黒猫フィフィの忠告
レイマール聖堂の朝は早い。私は、冷たい水で身体を清めて、金色の髪を後ろで三つ編みにした。水に映った青い瞳はまだ眠そうで、気を引き締めなくてはと思う。主神ガヌスにお祈りをするのは私たち、聖女候補の務めだ。
聖女候補というのは、十年前王様の側近だった予言者が言い残したという有名な逸話に基づいて探しだされた、神の寵愛を受けたと思われる娘のことらしい。
何を以て聖女とするのか、私は知らない。
春の柔らかな日差しが、礼拝堂の硝仔窓から差し込む。
跪き、指を組み合わせ、目を閉じたところで、ドンっと何かとぶつかった。
「邪魔よ、ミレーネ」
あら、と目を瞬かせる。
「ロザリー様、もうお祈りを終えられたのですか?」
道を譲りつつ聞くと、当たり前よ、と彼女は鼻を鳴らした。
「どっかの誰かさんと違って、私はトロくさくなくてよ」
いつものことだ。他の候補者達もなぜかぶつかりながら帰って行くけど、私は笑顔のまま見送る。
ロザリー様は燃えるような巻き毛が美しい筆頭聖女候補だ。元は貴族だった彼女は、一流の彫刻師だって作れないような整った容姿から、神の寵愛を受けているとして、聖堂に入ったという。
十年前、私も聖女候補に選ばれ、レイマール聖堂へやって来た。
孤児院のシスターが動物に囲まれ、温められている私を発見したというエピソードから、もしかしたら、と推薦して下さったのだ。
でも、といつかのロザリー様の忠告を思い出す。候補の中でも一番下っ端の仕事をしているあなたが、聖女になんてなれるわけないわ。身の振り方を今のうちに考えるのね、と彼女は言った。
その時は頭が真っ白になったけれども、あれは彼女なりの優しさだったのかなと今は考えている。
だって、神官様を見る限り、私は聖女には選ばれないだろうから。
「ミレーネ、これもお願いね」
「はい」
朝のお祈りを終えると、大量の洗濯物を抱えて川へ行く。
他の聖女候補たちは別の務めに忙しいらしく、私一人の仕事だった。
「なんか最近洗濯物、増えた気がするなぁ」
しゃがんで鼻歌を歌いながら手を動かす。冷たい水だが慣れた仕事は気が楽だ。他の聖女候補みたいに、知らない人に薬を塗ったり、祈ったりするのは、とても神経を使うので疲れる。私は、薬草を育てたり、洗濯をしたり、地味な方が合ってると思う。
ふと顔を上げると、鼻歌に合わせて、私から少し離れた木の上で小鳥達が鳴いている。
草むらには兎がいて、それもやはり五歩分くらいのところで耳を揺らしている。
「おいで、おいで兎さん」
手招きをしてみた。
私は、赤ん坊の頃、動物に助けられたと聞いて育ったので、彼らと触れ合いたかった。
兎が一歩踏み出してこちらへ近づいた時だった。びゅうっと少し冷たい風が吹いて、ザザァと草むらが揺れる。私は、あかぎれの目立つ指で髪を押さえた。あたりの温度が下がった気がして、立ち上がって粟立つ腕をさする。
『ミレーネ』
「フィフィ?」
風が止まる。静寂が訪れてそこには黒猫が一匹。
あたりを見回すと、小鳥達も、兎も姿を消している。
『どうした?』
がっかりと肩を落とす私に、フィフィと名付けた喋る黒猫は楽しそうに問いかける。
金色の瞳は心なしか釣り上がり、ニヤニヤと笑っているみたいだ。
「あともう少しだったのに」
『兎に触れなかったのが、そんなに落ち込むことか?』
「見てたのね?」
思わずじとっとした目で睨んでしまう。
フィフィとは、私がこの聖堂に来てから出会った。
彼は、時折ふらりと現れて、たわいもない話をして消えていく。
フィフィという名は、名がないと言ったので、初めてあった時に私がつけた。
思えば、私は初めこの猫が怖かった。喋る猫なんて魔物以外考えられなかったが、神官様の結界の張ってある聖堂に入れるところを見ると、そんなに悪いものでもないのだろう。
おお怖い、とフィフィは首をすくめる。その様子は、威厳のかけらもない。
『まあ、そんなにガッカリするなよ。あいつらに悪気はないさ』
触るか? とフィフィが頭を差し出すから、グシャグシャのわしゃわしゃにしてやった。
『お前ね……』
フィフィは引いているようだったが、むしゃくしゃしていたから仕方ない。
ああ、忘れるところだった。
「祝福がありますように」
最後の仕上げに彼の身体を抱き上げて、額にキスを一つ。
「いつもありがとう。フィフィ」
『……どういたしまして』
「そうだ、もうそろそろ聖女選定の儀があるのよね。儀式が終わったらどうしたら路頭に迷わないかしら」
『……どういうことだ?』
「選ばれなかった聖女候補は、別のお仕事をしなければいけないでしょう? 私、特技なんてないし、聖堂の下働きとして置いてくれるかしら?」
『……どうだろうな』
ふいっと彼は視線を逸らした。
そっけない猫なんだから。
ところで、と視線で大量の洗濯物を指しつつ、フィフィは言う。
『最近魔物が出るという話は知っているか?』
知らない、と頭を振る。
なんで聖女候補なのに知らないんだ、と彼はため息をついた。
『他の奴らは最近外に出たがらないだろう?』
「そうだったかしら」
『とにかく、気をつけろよ』
呆れたようにそれだけ言い残して、フィフィは消える。
なんだかんだ言って優しい猫なのだ。