち、半分が麓に残り村を作った。
そこでお堂を建てて、毎日、お供えを欠かさない。
「それでも、麓までわざわざ取りに行ってくださったのでしょう?」
龍神は返事をしなかったが、その雰囲気は少しばかり和らいだように感じられた。
毎日、共に茶を飲むこと一年。
それから、髪を梳くこと一年。
何気ない時を姫と過ごすことで、龍神は落ち着いていった。
気付けば、すでに十二年。
麓の村では兵士が家族を呼び寄せたり、新たに嫁を貰ったりして、所帯を増やしている。
人間も動物も、すっかり穏やかに暮らせるようになった。
けれども、龍神と姫は見た目も距離も、何も変わらないままだ。
霊山の結界内に入ってから、姫も歳をとらなくなってしまった。
『下界に戻りたくはないのか?』
龍神は、その一言が言い出せずにいた。
一人霊山に残されれば、また、自分は孤独に苛まれるやもしれない。
だが、このまま置いておけば、姫は人の世界に帰り辛くなるばかりだ。
「お嫁様にしてくださいませ」
ある日、業を煮やした姫が言い出す。
「は?」
「わたしを、貴方様のお嫁様にしてくださいませ」
卓の向かい側から、姫はじっと龍神を見つめる。
「……私の嫁になったら、永遠のような時間を私と二人きりで過ごすのだぞ?」
「そうしたいのです。わたしは貴方の側にいたいのです」
「お前が一人、国の民のために犠牲になることはなかろう」
「龍神様がお一人で犠牲になることもありません」
「……これは私の務めだ。犠牲とは思っていない」
「それでも……」
「そうだな、私はまた地を荒らしてしまうかもしれない。
お前が下界に帰ったら、天の神に願ってみよう。
新しい龍神を遣わしてくださいと、な」
姫は息を呑む。
「新しい龍神様がいらしたら、貴方はどうなるのです?」
「新しい龍神に食われるかもしれん」
そうしたら、全ての悩みごとが消えてなくなる。
それはそれで、気楽で良いかもしれない。
少し口元を緩めた龍神に対して、姫はまた涙をこぼす。
「それなら、わたしも一緒に食われます」
「なぜだ!?」
『ああ、全く、お前たちときたら。
いつまで痴話げんかを続けるつもりなのだ?』
ふと見れば、卓の空いたところに、光り輝く者がいる。
初めて目にした姫にもすぐにわかる。
天の神だ。
『龍神、久しいの。ああ、姫よ、儂にも霊草茶をくれないか』
「……か、かしこまりました」
『新しい龍神は授けよう。
しかし、その心が安定するよう、お前たち二人で育てねばならぬ』
「……仰せのままに」
『育てるとなれば、お前たちの子として生まれるのがよかろう。
ほれ、番の鱗を出さぬか』
番の鱗を差し出すのは、龍神からの求愛だ。
『……儂に差し出してどうする、呆れた奴だ』
番に与えるための、ただ一枚しかない鱗を神に向けた龍神が叱られる。
姫は我が事のようにハラハラした。
龍神は姫に向き直ると、やっとその言葉を口にする。
「下界に戻りたくはないのか?」
「はい、少しも。
貴方の御側に居るのが、わたしの幸福です」
「私も、お前に……側に居て欲しい」
「はい、いつまでも」
姫は番の鱗を飲み込んだ。
身体が少しずつ銀色に輝きだし、やがて龍の姿になる。
恐る恐る浮き上がっていく銀の龍を、金の龍が導くように共に飛ぶ。
『まったくのう。
この霊山に登ることを許された時点で、あの娘は龍神の特別だったのにのう』
龍神の寿命が長いとはいえ、求愛するだけで十二年はさすがに……。
『まあ、よいよい。
龍神もようやっと一人前になった』
天の神からすれば、龍神の長寿すら、ほんの一瞬。
『子が生まれた頃にまた、見に来るとしようかの』
空の上で戯れながら飛ぶ二人を見ながら、天の神は祝福するように笑った。